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薔薇の下  作者: 冬野 暉
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XIII.再誕《ルネサンス》〈1〉

 太陽の燃え滓が西の空から降り注ぐ。

 地平は黒々とした夕闇に染まり、ぞっとするほど空が紅く見えた。眩暈のような不安感を覚え、鉄製の門扉に掴まる。

「ルネ?」

 門をくぐろうとしていたテオドール氏が訝しげにこちらを振り向いた。ぼくの表情に眉をひそめ、磨き抜かれた靴の先を元に戻す。

「……やはり、今すぐにでもここを離れるべきではないかね」

 かれの腕には、しっかりと布に覆われた『わたしの白い薔薇』の肖像画と、父の遺骨を納めた宝石箱が抱えられていた。

 ミシェルの告解を聞いた翌日。ぼくは教会の外で待機していたテオドール氏に連絡を取り、父の死と教会の過去について明らかにした。

 ぼくの話を聞き終えたテオドール氏は、「ギスランはとんでもない愚か者だ」と呻いた。「たったひとりで何ができたというんだ。神すらも救いがたい地獄を……」

 ――きっと、やさしいひとだったから。

 父への恨みがなくなったわけではない。だが前よりも穏やかに考えられるようになった。そうやって少しずつ、父はぼくから遠ざかっていく。

 それでいいのだ。忘却はけして逃避でなく、時をかけたゆるやかな受容でもあるのだから。

 テオドール氏は当然のようにぼくを教会から連れ出そうとしたが、ぼくは留まることを選んだ。

 ミシェルのそばを離れるつもりはないし、何より殺されてしまった孤児たちをこのままにしてはおけない。

 話し合いの末、テオドール氏が折れた。報告を兼ねて肖像画と父の遺骨を旧王都にいるクロード老に託したあと、ぼくとミシェルを『保護』するための手配を済ませたらすぐに戻ってくるそうだ。孤児たちの遺骨は、かれが責任を持って弔ってくれると約束してくれた。

「大丈夫です。少し立ちくらみがして……」

 曖昧に笑顔を取り繕うと、剃刀色の視線が険しくなった。

 テオドール氏は上着の懐から何かを取りだした。「保険に、これを渡しておこう」

 息を呑む。

 ――短剣ダガー

 ぼくが片手で扱える程度の大きさ。鞣し革の鞘が夕陽にぬらりと光る。

「小さいが、切れ味は保証する。抜いてみせれば威嚇ぐらいにはなるだろう」

 淡々と取り扱いについて説明し、テオドール氏はぼくの手に短剣を握らせた。生々しい重みに肩が強張る。

「テ、テオドールさん!」

「言っただろう、保険だと」

 テオドール氏は苦々しく吐き捨てた

「使わずに済めばそれに越したことはない。だがね、ルネ。万にひとつでもきみに何かあれば、私はクロード老にもギスランにも顔向けできない」

「……ミシェルを疑っているんですか?」

 テオドール氏に肖像画と父の遺骨を手渡したのは、ミシェルだ。

 体調が万全ではないこともあって短い時間だったけれど、かれ自身の希望でぼくといっしょにテオドール氏と面会し、父とかれの兄弟の弔いを頭を下げて頼みこんでいた。何年かかっても更生したいというミシェルに、できる限りの支援をしようと手を差しのべていたのに。

「あの青年の境遇は確かに痛ましいものだ。だからといって、人の道に悖る行いを重ねてきた事実が消えるわけではない。この国で、非合法の売春と死体遺棄は犯罪と見なされる」

