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微睡みの中を進む舟の、
櫂は腕の拠り所。
愛する言葉の初めに、
恋した結びの境界は何処。
君を思えば世界が臨む。
「むかしむかし…」
暖炉が少しばかり辺りを照らす暗い部屋の片隅、アリスは、紺色の地に金字の厚い本を片手に広げていました。
「…大きく、…」と、言葉をつまらせました。
そして厚い本を閉じました。
「絵や会話のない本なんて、なんの役にもたたないじゃないの」そう言って、本をベッドに投げ出して「ああ、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」と、両の手を胸に当てて言いました。
アリスは多感なお年頃。来年で13歳になる彼女は、とある演劇の主役を務めることになっています。その演劇は、世界の成り立ちや習慣を著した劇です。伝統あるその劇の主役こそ血統者の証、世界の統治者です。つまり、統治者の資格がアリスにはあるのです。
しかしアリスは、遠い昔からの習わしである古き演劇よりも、人気劇作家の作品を、背伸びしてやりたがるのでした。それは、お年頃ということで無理はありません。
無理がないといえば、アリスには難しい言葉が書かれていた本、台本のこと。
ああ、公演までにこの本を読めるようにならないと、覚えないと舞台で恥をかくのは自分。でもいいじゃない、あらすじなんて皆知ってるし、細かいところを省略した方が覚えやすい…そう、どれだけ短くして要点を伝えられれば、それが肝心じゃない?
つまりは…。
「むかしむかし、神様は人間たちの罪深い行いに怒りました。その罪の罰として、人がたくさん居たところを透明な壁で囲い始めました」
これで、台本の6ページ分を省略したことになります。ここまでは、わらべうたにもなるほど誰でも分かっている話です。
「神様は、作り直し、良しとされた世界を見回した時、罰を受けるべきではない正しい人間が居ることを知りました。彼と彼の家族を…」
どうしたんだっけ?
「んー、うるおぼえ」
ふと暖炉の上に置かれた時計を見ました。気づけば、時計の針は午後6時を回っていました。
「アリスは今日もよく頑張りました! さあご飯を食べましょう!」
勢い良く部屋を出たアリスは、匂いに導かれるままに食堂へまっしぐら。
いつもより強くてすごくいい匂い。なぜかしら? パイ生地がこんがり焼けた匂いや肉汁が滴るローストビーフ、他にも美味しい料理が食卓に上がっているのが分かります。
小走りに廊下を渡っていると、ナニー・メアリーが向こうからやってきました。
「あらあらアリス、今日はお客様が来ているのよ。ささ、息を整えて、お淑やかに」
アリスは足を止めました。
「お客様?聞いてないわよ、そんなこと。町?村?何番通り?横丁?それとも公園?どこから来たの?」
「さあどこでしょうね」
「なにそれ。…」
「外の世界からいらっしゃいました。私の知るところではありません。これでお分かり頂けましたでしょうか」
アリスは、その言葉を聞いた途端、肩をすくませて、顔をこわばらせました。服にしわが寄ってないかぽんぽんとはたくと、すくっと立ち直し、鼻息ひとつ。
それを見たナニーは、よしよしといった感じで、口の端を持ち上げました。
「失礼のないように、おふざけはなしよ」
「しないわよ!」
靴底をカツカツと鳴らしながら、歩きだすアリス。その後ろに付いていくようにナニー。
「どんな人かしら」
アリスは、その客人について思いを巡らします。どこから来たのかしら?どんな格好しているのかしら、何歳くらいの人なのかしら…。
「少なくとも、お嬢様のようにじゃじゃ馬ではありませんことよ」
「ふん」
いよいよ鼻先に匂いの帯が漂うまでに近づいてきました。
食堂の扉の陰まで来ると、立ち止まりました。
「アリス、立ち止まっても緊張は解けなくてよ」
ナニーの言葉に、苦虫を潰したように顔を渋らせました。
「もっと気の利いたことを言って欲しいわ。それに、ただ立ち止まってもるんじゃなくて深呼吸よ!」
アリスは、大きく息を飲み込むと食堂の扉の前に進みました。
「はるばるようこそお出でましました。どうぞ、ごゆるりとしてくださいませ」
「ありがとうございます。ニューベリーは良いところですね。よく手入れが行き届いて、古き良きを残しております」
「ありがとう、そう言っていただけると女王として誇り高い。そう、私はあなたの世界が恋いしくて、その話が聞きたいわ。タケオは変わりないかしら? ああ、懐かしきイハトブ。アルスは? そうそう、ミエキチの館は…」
