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薔薇の下  作者: 冬野 暉
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Ⅳ.夢見るお人形〈1〉

 ぼくが生まれる前に消えてしまった父は画家だった。

 とはいっても修行中の見習いで、けして才能豊かではなかったらしい。母と暮らしていた仕立屋の屋根裏部屋――元気だったころの母は、階下の仕立屋でお針子として働きながら糊口をしのいでいた――には、素描や描きかけの絵画がいくつか残されていた。街角の風景や通行人、卓上の果物や花の写生画。少女めいた顔で微笑む、年若い母の肖像。そのどれもが精緻で、繊細で、巧みではあったけれど……目の前にある景色を写し取った『画』でしかなかった。見る者の心を奪い、たとい取り戻したとしても前と同じように世界を感じられなくなるような、力強い芸術性はなかった。

「おまえの父さんはね。いつか旧王都の大聖堂の天井画を任されるような、立派な絵描きになるんだって言っていたのよ」

 過去の肖像を寂しそうに見つめながら、まだ正気でいることの多かった母は語った。

 父と母は幼なじみで、かつてこの国を治めていた女王陛下が処刑された革命の動乱に巻きこまれて家族を失った。同じ境遇の、貧しい画家見習いの青年とお針子の少女が寄り添い合い、夫婦として生きていく約束を交わすなんて、お決まりの筋立てだ。

「誠実で、やさしいひとだったのよ。ちょっと気が弱くて、つけこまれちまうところもあったけど、穏やかで、争いごとが嫌いで……」

 誠実だったという父が、なぜ身重の恋人を捨てて蒸発したのか――母も、周囲の大人も、曖昧に口を閉ざして語ろうとはしなかった。言葉にせずとも滲み出る、激しい嫌悪を肌で感じ取るようになると、ぼくも敢えて問いただそうとは思わなくなった。

 ……ひとりだけ、ぼくに本当のこと(・・・・・)を教えようとしてくれたひとがいた。

 たったいちどだけ会った、父の師だという老画家。かつて宮廷画家として名を馳せ、今でも旧王都で上流階級の間でもてはやされているという一流の芸術家だった。

 片田舎の小さな街で暮らしていた父がなぜかれのような人物に弟子入りできたのか、詳細はわからない。けれど、行方知れずの弟子に私生児がいると聞きつけるなり飛んでくるぐらいには、老画家は父に対して思い入れがあるようだった。

「きみのお父上は、磨けば大成する金の卵だった。私は、かれを一人前の絵描きに育ててやろうと、そのためならなんでもしてやろうと心底思っていた」

 立派な口髭を生やした、気難しそうな老紳士は、幼いぼくの手を取り、皺に埋もれた両目に涙を溜めて語った。母が仕事に出かけている隙を突いて屋根裏部屋を訪れたら老画家は、弟子の面影をありありと宿した子どもを前に呆然とし、思わず呟いた弟子の名前にぼくが「なぁに?」と応えたことに衝撃を受けていた。

「おお、なんということだ! こんな、こんなことが許されていいはずがない……」

 老画家はぼくが置かれている状況を把握し、ぼくを旧王都へ連れ去ろうとした。仕事を終えて帰宅した母の金切り声、言い争う怒声と罵倒の嵐、母の腕にぎゅうぎゅうと抱きしめられて息が止まるかと思ったこと……憶えているのは、それぐらいだ。

 以来、老画家がぼくの前に現れることはなかった。何度か母を訪ねてきていたが、容赦のない拒絶にとうとうあきらめたようだった。

 やがて母がまともに針を持つことすら儘ならなくなり、ぼくが男のふりをして日銭を稼ぐようになると、その日その日を食いつなぐことに精いっぱいで老画家の存在なんて忘れてしまった。