 テオドール氏の声は鉛となってずしんと響いた。

 護身用の短剣を肌身離さず持ち歩くこと。何か起きても(・・・・・・)正当防衛と主張できる演出。ぼくがミシェルのそばにいるための、かれなりの譲歩なのだ。

 ぼくはくちびるを噛みしめ、拳銃を受け取った。

「ぼくがあのひとに刃を向けるなんて、ありえません」

「私もそうであってほしいと願っているよ。……なるべく早く迎えにくる。かれといっしょに、支度をして待っていなさい」

 テオドール氏はぼくの肩を叩き、今度こそ門のむこうへ去っていった。暮れなずむ街に消えた影を見送り、ぼくは息を吐きだした。

 バサリと羽ばたきが落ちてくる。どこからか肩へ降り立った大鴉がひと声鳴き、警戒するように手元の短剣を凝視している。

「どうしようか、これ」

 乾いた笑いが洩れる。大鴉は人間臭い仕草で首を横に振ってみせた。

「そうだね。ミシェルが知ったら立ち直れなくなっちゃうよ。捨てるわけにもいかないし、どこに隠しておけばいいと思う?」

 大鴉は思案するように首を傾げた。

 ふと、黒い眼がぎらりと光る。

 夕闇を劈く咆哮。驚くぼくの前に躍り出し、大鴉が激しく喚き立てる。

 ……門の前に佇む影。一瞬、テオドール氏が戻ってきたのかと思ったが、暗がりから現れたのは見知らぬ男のひとだった。

 短剣をとっさにズボンの隠しに突っこんだ。

 若いな、と思った。もしかしたらミシェルより年下かもしれない。

 すらりと背が高く、いかにも『いいところのおぼっちゃん』らしい身形をしている。櫛目の通った髪と温厚そうな笑み。

「やあ、こんばんは」

 声を聞いた途端、悪寒が背筋を伝った。

 礼拝堂でミシェルに迫っていた夜の礼拝の参拝者だ。心臓がドクドクと早鐘を打ち鳴らす。

「……白薔薇の角燈に火は入っていません。どうぞお引き取りを」

「神父様はどうしたんだい? ずっとお姿が見られなくて心配していたんだ」

 大鴉が嗄れ声を上げる。男は顔をしかめた。「うるさい鴉だな、追い払ってくれないか」

「お断りします」

 ぼくは眉間に力をこめ、男を睨みつけた。

「お帰りください。夜の礼拝は二度と行われません」

「なんだって?」

 ざわりと空気が揺らいだ。

 街が夜の黒へ沈んでいく――霧のごとく立ちこめる霊猫香の腐臭。

 冷や汗が滲む。濃さを増す闇が大鴉を呑みこもうとしていた。掻き消されそうに危うい大鴉の声に、ぼくはとっさに叫んだ。

「ミシェルのところへ!」

 大鴉が大きく鳴いて飛び上がった。飛び上がろうとして、闇から噴きだしたに叩き落された。

 むしり取られた花のように羽根が散る。残照の空を震わせる断末魔。

「――ッ!?」

「きみがいけないんだよ、坊や。おとなしく鴉を退かせないから」

 男がくつくつと笑いながら近づいてくる。屍肉の香りが喉を突き、ぼくはたまらず嘔吐した。

 ひどい耳鳴りがする。足元からずるずると何かが這い上がってくる。

 真っ黒な植物の蔓だ。びっしりと生えた細かな棘が皮膚に食いこみ、手足を締めつける。息苦しさと痛みに膝から崩れ落ちた。

「……おや。坊や、きみは赤毛じゃなかったのかい? そうしていると、ますます父親にそっくりだね」

 靴先でぐっと顎を押し上げられた。宵の翳りに染まった男の貌は、黒く塗り潰された仮面のように見えた。

「ああ、忌々しい! その顔、その赤目。忘れもしない絵描きの男」

 男の声が奇妙にぶれる。まるで男の後ろで別のだれかが話しているかのように、音声が何重にもひび割れていく。

 ――この男はだれだ?(・・・・)

 ただの人間ではない。亡霊が存在しているのだから、死神や悪魔がいたって不思議ではない。

 ガツリと頬を蹴り飛ばされる。頭から地面に倒れこみ、ぼくはもういちど吐いた。

「まさかあいつの息子がのこのこと現れるとは。今こそ断罪を果たせという主の御心に違いない」

 男はニタリと笑い、上機嫌で礼拝堂に向かって歩きだした。そのあとをうぞうぞとうごめく蔓が追いかけ、ぼくを引きずっていく。

「は……な、せッ」

 なんとか拘束から抜け出そうともがくと、首に蔓が巻きついた。気道を圧迫され、声が詰まる。

「言葉遣いに気をつけたまえ、坊や。うっかり縊り殺してしまったら、あの子(・・・)への〈施し〉のありがたみが半減してしまうではないか」

 ぼくは両目を見開いた。そんな、という呻き声は形になる前に散じた。

 先代の神父様だ。

 犠牲となった孤児たちの無念と同様に、先代の神父様……孤児たちを虐げた大人たちの妄執が消えずに残っていたとしたら?

