1 魔法令嬢、辞めました(仮)
爽やかな風が髪を撫でる中、緑に輝く庭園を眺めルリエル・ディフロンションは紅茶を口に含んだ。
一日の始まりに相応しい香り高くさっぱりとした味わいの一杯だ。
「素敵な朝だわ」
ルリエルの周囲には何者もいない。今の言葉は誰かに返答を求めたものではなく、自然と口から漏れてしまったものだ。
ルリエルはそのまま、ぐっと一つ伸びをした。はしたないかもしれないが、ここはプライベートな庭園だ。咎める者もいない。
くっきりとした青の空にはぷかぷかと白い雲が浮かんでいて、穏やかに穏やかに流れて行く。
あ、あの雲は犬の形をみたいね。あっちは猫みたい、なんて思える時間を彼女は心から楽しんでいた。
「ああ……平和ね」
ルリエル・ディフロンションは伯爵令嬢。16歳の花真っ盛りのレディーである。
人生の酸いも甘いも噛み分けたご隠居では、ない。
それがなぜ、早朝からお茶を嗜み平和を堪能しているのかと言えばその理由はただ一つ。
彼女が「魔法令嬢」という重大な責務から解放されたからなのであった。
*
「お嬢様。そろそろ暑くなって参りますので、室内へどうぞ」
「あら、そうね」
紅茶でお腹一杯になったころ、背後からすっと声を掛けられた。
背中のピンと伸びた老紳士は、ルリエルの執事であるところのルーモス。元々はルリエルの父であるディフロンション家当主の専属であったが、ルリエルが生まれてからはずっと世話をしてもらっている。そして、ルリエルが魔法令嬢をしていたことを知る、唯一の人間だ。
一流の執事は気配を立てない、と言うのが彼の矜持らしいが、その気配の隠し様は時に主人たちすら驚かせている、というのは余談である。
「朝の一時は堪能されたようですな」
「ええ。お陰さまでね。もう急な呼び出しも無いわけだもの」
ルーモスは、空のティーポットを見てにこりと笑った。目元の皺がより一層深く刻まれて、少し冷たくも見える彼の顔が、急に優しい老人の顔になる。
「本日は、社交界デビューのために仕立て屋を呼んでおりますので、出掛けぬようにと奥さまからのお言付けでございます」
「えっ、今日だったかしら。嫌だわ、紅茶を飲みすぎてお腹が出て………」
「その後、ダンスのレッスンも入っておりますので、併せてご承知おき頂きたく」
「嫌だわ、最近太った気がするから、体が重いのよ……」
「……」
二人の間に若干、微妙な温度の空気が流れるが、そんなこともお構いなしに朝の優雅な時間は過ぎていった。
ルーモスは一度気を取り直し、朝食の席へと主人を誘う。既に朝のお茶を済ませているから、朝食は簡単なものである。
カリカリのベーコンや、ふっくらと焼かれたパンを頬張る少女を見守りながら、ルーモスは決意を固めた。
「お嬢様。少しばかり申し上げにくいことなのですが、このルーモス、不敬を承知で申し上げさせて頂きます。少々、気を抜かれ過ぎなのではありませんかな?」
ルーモスの真っ直ぐな視線の先にいるのは、歴史深いディフロンションの血を継ぐ麗しき少女。人形のような精巧な顔立ちに、絹のように艶やかな金の髪。
ガーネットの様に輝く瞳は、空の雲だけを追いかけるためにある訳ではなく、血色の良い唇から漏れても良いのは「紅茶でお腹周りが……」という言葉でもない。
対してルリエルは、その真っ直ぐな視線を受け止めきれず、すっと目を逸らしてしまう。分かっていた、気を抜いてしまっていることなど。
「あなたの言いたいこと、分かるわ。でもね、あの日々から解放されたのよ。少しくらいは良いと思わない?」
「そうおっしゃって、もう一月になりますよ、お嬢様」
「そうね、一月ね。でも、私が魔法令嬢として働いていたのは二年間なのよ。少し位平穏な時間を味わって、誰が怒ると言うのかしら」
「私めが。私めが一言申し上げさせて頂きますよ、お嬢様。お嬢様は確かに重大な責務を負わされ、日々危険が伴う中その責務を全うされておりました。それは大変に立派なことです。ですが、次はレディーとしてのお幸せを掴んで頂きたいのです」
強くなる語調を押さえるように、ルーモスは口元の髭を撫でた。
「16歳のご令嬢にとって、その年のシーズンは……デビュタントは、何者にも替えがたいものです。確かに、ディフロンション伯爵家は誇り高く伝統ある一族。そしてその一家の唯一のご令嬢であり、さらに可憐なルリエルお嬢様には、数多の婚約の申し込みがあることでしょう。ですがそれだけでは……。真にお嬢様を愛し、迎えてくれるような家でなければ……」
話が長くなってきたので、ルリエルは小麦の味が強いふかふか丸パンをもう一つ、口に運んだ。
ああ美味しい、ああなんて幸せなのかしら。その気持ちが柔軟な表情筋によって現れてしまっていたので、ルーモスは言葉を止めた。
「ともかく、お嬢様。お嬢様の大切なデビューを飾る大切なパーティーはもう間もなくなのです。集中下さい」
「……うん。分かったわ」
ちょうど朝食も食べ終わり、ルリエルはナイフとフォークを置き、口元を拭った。
ルーモスの気持ちは良く伝わってきた。彼は心から自分の幸せを願ってくれているのだ。自分の中の堕落心があまりにも自己主張をしてしまっていたが、確かにデビュタントは大切だ。素敵な男性と出会って、素敵な恋をして、素敵な家を繁栄させる。そのための第一歩がデビュタントであるのだ。ここ数年忘れてきた令嬢としての心が湧き上がってきた。
「頑張るわ」
「その意気です。お嬢様。デビュタントは王家によって催されるもの。王子殿下もいらっしゃるという話ですよ」
「へえ〜、そうなのね」
あまりにも興味の無さそうな返答に、最近ぐっと涙もろくなったルーモスは目頭を抑える。
王子殿下は齢18と若くはあるが、頭脳明晰で剣の腕も立ち、さらには懐も深いと、いつ国王を継いでもおかしくは無いとされている。継承者争奪戦のようなお家騒動も無く、王家は大変に安定している。ディフロンションは伯爵家ではあるが、歴史深い名門であるため、仮に王家に嫁いだとしても軋轢はないだろう。
以上の理由をもってして、ルリエルが王家に嫁げればきっと幸せな生涯を送れるのではないかと思っていたが、本人に王妃になる意志は一切無いようである。
(老人が必要以上に世話を焼くのも、良くないでしょうな。お嬢様が素敵な方と巡り会えることを祈っておりますぞ)