XIII.再誕《ルネサンス》〈2〉
ミシェルがくぐもった苦鳴を上げる。
どぷりと溢れた血が頬を汚し、襯衣に点々と落ちる。男は蔓で抉りだした眼球を指先でつまみ上げ、大きく開いた口の中へ放りこんだ。
にちゃにちゃと咀嚼し、男はわざとらしく音を立てて飲み下した。口元についた血を舐め取りながら、にっこりと笑う。
「おまえの瞳の色のような、青林檎の味だ。恥じらう処女のごとき瑞々しい潤みを湛えて――」
「……、……れ」
俯いたミシェルがぼそりと呟く。
乱れた黒髪の下から、激しく燃えるみどりの隻眼が男を射抜いた。「黙れ、変態爺」
男が硬直する。ぼくは状況を忘れて呆けた。
「私はおまえの人形ではない。天使? 聖母? ふざけるな……ふざけるなよ糞爺!」
気づけば風琴の旋律が止まっていた。
ミシェルの、少年期をとうに過ぎた青年の、男らしい声がぐわんと鼓膜を揺さぶる。
「これ以上奪われるものか。私の心も命も、おまえにくれてやるものは何ひとつない!」
――もういちどと、ささやく声が脳裏をよぎった。
二度とないと皮肉を名乗りながら、それでもかれらは願ったのだ。もういちど、光の下へ生まれいずる日を。
魂の解放を。
ミシェルの反抗に虚を衝かれたのか、喉を締めつける蔓がゆるんだ。
ぼくは懐に忍ばせた大鴉の羽根に意識を集中させた。
呼べるのはいちどだけ。だからこそ見誤ってはいけない。迷ってはいけない。
形なきはずの影に命を吹きこむ、ただいちどの魔法。
息を吸いこみ、叫ぶ。咆哮する。
「ネバァァァモアァァアアアッ!!」
鮮烈な羽ばたき。
体に絡みついた蔓が弾け飛んだ。視界を濡羽色の翼が覆う。
「私を呼んだね、お嬢さん」
するりと頬を撫でる大きな手。黒い翼が外套に変わって翻る。
傍らに膝をついたひとに抱き起こされた。くしゃくしゃの黒褐色の前髪の下で、赤紫の眸が切なく笑っていた。
「ネバーモア……」
ぼんやりとくり返すと、ネバーモアは頷いてみせた。
「ああ、取り戻しにきたよ。お嬢さん、私たちの紅薔薇。私たちの大事な子、きみの白薔薇を」
ネバーモアの視線が錐の先のごとく尖り、ミシェルの前で立ち尽くす男へ向かう。
「なぜ……なぜおまえがそこにいる、フランソワ!」
男は信じられないとばかりに怒鳴った。ネバーモアは皮肉げに口の端を吊り上げ、「不正解だ」と答えた。
「耄碌しすぎてお嬢さんの声が聞こえなかったかい? 今の私は『ネバーモア』だ。おまえが殺した子どもたち、そしておまえが救うことをあきらめたおまえ自身だよ」
「なん……だと?」
ネバーモアは立ち上がり、ぼくを背に庇うように進みでた。
男の輪郭がぐにゃりと揺らぐ。
「おまえが僕? なにを、馬鹿な」
「二度とないと、おまえが言ったからさ」
ひたひたとネバーモアは男を追い詰めていく。男は腕を振るい、群がる蔓を鞭のごとくしならせた。
「兄さん!」
ミシェルが声を上げる。
ネバーモアはかすかに笑み、軽く外套の裾を揺らした。
「ミシェル、借りるぞ」
蔓が殺到した瞬間、ネバーモアの体は無数の羽根に変わった。男が瞠目する。
「おのれ、どこへ――」
ミシェルを拘束する蔓が引きちぎられた。
振り返った男へ、ミシェルの足元から溢れた闇が巨大な翼となって襲いかかった。何対もの漆黒の翼が膨張し、薔薇の花弁のように渦巻き、蔓もろとも男の体を搦め捕る。
両膝をついたミシェルは、左目を押さえて唖然としていた。その背中から生えた翼が黒い外套に変じ、傍らによく似た背格好の青年が降り立つ。
「異国の神話では、左目は聖なる力、あるいは魔なる力を得るための代償とされている。先例があると形にしやすいんだ」
「代償……?」
「おまえの『左目』を借りた。私は悪魔に近しいものだから、存在を固定化するためによりどころがいる。一回きりの召喚という条件が満たされて切れかけたルネとの契約を上書きして、『左目』と引き替えにおまえに力を貸すという体裁を整えた」
ぽかんと見上げるミシェルの頭を撫で、ネバーモアは目を細めた。「兄さんと呼んでくれたから応えられたんだよ」
ミシェルが息を呑み、ぐうっと眉根をよせた。
「フランの顔で、同じ笑い方をしていて、兄さんではないと言えるわけないだろう」
ネバーモアは笑みを深くして、ツと視線を前方へ滑らせた。
「畜生、畜生畜生! 僕に逆らう気か、フランソワ! ミシェルッ!」
体のほとんどを翼に呑みこまれた男が唾を飛ばして喚いている。蔓も力を抑えこまれているのか、弱々しく床を這いずり回ることしかできないようだ。
「いい様だな、神父様」