「すべて何事もなく」
「あらいけない。よしなしごとを言い過ぎました。どうぞ、召し上がってください」
「いえ、懐旧を満たす話をしなければ失礼でしょう。あなたの80年前の来訪は、今でも国民の記憶のうちにあります。イハトヴの料理店には料理の名前に、ミエキチにはあなたが訪れたことを記念する本が出ています」
「まぁそれは光栄ですわ、とても嬉しい。ぜひ私もその恩に報いましょう。記念像なんてどうかしら」
「お気持ちで十分です。この景観と風土を害わないか、それだけが心配です」
「あら、お気になさらずに…。
あなたは、本当に変わらないのね。あの時は同い年の子同士のようでしたのに、いまでは私はお婆さん」
「アリス、人は歳を取るものです。それに、私はあなたが羨ましい。私はいつまでもこのままなので退屈なのです…」
そんなやりとりの中、給仕がお茶を注いだ。
そこへ、一人の少女が戸に立った。
「おかあ…ッ!」
扉が開け放たれた戸の前に立ち、勢い良く口を開けたアリスでしたが、「いいところに来ましたアリス。席につきなさい」
「…はい、お母様」
アリスの威勢はどこへやら。言われるがまま、頭を垂れて足を進めました。
ロウソクの火が煌々とテーブルの品々を映し出します。アリスの大きな影が彼女の後ろから前へ走り、暗がりに消えていった頃にアリスは自分の席まで着きました。
テーブルを挟んだ向こうの人影が気になり、一瞥しながら、その人影を視界に入れつつ目線を逸らしました。
内心は好奇心で話したいけど、照れか恥ずかしさか、アリスはそうしてしまったのです。
給仕が椅子を引き、アリスがそこにちょこんと座りました。それを見たお誕生席のアリスの母は、「アリス、相手が誰であろうと胸を張りなさいと教えてましたね? そろそろあなたには物怖じしない自信を身に付けばければなりなせん」と、やや口惜しい様子で言いました。
続けて、「それはそうと、私が80年前にタケオに赴いたことは知ってますね?」と言いました。
上目遣いに席の向こう側を見るアリスに、その人は微笑んで会釈をしました。
「こちらは、タケオからいらしたプリンセス・カグヤ」
アリスの母は、諭すようにアリスに言います。
「私の大切な旧友です。失礼のないように気をつけなさい」
「はい」
テーブルの向いに座っている、年端もいかない、自分と同い年くらいの少女が80年前の母と面識があることに、どうしてだろうと違和感を覚えずにはいられない。だって、そうなら同じように歳をとってないとおかしいじゃない?
アリスは、計算が合わないと首を傾げました。アリスの母は優しげな微笑みをアリスに向けました。
「あなたにはそろそろ、知るべきことと学ぶべきこと、あるいは思うことと考えることを感じなければなりません」
「お母様、わたしにはなんと言ってるのか…」
「私からひとつの問題を出します。はじめはあなた一人の部屋。そうね、暖炉、ベット、窓…あなたの部屋そのもの。そこに客人が訪ねてくる、友達や初めて会う人、その方たちが帰ったあと、あなたの部屋に残ったものはなんでしょう」
「それはもちろん、楽しい思い出です。お母様」
それを言い切ったアリス。
ひとつ、深く頷いたカグヤの挙動に、アリスは目線を向けました。
「では、今度はあなたが客人の立場なら?」
「部屋に残したものですか?それは、楽しいことです。私ならそうします」
「あなたは本当に楽しいことが好きなのですねアリス、信念を感じます」
アリスは、口元を手で隠しながら笑う、母らしくない笑い方に自分が間違ったことを言ったのではないかと思ったのでした。カグヤはどう?ただただ、目を閉じて聞いているわ。
やがて紅茶の一杯から始まるディナーが始まります。
アリスの母は、カグヤからタケオという世界のことばかり聞きました。
そして、食卓に並んだ料理がなくなった頃に、アリスの母は紅茶を一口。そしてアリスに言いました。
「ニューベリーの外を知る権利があなたにはあります。いつかはと思い、いつ行かせるかと悩みましたが、こうしてプリンセス・カグヤが来ている今が頃合いなのでしょう」
アリスの母はカグヤに頼みました。
「彼女の詠行に付き合ってくれないかしら。アリスが一人で大丈夫だと思ったら、別れても構わないわ」
カグヤは、そのつもりでいたようで「もちろんです。血を分かつ者の助け合いは盟友よりも分かち辛いものであると存じております。世界を知ることでより良い人生になることでしょう」
あれ?わたしの意見はないんでしょうか!
えいぎょうって何のこと?世界を知るってどういうこと?
「アリス、ニューベリーの女王として最初で最後の勅令を出します。旅に出なさい」