類似者との遭遇、或いは無駄話
遠く、遠く、東の果てからやってきた行商人の船があった。何でも東国の珍しい品々を携えて海を渡って来たらしい。東で作られる絵画や彫刻や織物などは、ここメモーリア地域とは違った風合いがあり、金持ちの間で人気があった。船にありったけの工芸品を積み込んで売りに行けば、帰りにはたっぷりの金塊で船が重くなる。そう言った話を聞いて、この船も遠路はるばるやって来たのであった。
数日前、行商人たちはメモーリア海域の南端にある大きな島を出発した。行商の目的地はメモーリア随一の大国、アウロラ帝国である。途中にある地域でも工芸品は高値で取引されたが、一番の狙い目はやはりアウロラであった。強大な軍事力でメモーリア地域を我が物顔にするこの国は、他と比べものにならないぐらい栄えている。当然、金持ちの羽振りの良さも群を抜く。だから一行は更なる富を求めて北へと舵を切っていた。
船は今、アウロラへ向かって北上している。彼らにとっては北だが、メモーリアの大陸からすれば西の海域であった。
商人たちは、遠く離れた東の海から、初めてやって来た一団である。
数日前に立った島の子どもらが歌う童歌を、気にする者は誰一人としていなかった。
【メモーリアの西を通ってはならない 霧の海に決して近づいてはならない】
大陸の西側、アウロラ帝国へは南の島を経由して真っ直ぐに進めるこの海域は、とある船が沈んだ頃から深い霧が漂っていた。
***
雲のような濃い海霧の中に、二隻の船が浮いていた。一隻は船の両側にオールがついている古い形の船である。もう一隻は大きなキャラック船で、広げた帆にゆるゆると靄のような風を受けていた。
二隻の船はちょうど船首あたりがぶつかるような形で止まっている。この濃い霧の中、衝突してしまったのだろうか?しかしその割に船の破損は見えず、むしろ示し合わせてそこで停泊したかのようだった。
霧の上にゆらゆらと揺れる二隻の船は静かだった。
ぶつかったのであれば、双方、船員が飛び出してくるであろう。もし理由があって船首を合わせたのであれば、それはそれで一人か二人は甲板に人がいるだろう。けれども古ぼけたガレー船の甲板にも、大きなキャラック船の甲板にも、ただの一人も乗組員の姿はなかった。
わずかに物音がしたのは、キャラックの船室からである。
逃げるような足音と物が倒れる音、それに微かな悲鳴。最初のうちは銃声も何発か響いていたが、それは無駄だったのか、やがて聞こえなくなった。
船に乗っているのは雇われの水夫と商人のようだった。身なりの良い商売人が、水夫を盾に奥へ奥へと逃げていく。水夫たちは生きるために必死で抵抗するも、一人また一人と胸を貫かれていった。
相手は、たった一人の貴族である。
赤いジャケットと揃いのズボンを履き、首元にはスカーフを巻いた物憂げな紳士であった。その紳士が、白い手袋に収めた細長い指先でカトラスを握り、コツリ、コツリと近づいてくる。薄絹のように細かな髪がさらりと揺れる。密色の美しい瞳が悲しげに見つめてくる。
「ひっ、……ぎゃあッ!」
彼の目に留まった船員たちが次々と倒れ、船の中は赤い血で濡れていた。
【メモーリアの西を通ってはならない】
異国から来た商人たちは、この歌がただの童歌ではないことを知らなかったのだ。ここにで常に深い霧が漂い、不死の伯爵が悲しい殺戮を繰り返していた。これはただの昔話や迷信ではなく、実際にあった悲劇と、今も続く不可解な出来事を歌ったものだった。だからメモーリアに住む人々は必ずここを避けて通ったが、遠方から来た彼らはそれを知らなかった。そうしてその結果、船は霧に包まれ水夫たちは血に溺れていったのだ。
船員たちはどうしてこんなことになったのか、誰一人として分からないまま死んでいった。船の主は逃げに逃げたが、甲板への道は既に真っ赤である。脱出用の小舟へたどり着くことはもはや不可能だった。
最後の最後に這々の体で転がり込んだのが、船倉の宝物庫だ。
内側からも頑丈な鍵を掛けられるその部屋へ逃げ、商人は伯爵が去ってくれることを祈った。アウロラで富豪たちに売りさばき、大量の金塊へと代わるはずだった品々を抱え、この不慮の事故を嘆いた。
響く波音に紛れて短い悲鳴が聞こえてくる。
コツリ、コツリと確かな足音がする。
どしんっと重たい何かが部屋の壁にぶつかり、それからずるりと落ちる音がした。
商人はもう生きた心地がしなかった。
ただ息を潜めて彼が気付かないことを祈り、祈り、生きて帰りたいと願った。
