第三章 王都ルティウス(7)
ガーナ伯爵邸は、青湖のほとりに建つ瀟洒な邸宅である。
規模としては中程度だが、白大理石の壁が青い湖に映りゆらめいている様子はたとえようもなく美しく、昔からさまざまな画家がその風景を描いてきた。
また、青湖をうまく利用して作られた庭は高名な作庭師の手によるもので、王都で一、二と言われるほど美しく趣のある邸として知られている。
そして、そこに住む住人は更に美しいとも囁かれていた。
「……うつくしいが、このせいじゃくはまるでゆうれいやしきだな」
通されたのは、まるで主の居室かと見紛うばかりの豪奢な室だった。
客室とは思えない美しく豪奢な調度品の数々は、ガーナ伯爵家の財力を如実に現している。
だが、シェスティリエの言葉どおり、邸は恐ろしいほどの静寂に支配されていた。
普通、貴族の邸ともなれば、使用人たちが忙しく立ち働いていて、もっといろいろな生活の音が聞こえてくるものなのに静まりかえっている。
「ほんとうにでます?これ」
ルドクは幽霊の真似をしてみせながら、内心怯える心を何とかなだめていた。
「さあな。でも、あんずるひつようはない。ゆうれいというのは、くうかんにやきついたつよい『しねん』にすぎぬ。きまったこうどういがいはできないのだ。いしのあるものではないからな」
「え、幽霊話の幽霊は、普通にしゃべるじゃないですか」
「それは、ほんにんのたましいのいちぶだろう」
「……………それを幽霊というのでは?」
「そうなのか?」
「ええ、たぶん。…………シェスさまは、幽霊を怖いなんて思わないんですね」
ルドクは小さな溜息をついた。
自分が人より臆病だと言う自覚はあるが、シェスティリエの幽霊を幽霊とも思っていないようなその様子と比べるとあまりにも情けない気がしたのだ。
「ぐもんだな、ルドク」
「あー、その質問は聞くだけ無駄だろ。……そもそも、それは、姫さんにも怖いものがある前提だろ」
「しつれいなおとこだな、イシュラ」
「いえいえ、我が主が、何かを怖れる姿など想像できないだけですよ」
「……シェスさまもイシュラさんも、同類ですから!」
ほんのちょっとでいいから、その豪胆さを分けて欲しいと思う。
「余裕ですよね、シェスさまもイシュラさんも」
「なにがでるかはしらぬが……むきずのイシュラがいて、わたしがおきているのなら、たいがいのことは、きりぬけられるよ、ルドク」
イシュラもそのとおりだと言うように大きくうなづいている。
「…………そうですね」
大陸有数の剣士と、おそらくは世界最高ランクの頭脳の持ち主だ。それこそ、無敵のコンビだろう。
「……ところで、参考までに聞くんだが、姫さんが切り抜けられないことって何です?」
ふと、思いついたようにイシュラが問うた。
「そうだな……たとえば、おとしあなにおちたら、ぼうそうしたりゅうのむれのうえについらくしたり……。あとは、いえのドアをあけたら、どこかのみずうみのそこだったり……。それから、まいごになってとほうにくれてたら、あたまにごくらくちょうのはねをさしたうさんくさいおんなことばをしゃべるおとこにプロポーズされたり……とかだ」
何を思い出したのかシェスティリエの表情が、だんだんと暗くなりはじめる。
「それ、例として正しくない気がします……」
「…………………姫さん、それ、どんだけ特殊事例だよ」
「し、しかたないだろう。わたしだって、そういうことがあったらパニックになるし、とほうにくれる」
(もしかして、実体験?いやいや、それはありえないし!だって、竜なんて、深い山の奥地にしかいないし!)