大足で男に近づいたネバーモアは、禍々しい笑みを口元に広げた。「今度こそおまえを殺すために地獄から戻ってきたよ」
「フランソワァアッ!」
「やれやれ、ひとの話を聞かないやつだ。私を『フランソワ』だと言い張るなら、おまえのことは『ノエル』と呼ぼう」
男がぎょっとした様子で目を剥いた。
「な、なぜその名前を」
「知っているのかって? 言っただろう、私はおまえだと」
ネバーモアは大仰に肩を竦め、男の顔を覗きこんだ。
「かわいそうなノエル。口減らしに音楽院へ売り払われ、声が潰れるほど歌い続けたのに、男でも女でもない生き物に成り下がったノエル。美しい天使に孵化できないまま、悪魔の慰み者になるしかなかったノエル」
「やめろ」
「男たちに組み敷かれ、ヒキガエルよりもひどい喘ぎ声だと嘲笑されながら、おまえは憎んだ。神を、運命を、支配され奪われる者でしかないおまえ自身を」
「やめろォ!」
男の叫びが天井に跳ね返る。
のたうつ蔓の一本がネバーモアに迫るが、外套が片翼に転じたかと思うとあっけなく打ち払われた。
「違う、違う違う! そんな子どもなど知らない! 僕は、僕こそが救済者だ! おまえたちのような罪深い存在を裁き、赦し、正しく導く……」
「自分を救うことすら放棄した人間が、どうして救済者になれる?」
ネバーモアは両の眸を眇め、冷ややかに糾弾した。
「おまえは、嫌悪する過去の自分に似た子どもをいたぶって自慰に耽っていただけだ。その行いこそが自分を貶めているのだと気づかずに」
男が両手で顔を覆い、獣のような唸り声を上げた。慟哭にも似たその響きは、苦しいほど胸に迫った。
「救われるべきは、救いを求め、足掻き続けた者だ」
ぽつりと呟くネバーモアの表情には哀切がたゆたっていた。かれはいちど瞑目し、弟を振り返った。
「だからおまえも、力尽きるまで足掻き続けなければいけない」
「兄さん」
「生あることこそ希望なんだ、ミシェル。おまえは、私たちの希望だ」
ネバーモアは微笑んだ。ミシェルが泣きそうな顔で答えようとして、右目を見開く。
「後ろだ!」
空気を切り裂く音。
一瞬の隙を衝いて、蔓がネバーモアの背中から胸を貫いていた。
ネバーモアはすぐに外套を翼に変えて応戦しようとするが、次々と襲いかかる蔓に巻きつかれてしまった。
「……ッ、往生際の悪い爺だ!」
「舐めるなよ、餓鬼がァ!」
まるで狂乱する蛇の群体だ。
翼の渦から這いだそうともがく男は髪を振り乱し、めちゃくちゃに蔓を暴走させていた。鞭のように床や壁を打ち叩き、並んだ長椅子が吹き飛び、金製の燭台が音を立てて転がった。
「うわっ」
砕けた薔薇窓の破片が降ってきて、思わず頭を抱えてうずくまる。「ルネッ」と名前を呼ばれ、勢いよく抱き寄せられた。
「怪我は?」
左瞼を閉じたミシェルが顔を覗きこんでくる。血は止まったようだが、べったりと汚れた頬が痛ましい。
「ぼくは平気です。ミシェルこそ、目が……」
せめてもと頬の血を拭い取ると、ミシェルは「大丈夫だ」とぎこちなく笑んだ。
「それより、あいつをなんとかしないと」
人ならざるものの戦いは激しさを増していた。ネバーモアの翼がなんとか男の蔓を抑えこもうとするが、拮抗する力で跳ね返されてしまう。
ミシェルは残された右目をきつく細めた。ぼくにはわからない何かを見極めるように。
「あいつは、あの男の体を完全に乗っ取っているんだ。だが兄さんは、私の『左目』にだけ宿っている状態だから――」
「発揮できる力の限度に差が出てしまう、ということですか?」
「ああ。兄さんを助けるには、より多くのよりどころ、存在を固定化する代償……生者の一部が必要なんだ」
凄まじい音がした。
壁に叩きつけられたネバーモアの体が崩れ落ちる。ミシェルが左目を押さえ、くちびるを噛みちぎりそうなほど口を引き結んだ。
「……まったく、手こずらせてくれる」
瓦礫の中から起き上がりながら、ネバーモアは腹立たしそうに呻いた。その表情はミシェル同様に険しく、翼の枚数も目に見えて減っている。
「違う違う、僕はノエルじゃないノエルなんて知らない。ぼ、僕は僕は僕は救済者、僕こそが、お、おお、おまえたちを、ぉ、お」
男は濁った声を上げながら、ぎょろぎょろと両目を回していた。タールのように溢れ返った闇が無数の蔓となって蠢動し、礼拝堂を破壊していく。
土埃にまじって煙の臭いがする。吹き飛ばされた長椅子の残骸が燃えていた。
「まずい、火が――」
倒れた燭台の火があちこちに燃え移り、あっという間に広がっていった。
炎の勢いにぞっとする。このままでは悪魔と心中する羽目になる!