 だが、加害者たちの亡骸はミシェルが焼き捨てたはずだ。ネバーモアとは違い、灰すら残っていないのになぜよみがえった?

「長かった、実に長かった。どれほど待ち焦がれていたことか。今宵、新たな儀式を経ては復活を遂げる。罪人の子を供物に捧げ、その血によって再誕の洗礼を享けよう」

 男は詩人のごとく恍惚と語り、礼拝堂の扉を押し開いた。

 どろりと滴る闇に金の灯が星屑のように浮かび上がる。高い天井まで光と影が淫靡に絡み合いながら這い上がり、風琴の不協和音がとどろいた。

「ルネ!?」

 祭壇の前に跪いていたミシェルが蒼白になって振り返った。糞ッ垂れ、どうしてよりによってここにいるんだ!

 黒い法衣ではなく白い襯衣を着たミシェルは、呆然と男を見つめた。「あなたは――」

「会いたかったよ、愛しい子。僕の〈天使〉、美しく汚らわしいミシェル・ブランシュ!」

 男の哄笑が高々と反響する。ミシェルは祭壇の下まで後退った。

「し……神父、さ、ま?」

 ミシェルの目には、男が死んだはずの老神父に映っているのだろうか。はくはくとくちびるを震わせている足元へ闇色の蔓が這い寄る。

「にげ、て……ッ」

「ルネ!」

 首を絞め上げられて悶えるぼくの姿に、ミシェルが悲鳴まじりに叫んだ。

「そんなこの坊やがお気に入りかい?」

 蔓を使ってミシェルを祭壇に縛りつけた男は、ゆったりとした足取りでかれに近づいた。

 ミシェルの美貌が恐怖と憎悪に歪む。男の指が粘着質な動きで白い頬をなぞった。

「今すぐルネを放せ……ッ」

「ルネ? ……おお、そうだそうだ。思いだしたよ。ルネ、ルネ・ギスラン。おまえを誑かした絵描きの名だ。なんとまあ、父親と同じ名前を与えられるとは」

 男の目がぼくを一瞥し、うっそりと微笑む。

 まばゆいほどの燭火を浴びて、絵の具をぐちゃぐちゃに塗りたくったような陰影が男の容貌を濁していた。男の影から伸びる蔓は床や壁を覆い尽くし、礼拝堂はさながら黒い茨の牢獄だった。

「今度は失敗しない。確実に殺そう、確実に息の根を止めよう。僕の愛しい子らと同じように、罪を背負って生まれた肉体に祝福を施し、魂を解放しよう。命の限りさえずって、苦しみも悲しみも知らぬ完璧な〈天使〉となるんだ!」

 頭が割れそうな風琴の音色を背に、男が両手を広げて謳う。ざわざわと波打って広がる蔓は、まるで焼け焦げた翼だ。

 ――なりそこないの〈天使〉。 

 ぼくは十字架に磔にされた神様の御姿を仰いだ。清らかな処女の胎から生まれ落ちたという救い主。

 あれ(・・)は、あの男に取り憑いているものは、忌まわしい因果そのものだ。

 傷つけられた子どもが痛みを振りかざし、殺し合い、憎しみ合う循環。くり返される惨劇で奪われ続けた命の慟哭が呪いとなり、あれを作りだした。

 背徳の館は悪夢リリンを孕んだ母胎リリスなのだ。そして今、あれは生まれ直そうとしている。

 ぼくの血をすすり、ミシェルの絶望を苗床に、聖典に描かれた救い主の復活劇をなぞろうとしている。〈天使〉になれなかった子どもの無念を、〈神様〉に成り代わることで晴らそうとしているのだ。

「ルネは、ルネは関係ない。その子はルネ・エカラットだ、ルネ・ギスランではない!」

 声を張り上げ、ミシェルが首を横に振る。男の表情が凶暴に歪んだ。

「フランソワといい、おまえといい、つくづく生意気な餓鬼だ。……教育し直さないといけないようだね」

 不気味に影が揺らぐ。

 青ざめながらも男を睨みつけるミシェルの左目へ蔓が伸びる。

 ひぅ、とぼくの喉が鳴った。


「僕を見ろ――僕を畏れろ」


 熟れた葡萄の実が潰れたような、音がした。

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