「……シェスさま、竜はそこらにはいませんし、家は水の底に勝手に移転はしません。それに頭に極楽鳥の羽つけた女言葉をしゃべる男って、そんな人がそこらに普通に歩いてたりとかしませんから。……え、なんです?イシュラさん」
イシュラの物言いたげな表情がルドクは気になった。
「……あのな、ルドク。その極楽鳥、ローラッドの第二皇子だから」
「へー、第二皇子……皇子?え……イシュラさん、知ってるんですか?」
「ああ、まあ、ちょっと……」
過去の思い出したくない記憶の中に、それは封印されている。
シェスティリエとイシュラは互いに目を見合わせ、互いの精神衛生上の為にそれを再封印する事を無言で了解しあった。
「……シェスさまとイシュラさんのそういうとこ、仲良すぎですよ!目線で会話して」
「なにをいう。ルドクだってわかるだろう?わたしがきけってめでいったのを、ちゃんときづいたし、きいてほしいことをきいてきたじゃないか」
「あ、ああ……あれはだって、あの流れなら当然じゃないですか」
「イシュラにはわからなかったぞ、ぜったいに。だから、べつにおまえがわからないことがあってもおかしくない」
「なーんだ、ルドク、嫉妬か、生意気に」
「そーいうんじゃないです!」
「ばーか、そういうのだよ。オレに嫉妬しても無駄、無駄。────何たって、オレは姫さんに剣を捧げてんだからな」
イシュラはぐしゃぐしゃとルドクの頭を引っ掻き回す。
「頭かき混ぜるのやめてくださいってば……」
「おまえは、おまえにしかできないことをすりゃあいいんだよ」
はははは、とイシュラは笑う。
「僕にしかできないこと……?」
「そうだ。……姫さんだって、一人で何でもできるわけじゃないしな」
「そのとおりだ。……まあ、いろいろとやってもらいたいことはあるのだが……」
「な……」
何を、と問おうとした時、こんこんと控えめにノックの音がした。
気配が、変わる。
警戒――――― ぴんと空気が張り詰める感覚がある。
イシュラの横顔がどこか鋭さを増した。
こういう時、イシュラが武人であることを……剣を持つ人間である事を、ルドクは強く思い知らされる。
「どうぞ」
失礼致します、の声と共に入って来たのは、少女だった。
「皆様、こちらにお揃いでございましたか、お待たせして申し訳ございません。お食事の用意が整いましたので、どうぞ、食堂においでくださいませ」
淡いグレイのワンピースに白のカフス、白のヘッドドレス、そして、レースの飾りのついた白のエプロンが、ガーナ伯爵家の女性使用人のお仕着せらしい。
スカートの裾をふわりと揺らして、十七、八歳のおとなしげな少女は深々と一礼した。
「はい」
シェスティリエは、にっこりと笑みを浮かべた。
珍しい天使の微笑の大安売りだ。
(……今度は一体、何があるんだろう……)
シェスティリエがこんな風に笑うのには、絶対に何か意味がある。シェスティリエは無駄なことはしないし、彼女はそうそう笑顔を見せる方ではない。
(女王様笑いはよくするけど……)
こっそり、『女王様笑い』とルドクが名付けたのは、シェスティリエがよくやる、口元だけにひややかな笑みを浮かべるアレだ。
どちらかというと、アレがシェスティリエの普通の笑いである。
だから、そういう笑いなら、ルドクは別に驚かないし警戒心もあまりわかない。
(……何も知らなければ、うっとりと見惚れられるんだけどなぁ……)
うっとりするには、ルドクはシェスティリエの性格を知りすぎている。
彼女が笑っている時は要注意だということは、イシュラと何度も確認した重要事項なのだ。
(まあ、何があっても、とりあえず慌てないようにしよう……お二人の邪魔にならないように)
ルドクができることはあまり多くはない。だから、せめて邪魔をしないようにしたいと常々思っている。最近では山賊が出たくらいではまったく慌てなくなっている。少しは頑張っている成果が出ているのかもしれない。
「ご案内させていただきます」
前に立つ彼女の表情がどこか強張ってみえるのは、ルドクの気の回しすぎだろうか?
「……ルドク、せっかくのしょくじだから、えんりょなくいただくのだぞ」
「はい」
「腹壊しても姫さんが何とかしてくれるから」
「もちろんだ。あ、これをさきにのんでおくがよい」
シェスティリエになにやら黒い丸薬を渡される。
「なんですか?これ」
「ふつかよいよぼうやく」
「……へー、そんなのあるんですね」
ルドクはあっさりとその丸薬を口にいれる。
「うわ、苦っ」
舌先が痺れるほどの苦味に顔をしかめた。
「薬だからな」
「りょうやくはくちににがし、というではないか」
「そうですけどね」
法衣の飾り帯を整えているシェスティリエを、イシュラはひょいと抱え上げる。
「……あれ?シェスさま、お疲れなんですか?」
「ん、きょうはだいぶあるいたからな」
イシュラが何も言わずに抱き上げることとか、シェスティリエがそれを当然のことだと思っていることを、ルドクは口惜しいと思う。思い起こせば、この二人は出会ったときからそんな感じだった。
(なのに、それが気になるようになったっていうのは、僕が変わったからなんだろう……)
シェスティリエの無条件の信頼を受けているイシュラが羨ましいと思ってしまうのだ。
「ルドク、エーダ・ラナはなにがおすきだろう?あす、ゆくときにかっていきたい」
「え、ラナ司祭ですか?」
唐突な言葉に首を傾げる。
ビクッと前を歩く少女の背が震えたのがルドクにもわかった。
目線をあげて、イシュラを見る。イシュラは知らぬフリをしていろと目で言う。小さくうなづいた。
「えーと、ラナ司祭は、甘いものがお好きですね。水飴とかお喜びになると思いますよ」
「そうか」
先に立って案内する背中……ドアノブにかけた手が、小さく震えている。
この唐突な言葉のやりとりに何の意味があったのか、ルドクにはさっぱりわからない。
(後で聞いてみよう……)
少女は気を取り直すかのように息を吸って、それから大きな扉を押し開く。
「ど、どうぞ……」
ルドクには聞き取れなかったものの、すれちがいざま、シェスティリエが何かを囁いた。
びくり、と大きく身体を震わせ、凍りついたかのように硬直した。
呆然とした表情……よほどショックなことを言われたのだろう。
ルドクが振り返ると、閉まる扉の向こうに立ち尽くした少女の表情は、怯えではなく恐怖に彩られていた。