どうすれば、どうすればいい?
そのとき、引きずり回されてぼさぼさに乱れた髪が視界に入った。
「代償って、ぼくの一部でもいいんですか?」
「え?」
「たとえば髪の毛とか」
出会ったころよりすっかり長くなった髪を掴んでみせると、ミシェルがごくりと喉を鳴らした。逡巡とも苦悩ともつかない表情を滲ませ、かすかに頷く。
ぼくはズボンの隠しから短剣を取りだした。鞘から引き抜くと、冴えた銀の刃がぎらりと光る。
「ルネッ、そんなものどこで」
「話はあとにしてください!」
束ねた髪を引っ掴み、刃先を当てる。刀身に映りこんだ褪紅色の瞳を見つめ、ぼくは心の中で呟いた――ごめんね、スーリ。
ざくり、とたっぷりと量のある髪が落ちた。麦藁色の毛束は生きているかのようにうねり、喪失感が首筋を切なく撫でる。
首にかけていた十字架を外し、数珠をぐるぐる巻きつけて縛り上げる。絶句しているミシェルに毛束を差しだし、ぼくは訴えた。
「これをネバーモアに。今度こそ、あなたたちの手で取り戻してください」
――明日を。
血に汚れたミシェルの手が伸びて、数珠を握りしめる。左の瞼が押し開かれた。
現れたのは、ネバーモアと同じ葡萄色の瞳。
「兄さん」
ミシェルの左肩から闇色の片翼が噴きだした。
ざわざわと膨張する羽毛が毛束を受け取り、内側へ巻きこみながら宿主の体内に消えた。蠱惑的なくちびるを震わせ、ミシェルはささやいた。「もういちど、だ」
今や礼拝堂は火の海と化していた。目が眩むような煉獄に佇むネバーモアが肩越しにこちらを向いて、笑った。
「ああ。終わりにしよう。そして、はじめよう」
外套が翼の形をした影へと変わる。一対のそれはどこまでも大きく広がり、優雅に羽ばたいた。
深紅の薔薇が花散るように火の粉が舞う。
熱風が渦巻き、煽られた炎が天井まで上昇する。ミシェルの腕の中で、ぼくは唖然と見上げた。
「オ"、ぁ、ア"ア"ァァァァァァ――!!」
あかがね色の炎に呑まれた男が絶叫を放つ。翼の渦に下半身を抑えつけられたまま逃げられないでいるようだ。
ネバーモアの翼が熱風を生むたびに火勢が増し、蔓が狂ったようにのたうち回る。
「『灰は灰に、塵は塵に』」
きつくぼくを抱き寄せながらミシェルが呟く。
ネバーモアの声が重なり、劫火の只中で深と響いた。
「死に還れ」
「私たちは、その先へ行く」
突如、風琴の音が礼拝堂を揺るがした。
炎が唸りを上げ、祭壇が崩れ落ちる。紅蓮の衣を纏った聖像がゆっくりと傾き――
十字架が真っ逆さまに男へ突き刺さった。美しくもおぞましい影絵に悲鳴も上げられない。
もはや人間とは思えない断末魔は炎に掻き消された。油彩のように揺らめく赤と金の光が地獄を焼き尽くす。
漆黒の翼が高らかに羽ばたきを謳う。
――嗚呼、これは復活の歌だ。
愛する男の腕の中で、ぼくは罪深いほどのまばゆさに瞼を閉じた。