 そう、忘れていたはずなのだ――冬至の祝祭の最終日、再度あの濡羽色の男が現れるまでは。

 祝祭の期間中、閉め切っていた礼拝堂の換気をしようと扉を開けると、薄暗い聖壇の上に人の形をした闇が立っていた。

 心臓がいやな音を立てた。ゆるりと振り向いた横顔が、ぼくの背を越えて射しこむ光に歪む。

「……やあ、赤髪のお嬢さん。またお会いしたね」

 葡萄色の瞳を眇め、男は口端をいびつな角度まで吊り上げた。くしゃくしゃの黒褐色の髪、鴉のような外套もはじめて会った日のままだ。

「な、なんで、ここに」

「しばし神の家の屋根を借りていたのさ。きみが招き入れてくれたおかげで、この冬の祝祭は寒さを凌ぐことができた」

 お礼を言おうと男が笑う。呆然と立ち尽くしていると、不気味な羽音が鼓膜を打った。

 男の頭上、十字架に磔にされている神様の肩に大鴉が止まっている。薄闇に黒い眼を仄光らせ、大鴉は低く鳴いた。

「おやおや。まるで死神にでも出くわしたような顔をしているね」

 男は靴音を鳴らして聖壇から下りると、パチンと指を鳴らした。

 われに返ったときには重い音を立てて扉が閉まっていた。一瞬の暗闇。

 ぼくが悲鳴を上げるのと、聖壇の燭火が灯るのは同時だった。朱金の薄明かりが大鴉と男をくろぐろと浮き上がらせ、立ちこめる蜜蝋の香りに眩暈がした。

 足元が崩れるような感覚にへたりこむと、コツコツと男の足音が近づいてくる。

「こ、来ないで……」力の入らない爪先で必死に床を蹴ろうともがいていると、大鴉がけたたましく咆哮した。頭の中で破鐘が鳴り響き、ぼくは苦鳴を洩らしてうずくまった。

二度とない(ネバーモア)と言っただろう? それは私にとっても同じことなのだよ、お嬢さん。いいや――」

 すぐそばで片膝を折った男が、ぼくの頭を撫でながらそっとささやく。それは、男の誘惑に駆られるまま懺悔したぼくの真実なまえだった。

「ちが、ちがうの……わたし、わたしは……」

「何が違うというんだい。この品性に欠ける髪の色? いかにも不憫な身の上話? それとも、救いを求めた先ですら『きみ』のままで生きられない現実?」

 首を絞められたように喉がひゅうと鳴った。

 墓石のごとく冷たい、男の手が頬を這う。もつれた赤毛を掻き上げ、ごつごつとした指の背で目元をなぞられた。

「まったくよくできたお人形だよ、『スーリ』。まるでかつての私たちを見ているようだ」

 男は喉の奥で笑い、軽々とぼくの体を抱き上げた。

 大鴉を見上げる聖壇に向かいながら、「昔のことだ」と寝物語を聞かせるように男は言う。

「この教会には、年老いた神父と孤児の少年たちが暮らしていた。神父は敬虔な聖職者だったが、いささか潔癖のきらいがあった。『神の家は美しく清らかであるべきだ』という考えに基づいて、見目のよい少年を選び抜いて引き取り、教会の庭は白薔薇の株で埋め尽くした」

 朱金の灯がまばゆく揺らめく。息苦しさと吐き気に目を瞑ると、男が足を止めた。

「だが、それは見せかけの幻にしか過ぎなかったのさ」

 冷ややかに男が呟くと、同意するかのように鴉が鳴いた。ギイ、と木製の扉が軋む音。

 ――かすかに燻る、甘い麝香の残滓。

 思わず目を見開いたぼくに、男は「見てごらん」とささやいた。

 そこは、濃厚な夜の気配がこびりついた小部屋だった。正面から右側に古びた布張りの寝椅子があり、正面奥の壁に一幅の絵画が掛かっている。

 けして開けてはいけない告解室に入ってしまったのだと気づいた。気づいた時点で手遅れだった。

 金の額縁に込められた肖像画。桃色の頬をくるくると取り巻く黒髪に花かんむりを被り、古風な白いドレスを着飾った少女が布張りの寝椅子に腰かけ、わずかに首を傾けてこちらを見つめている。

 可憐な顔立ちはそれこそ磁器人形ビスクドールのよう。ふわりと笑んだくちびるは雛罌粟のつぼみ。若草色のつぶらな瞳は、あどけないのに震えが走るほど清艶だ。

 やわらかい少女の呼吸が聞こえてきそうな、林檎の香りに似た甘酸っぱい匂いが漂ってくるような、手を伸ばせば額縁のむこうの彼女に触れられてしまえそうな生々しさ。少女モデルのありのままの美しさを微々たりとも取りこぼさずに描ききらねばならぬのだという気迫、顔料となって画布カンバスに刻みこまれた情念が、胸を打つ。

 精緻で、繊細で、あまりに巧みな筆遣い。片隅に残された、ささやかな記名は。

「とうさん」

 見間違えようがなかった。

 それは確かに、ぼくの父が描いた絵画だった。

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