第三章 王都ルティウス(5)
「……身内の恥を晒すようですが……あの子は、この聖堂で虐めを受けているようなのです」
シェスティリエが考え込んだ様子を目にしたラナ司祭は、何度か躊躇いながらも苦しげな表情で口を開いた。
皆の視線がラナ司祭に向く。
シェスティリエがそれを察していることがわかっていたのだろうラナ司祭は大きな溜め息をついて更に口を開く。
「私の目の届く範囲では、決して行われません。ですが、私はあの子とずっといてあげることはできない」
「……………………」
「何よりも、私は、あの子だけを特別扱いするわけにはいかないのです」
「………………なぜですか?」
シェスティリエは不思議そうな表情で問うた。
「私はこの中央聖堂の司祭です。あの子に障害があろうとも、他の神子たちと平等に扱わねばなりません」
平等に愛を注がねば不公平になります、と目を伏せる。
シェスティリエは軽く首を傾げたが何も言わなかった。
彼女にはラナ司祭とはまったく違った見解があったが、言ってもどうしようもないことだからだ。
「………こちらのせいどうの、きょかがいただけるのなら、わたしがつれていってもいいです」
「え?」
「ほんにんのいしもありますが、わたしのじしゃとしてもいい、ということです。つまり、わたしが『しさい』いじょうのかいいをうけたら、かれはわたしのじさいになる」
侍者とは、聖職者の身の回りの世話をする者を言う。
これは、今、ルドクがそうなっているように、信者であれば誰でもなれる。
だが、神子を侍者とするのは、それとはまったく意味を異にする。
神子は聖堂で育てられた子供だ。
そのため、洗礼を受けた後、聖堂で奉仕することを義務づけられている。
奉仕期間は、洗礼を受けるまで聖堂で育てられていた期間とされている。
神子の洗礼は15歳までに行うとされていて、だいたいの場合、15歳ぎりぎりで洗礼を執り行う事が多い。これは、なるべく長く聖堂に奉仕させる為だ。
奉仕期間を短くする方法の一つは、誰か聖職者の侍者となることだ。
ただし、侍者となるには、その神子を侍者とした者がそれに見合う喜捨を行わなければならない。
大概の場合、能力のある子を見いだした者が教父(教母)となり、侍者にすることが多い。
もっともこれは、奉仕する相手が聖堂でなく侍者としてくれた聖職者個人になるだけで、実質には何も変わりがないとも言われている。
だが、侍者となるということは、その聖職者の庇護下に入ったことを意味する。
今のイリに必要なのは、その庇護だ。
いや、とラナ司祭は内心でそれを否定した。
庇護以前に、ここから連れ出してくれればそれだけでイリは救われる。
「よろしいのですか……?あの子は声が出ないのですよ?」
声が出ない……それは、ほとんどの法術が使えないということだ。
それは、神官としての出世の道がないということと同意だった。
かといって、彼が剣術や体術に優れているかは未知数だ。
今の細い身体を見る限り、武官として大成することはかなり困難に違いない。
そんな神子を侍者とする……それは、シェスティリエにとっては厄介ごとを抱えるという意味でしかない。
「かまわない。……わたしはごらんのとおりのむらさきのひとみだから、もともとまじゅつのこころえがあります。イリにもつかえるほうじゅつをさがすこともできるでしょう」
「私には願ってもないことです。ですが、保護者の方は……」
眼差しはイシュラに向いている。
ラナ司祭は、シェスティリエの幼さに、イシュラを聖都にまで送り届ける保護者だと思ったらしい。
「主が望むのであれば、別に異論はありません。……エーダ・ラナ、オレはファナ・シェスティリエの聖従者です」
ぶっとルドクは噴き出しそうになるのを無理やり飲み込み、軽くむせる。
(べ、別人だよ、イシュラさん……)
騎士らしいそぶりもたびたび見てはいたのだが、これはもうまったくの別人だ。
いったい別人だろうといいたくなるような見事な変わりっぷりだ。
「まあ……そうなんですの?」
「はい」
シェスティリエはうなづく。
聖従者を持つ者は少ない。
聖従者は、聖職者に剣を捧げた騎士を言うのだが、聖職者に剣を捧げた騎士であっても、自身が洗礼を受けている者は聖従者とは呼ばれないからだ。
「ああ、でも、ファナのこの幼さでは、当然ともいえますわね」
幼いシェスティリエを守る為に、親がつけたのだろうとラナ司祭は思ったようだった。
コンコンという小さなノックとともに、イリが戻ってくる。
手には十数枚の魔力板が握られていた。
「まあ、イリ……頬をどうしたの?いらっしゃい」
頬を張らし、目の下に青いアザを増やしたイリは、ふるふると首を横に振る。
「大丈夫よ、治すだけよ」
だがイリは、ぱたぱたと駆け寄ると魔力板をシェスティリエに差した。
「ありがとう、イリ」
ぱあっと笑顔がひらいた。
その瞳がきらきらと輝いている。
(えーと……一目惚れ、とかなのかな……いや、何か違うような)
ルドクはその様子を見ながら首を傾げた。
シェスティリエが何かした様子はまったくなかった。さっきまで、ほとんど視線すら交わしていなかっただろう。
そして、一目惚れというにはイリの目の中には甘い熱がない。
「ファナ、どうやら、イリは貴女と行くことが幸せになれる道のようです。私の方で手配いたしますので、明日、大司教様がお戻りになったらお話をしていただけますでしょうか?」
「はい。……では、あす、またうかがうようにいたします」
「今日は、こちらに滞在なのでは?」
「………さきほど、ガーナはくしゃくから、ごしょうたいをいただきましたので」
「ガーナ伯爵から……ガーナのお屋敷に?」
「はい」
ラナ司祭の表情が曇る。
「……伯爵家で何か?」
尋ねたのは、イシュラだ。
「いえ、特に何というわけでもありません。ただ、伯爵家は第三王女の件でいろいろと大変なようですから……」
「……訪れない方がいいと?」
「そうとまでは申しませんが……先日も第三王女様を狙ってお屋敷が襲撃されたとも聞きます。どうか、くれぐれもお気をつけ下さい」
「ええ、もちろんです」
(……そんな物騒なのかよ)
イシュラは腰の剣の柄頭をとん、とん、と叩く。久しぶりに出番があるのかもしれない。
シェスティリエは、例の冷ややかな笑みを浮かべていた。
物騒なことはどうやら最初から承知だったらしい。
ラナ司祭はルドクと挨拶をしていて気づいていないが、イリはじーっとその表情を見ている。
シェスティリエは、その冷ややかさをまったく隠そうとしていなかった。
だが、イリはことさら驚いた様子もなく、飽きもせずに見つめつづけている。
くるりとシェスティリエがイリの方を向いた────そして、小さな柔らかい笑みを見せる。
「また、あしたね、イリ」
シェスティリエの言葉に首を傾げ、意味がわかった瞬間にその表情がぱあっと明るく綻ぶ。そして、こくこくと首を振った。
誰が見ても、一目で好意があるのだとわかる。
イリは、ルドクを置いて出たシェスティリエとイシュラの姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。