波音がざぶり、ざぶりと船底に響く。
ざぶり、ざぶりと響くその音とは別に、悲しげな男の声が響いてきた。
「近しい人が死ぬと言うことは、とても悲しいことでしょう。後に残されると言うことは、とても切ないことでしょう。誰も彼もが死んだと言うのに、貴方だけが取り残されると言うことは不憫でしょう」
ガチャリッ、と扉が外からの侵入を防ぐ。
鍵がガチャガチャと鳴る度に船長は必死で悲鳴を堪えた。
「……大丈夫ですよ。みんな一緒です。貴方を殺して、私も死ぬ。そうすれば船には誰一人残されることなく、みんなで幸せな最期を迎えられます」
伯爵が優しい声でそう諭すと、カチンと軽い音がして、堅く閉じられていたはずの扉が開いた。商人は悲鳴を上げる間もなく胸を貫かれ、それを見届けた伯爵もまた、自ら胸に剣を突き立てた。
ざぶり、ざぶりと波音が響く中、船には誰もいなくなった。
***
メモーリアの海に幽霊船の話があるように、東の国には死体を食べる宝玉の噂があった。
玉とは丸くて美しい宝石のことである。
それは昔々、国中の男が求めるほどの美女に、時の権力者が贈った宝物だったと言う。美女は権力者に娶られ幸せに暮らしたが、それから直ぐに流行病で逝ってしまった。権力者はその死を嘆き、贈った玉を形見に泣いて過ごしたらしい。玉は大事に大事に扱われ、月日が経つほど美しく輝いていった。
時代が移り変わっても、玉は権力者の証として受け継がれていった。そうして大勢の手を渡り、いつしかそれを手にした者が権力者になれると噂された。噂は争いを呼び、国は血に塗れ、人々は権力を求めて殺し合った。激しく争い合う間に、いつしか噂も宝玉のことも忘れ去ってしまった。そうして発端を思い出したときには、もう宝玉はどこへか消えてしまっていたのだ。
東の国で墓荒らしが頻発するようになったのはこの頃からである。
もしかすると、戦乱のときには墓などあってないような物だったので、誰も気が付かなかっただけかもしれない。とにかく埋めたはずの死体が掘り返され、一部は囓られたり、失せたりするようになった。これを気味悪がった人々は、役人に訴えて墓守を立ててもらうことにした。せいぜい野犬の仕業だろうと踏んだ役人は屈強な男を雇い、三日間だけ番をさせた。
一晩目は月が煌々と照る夜だった。
二晩目は風が物憂げに吹く夜だった。
そして三晩目は、雲が大きな陰をつくる夜だった。
墓守はたった三日墓に立つだけで大金が入ることを喜んでいた。死体どころか野犬一匹現れない。儲けた金で上等な酒にありつける。もうしばらくすれば明ける夜を、楽な仕事だったと決めつけて楽しみにしていた。
けれども彼がうつらうつらとし始めた夜明け間近、墓のどこかでがさごそと物の動く音がした。墓守は一瞬どきりとし、慌てて槍を構えた。もし野犬の仕業なら、これで一突きにしてやろう。そう気を引き締めて立ち上がった。
ぼんやりとした提灯の明かりと、まだ空にある月明かりを頼りに、男は墓を見て回った。そう広い場所でもない。音がする方向はすぐに分かり、そっと息を潜めて近づいた。何かが地面に蹲っている。やはり飢えた野犬が腐肉を食らっていたのだろうか。
男はそっと提灯の火を消し、雲の間から月明かりが出るのを待ち、これを突き殺すことにした。
暖かい風に乗って生臭い匂いが漂ってくる。
死体が食われているのは間違いなかった。
息苦しいほどの悪臭に堪えながら、男は槍を構えて待った。
そしてほんの僅かに零れた月明かりが、獣の所在を明らかにした。
「エイヤッ!」
ずぶり、と男は深い一撃を繰り出した。それは確かに獣の頭を狙っていた。しかしカーンッと言う乾いた音が響き、槍の先は弾かれた。驚く墓守を見返したのは、白く輝く宝玉だった。左目に玉の填まった男が立っていた。
「……良い腕だな。そっちにしよう」
夜が明けて、人々が様子を見に行くと、両腕をなくした墓守が血だまりの中に倒れていた。皆が驚き駆け寄ると、墓守は「玉の男が」と一言残し息絶えてしまった。これを聞いた者は勿論、役人も恐れをなして、その墓地は封鎖された。
玉と聞いて、人々が思い起こしたのはかつて美女に贈られたという宝玉であった。それは戦乱の中で行方知れずになっていたが、もしかしたら、血に塗れた末に悪鬼となったのかもしれない。そう言う噂が巷に回り、人々は夜、墓へ近づかないようになった。
***
不運な東からの商船が霧の海に捕らわれた。
船員は一人残らず伯爵によって殺された。
船にはもう誰もいない。
たくさんの工芸品と、憐れな死体が散乱するばかりである。
最後に殺された船長は、余程惜しい品だったのか、宝物庫で小さな箱ごと胸を貫かれて死んでいた。箱は蓋が外れて中身が転がり出ていた。クルミほどの大きさの、丸いつるりとした宝石だった。宝石は船が揺れるままに床をころころと転がっていた。
ころり、ころり、ころり。
ころり、ころり、…ピタリ。
しばらく左右に振れていた宝石が、何の前触れもなく停止した。床板に挟まったわけではない。船は相変わらず揺れている。それにも関わらず、宝石はピタリと転がるのを止めたのだ。まるでそれ自ら止まっているかのようだった。
ややあって、停止した宝石は再びころころと転がり出した。しかし今度は波の動きによるものではない。床がどちらへ傾こうと気にも留めず、船長の死体へ一直線に転がり出した。そうしてその口元まで行くと、ころりと中へ飛び込んだ。
途端、死んでいたはずの船長の体はぶるぶると震え、大きく跳ねたかと思うと、その左目が内側からブシュッと吹き飛んだ。なくなった目玉の代わりに左の窪みへ填まったのは、口から入った丸い宝石である。それは居心地を確認するかのようにくるりと一回転し、大人しく眼窩に収まったとき、船長の顔は元の顔でなくなっていた。
鼻筋の通った、東国風の美男だった。
宝石が収まった左側はやや醜く歪んでいるが、それを除けば美男である。だが右の目も瞳の白と黒とが反転していて、明らかに人ではない様子であった。
彼がミシリ、ボキリと音を立てながら立ち上がると、体つきはすらりとした青年になった。元の短い白髪がごそりと抜け落ちて、黒紫の美しい毛が生えてきた。男は体の動きを確かめるように伸びをして、それから汚れたボロ服を全部脱ぎ捨てた。ボロの切れ端を少しだけ切り裂いて、それにふっと息を吹きかけると、無数の蝶が彼を包んで服となった。やはり東国風の民族衣装だ。庇が上を向いた丸い帽子に、裾の長い上着とズボンを履いている。帽子の内側からは一枚の布が垂れ下がり、歪んだ左側を隠していた。
「はあ、久しぶりの自由だ。まったく、えらい目に遭った。鍵付きの箱に入れられちゃあ、取り憑くことも出来やしない」
男はそう独り言を吐きながら、長い髪の毛をゆるゆると三つ編みにした。その先っちょには飾りのついた丸い輪を通し、髪を器用に絡めて留めてみせた。
船はまだ霧の中にある。
男があたりを見渡すと、部屋にはもう一つ、胸に剣を突き立てた死体があった。男はこれ幸いと、怪しげな笑みを浮かべながらそれに近づく。乾いた唇を舌でぺろりとなぞる。きっと死体が食事に見えるのだろう。冷たい体をぐっと持ち上げると、首元からスカーフを取り外しがぶりと噛みついた。中に残っている血が男の喉を潤す。そのはずだった。
「んっ?うえッ、何だこれっ?」
だが首筋から溢れ出たのは赤い血ではなく、腐った海水のような塩辛い水だった。男はすぐに死体から口を離し、そのまま床に放り捨てた。その衝撃で気が付いたのか、剣が突き立った死体、霧の海の伯爵は再び悲しい現世に目を覚ました。
起きたばかりの伯爵は少しぼんやりとしていて、床に座ったまま剣の刺さり具合を確認し出した。確かに刺さっている。だが生きている。彼は今回も死に損なった事実にぶち当たり、嘆きながら辺りに目をやった。すると、散乱した工芸品の前に立っている男を見つけた。殺した覚えのない顔を見て、伯爵は腑に落ちたように言った。
「……ああ、私は、何てことを…。まだ人がいたのですね。すみません。貴方も殺さなければ、可哀想ですよね。気が付けて良かった。さあ、一緒に死にましょう!」
「え?ちょっと…」
ずぶり。
「待って、待って。ワタシはそういう生き物じゃないんです」
伯爵は男を認識するや否や、胸の剣を引き抜いて相手を一刺しに踏み込んだ。男はそれで貫かれたが、しかし特別痛がる様子もなく、己で一歩下がり切っ先を引き抜いた。
その不可思議な光景を、伯爵は目を丸くして見ていた。
剣で串刺しにされて死なない人間など今までいなかったのだ。自分一人を除いて。
「……もしかして、貴方も死ねないのですか…?」
「死ねない、って言うのはおもしろい表現ですね。ワタシは玉の悪鬼。ふふっ、悪鬼と言うのは、巷の人間どもがそう呼ぶのです。ワタシとしては、悪だの鬼だのと言われる筋合いはないので、霊という字を足して玉霊と言う名にしています。不死の宝玉、玉霊です」
「……私は、サルