第三章 王都ルティウス(4)
「どうぞ、お入りになって」
案内されたのは、聖堂の礼拝室の裏にある小部屋の一つだ。
信者と話し合いをしたり、聖職者が打ち合わせに使ったりするようになっていて、狭苦しさを感じないように窓が大きくとられている。
ラナ司祭は、ティセットをのせたワゴン押す十歳前後とおぼしき少年を伴っていた。
「ありがとう、イリ。あなたも、ここでご一緒させていただきなさい」
イリと呼ばれた少年は、こくりとうなづいた。
生成りの簡素なシャツと黒の膝丈のズボン。その上に、神子と呼ばれる子供達に特有のケープのような長めの肩衣をつけている。
手馴れた様子で、イリはお茶をいれた。
白いティーポッドに金属製の長細い筒状の容器からお湯を注いでから、カップにもお湯を注いで温める。
香草茶なのだろう、ティーポッドからはさわやかな匂いが広がってふわりと鼻をくすぐった。
「あ、これ、魔法瓶ですね。シヴィラ商会のものですか?」
「ええ、そうなんです。ルティウスの魔法具販売はシヴィラ商会が七割を占めておりますから……これは、ご喜捨いただいたんですのよ」
「さすがシヴィラ商会ですね、太っ腹だ」
配られた香草茶は薄いグリーン。この爽やかな香りにはミントを加えているだろう。
聖堂で飲まれる茶は、だいたいが自家製の香草茶か薬茶だ。
紅茶や緑茶といったお茶は高級嗜好品で、気軽に飲めるものではないからだ。
「ええ。魔法具の販売で儲けることができるのは、聖堂が安定して魔力板を供給してくれるおかげだといつも多額のご喜捨をいただいて……この中央聖堂だけでなく、支店のある東聖堂や南聖堂にもいただいているようです。大司教様がいつも感激なさってますの」
『あのいつもの調子で』と、ラナ司祭は笑う。
ルドクも笑った。脳裏には、大司教の顔が思い浮かぶ。
「……あれ、シェスさま、どうかしましたか?」
「はじめてみた」
魔法瓶を手にして、蓋を開けたり閉めたり、熱心にいじくりまわしている。
イリは、そんなシェスティリエをじっと見ていた。
(あー、たぶん、500年前にはないもんな、この手の魔法具……)
「ローラッドは、魔法具があまり流通してないんでしたっけ?」
ルドクの問いにシェスティリエがうなづく。
「ティシリアのせいどうがすくないからな……まりょくいたがきょうきゅうされないから、べんりなことはわかっていてもあまりはやらない」
ローラッドは、基本的には信教の自由を掲げている。
だが、国民の大半は、国教会の信徒だ。国教会では、その祭壇に歴代皇帝を祀る。
当然ながら、ティシリア聖教の勢力はそれほど大きくない。
だから、魔力板を使った魔法具と呼ばれる道具はローラッド国内にはほとんど流通していない。
「あら、ローラッドのお生まれですの?」
「シェスさまとイシュラさんは、ローラッドのご出身なんです。シェスさまは貴族のお生まれなんだそうです」
「まあ……だからでしょうね、威厳と気品がおありですわ」
「威厳と気品……」
ものは言いようだな、と、イシュラはラナ司祭のうまい言葉の使い方に感心した。
「どうぎんのさんじゅうこうぞうで、それぞれのすきまに、まりょくをとおすぎんさをみたしている……そこのまりょくいたとつながっているのだな……」
「細かくはわかりませんが、中に満たした銀砂の純度の違いを利用して、中は熱く、表面は手で持てるようにしているそうですわ」
「いたをこおりにいれかえると、ほれいができるのですね?」
ラナ司祭が相手だからなのだろう。シェスティリエは心がけて丁寧な言葉遣いをしている。
(さっきのは、僕の聞き違いじゃなかったんだ……)
(普通の言葉遣いもできんだな、姫さん……)
内心の声を聞かれなかったことは、二人にとって幸いなことだったろう。
「ええ、そうなんです。とても便利なんですのよ。開発には、うちの助祭達も協力しております」
魔力板というのは、薄いカード状の金属板だ。
水や氷、炎といった魔術を封じてあるもので、基本的には魔法具はその板に封じている魔術を動力源としている。
たとえば、台所のストーヴやオーブンには炎の魔力板が必要だし、冷蔵庫には氷と水の魔力板が必要だ。魔法板に封じられた術はおおよその消耗期限があり、それは板の材質によって違う。
「エーダ・ラナ、あとでからのいたを、すうまいゆずっていただけますか?どうぎんのものでかまいません」
「あ、ええ。それくらいでしたら、何枚でも」
術が封じられていない空白の板は、ただの金属片にすぎない。一般的な銅銀の板ならば、極めて安価に提供されている。
銅銀の板であれば十回前後の再利用が可能だ。
ラナ司祭の視線にイリが出てゆく────板を取りに行ったのだろう。
イリの姿が見えなくなったところで、ラナ司祭は小さなため息をついて口を開いた。
「申し訳ございません、ファナ・シェスティリエ。イリが随分と貴女様に興味をお持ちのようで……不躾な視線を……」
「かまいません」
在室中、イリはただひたすらシェスティリエを見つめていた。
シェスティリエの一挙手一投足を逃すまいとでもいうようにじっと見つめる黒い瞳は、不思議なくらい澄んでいた。
確かに不躾な視線ではあったが、イシュラの神経には障らなかった。
きっとそこに邪気やそれに類する負の感情がいっさいなかったせいだろう。
元より、シェスティリエは他者の視線を気にするようなタイプではない。
(あの金髪美人なにーちゃんは、何かすげえムカついたんだけどな……)
少年の細い手足にはところどころに青アサがあって、もしかしたら、見えない場所にはもっと多くの傷があるかもしれないとすぐにイシュラは考えた。
それを見た時に、すぐに虐待を疑ったくらいだ。
勿論、目の前のラナ司祭だとは思わない。もし、そうであれば、イリと呼ばれるあの少年がラナ司祭のすぐ隣……手の届く距離に座る事は無いだろう。
「あの子はイリと言います、ご覧のとおりの神子ですわ。もうすぐ11歳になります。5歳の時にこの聖堂に来ましたの」
「……もしや、こえをはっすることができないのでは?」
「ああ、そうです。ファナ・シェスティリエ、すぐにおわかりに?」
「……ええ、まあ」
外傷はまったくない。ただ座っているだけでは、物静かな少年にしか見えない。
だが、シェスティリエには何か察するものがあったらしい。
「………エーダ・ラナ。イリを、リスタのエーダ・リドとあわせたことはありますか?」
「エーダ・リド……ああ、本山の神学校で治癒術と神学を教えてらっしゃった?」
「ええ、そうです」
「いいえ。残念ながら私はエーダ・リドに教わりませんでしたし……エーダ・リドはリスタからほとんどお出にならないので……。勿論、この子もお会いした事はございません」
「そうですか……」
シェスティリエが考え込むような表情を見せる。
「イリが何か?」
「いえ……こえがでないというのは、にちじょうせいかつに、さぞふじゆうがあるとおもいまして……」
「もしや、エーダ・リドの御力なら治すことが?」
「いえ、そうではないのですけれど……」
シェスティリエは、眉根を寄せて少しだけ難しい表情をした。