プロローグ
燃えるような夕日が空を染めていた。
今まさに沈まんとする陽は日中のそれよりも強い光を放つ。
霊峰ティスタ・アーヴェは燃えるような陽を受け、色とりどりの赤に染まった雲海が幻想的な光景を描き出している。
(まるで世界の終わりであるかのよう……)
聖書にある終末の光景を連想し、女は小さく笑った。
今まさに人生の終わりを迎えようとしているこの瞬間に、魔導師の自分が今更聖書を思い出した事がおかしかったのだ。
『……主よ』
不思議な声が響いた。
まるで頭に直接響くかのような声が。
「……レヴィ……」
女は空に手を伸ばす。痩せてしまった腕……彼女を血のような赤い空から庇うように影が覆い被さる。
指先に触れた黄金の鱗がわずかに差し込んだ夕日に照りかえり、眩しさに目を細めた。
『主よ……』
空をふるわせる声が、限りない親愛をこめて彼女を呼ぶ。
「……リュディ……」
わずかに視線を左に向ける。
黒光りした鱗に陽光がこぼれていた。
「……ここで、お別れです……レヴィ、リュディ……」
呼吸は次第に荒いものになりつつあった。
だが不思議と苦しいという感覚はない。
ここが硬い岩場であること、そこに薄布一枚を敷いただけで横たえられていることもまったく気にならなかった。
視界にあるのは、赤く燃える空と彼女に忠実な二頭の竜……光と闇を纏う、その神々しいばかりの姿。
(いつか……こんな光景を夢に見たことがあった……)
既視感に、笑みをもらす。
あれはもしかして、予知夢だったのかもしれないとも思う。
(でも、もうそれも遠い昔の事……)
見た目だけを言うのならば、彼女はまだ三十歳にも満たない女だ。だが、彼女が今まさに死の淵にあるのは老衰ゆえだった。
魔導を操る者の寿命は長い。魔導……それは、魔術を越え、世界を揺り動かす事のできる力だ。魔導師とは、それほどに世界に愛されている存在だ。
もっとも、呪われていると言う者もいるかもしれない。
魔導師は例外なく長寿。常人の平均寿命が六十前後だとすれば、魔導師はゆうに数百年の時を生きる。
それを羨む人間は多いが、それは、時から置いてゆかれるということで……その本当の意味は経験しなければわからなかった。
出会うすべての人を失い、自身だけが時の果てに取り残される……それは決して幸福な事だと言い切れない。
(……でも……)
それでも彼女は、己が幸せであったと胸を張ることができる。
生きることに倦むこともなく、絶望する事もなく、狂う事もなかった。
およそ八百数十年……それが、彼女の経て来た歳月だった。
『『主よ……』』
二人の声が重なる。それはまるで妙なる調べであるかのように空気を震わせる。
常人の耳では言葉としてとらえられないその響きだけが、彼女の心を波立たせる。
彼らは幻獣種の頂点に立つ竜族の……その更に原種たる古代竜の最後の二頭だった。神と人とが分かたれ、世界を満たしていたマナが失われて久しい現在、幻獣も魔力を持つ人間も急速にその数を減らしつつある。
(やがて、世界は幻獣と魔法とを失うだろう……)
それでいいのだと、彼女は思う。……強い魔力も、強大な幻獣も、この神無き世界の調和の中には必要がない。
視界を覆い尽くす巨体の輪郭が、音も無くゆっくりと溶けた。
一方は光に、一方は闇に。
そして、現れたのは、二人の騎士だった。
「……その姿を見たのは……何十年ぶりかしら……」
くすり、と笑った。
「逝かれるか……」
波打つ豪奢な金の髪……瞳は、晴れた空の青。金色の竜は、美貌の男の姿で膝を着く。
「はい」
小さくうなづく。
漆黒の竜の化身たる騎士は、彼女をそっとかかえるようにして抱き起こした。
彼女は、それに笑ってみせた。
「ありがとう」
いろいろと言いたい事はあったはずなのに、結局、口にしたのはそれだけ。
夕闇の紫の瞳には、澄んだ悲しみが揺れる。
かたわらに膝をついた金の騎士は、彼女の手を両手で包み込んだ。
「主に出会えた事が、我らが生涯の喜び」
「主の僕であったことが、我らが生涯の誉れ」
囁かれる言葉、それは睦言のような甘さと、誓約のような真摯さに彩られている。
「「我らが永遠の忠誠をあなたに捧げる……天空の歌姫、光と闇の導き手、遠き神々の愛し子たるシェスティリエ=ヴィヴェリア=ディゼル=アズール」」
熱いものがこみあげる。
「……ありがとう、私の竜王たち」
掠れる喉で、言葉を紡いだ。
思い起こす事はたくさんあった。
戦場に立ち、大陸全土に広がった戦火の中を駆け抜けた前半生
約束された栄誉を捨て、この愛すべき竜たちと世界を回った後半生。
魔導師はその長い寿命をもてあますというが、彼女は一度だってそんなことはなかった。
……誰よりも彼女に忠実な二人がいたからだ。
(……何という…生だったのだろう……)
己ほど濃密な生を生きたものは他にいまい。それが誇らしかった。
哀しみに揺れる二対の眼差しに微笑む。
後悔はなかった。……何もないとは言わない。けれど、彼女は己が重ねて来た選択に胸を張ることができる。
目を細め……そして、静かに瞑る。涙がひとしずく、頬を伝い、こぼれおちた。
「……愛しています」
あなた達を。
そのつぶやきは、青い闇に静かに静かに溶けた。
「シェスっ」
「……シェスティリエっ」
閉ざされた瞳は、それきり開く事はなかった。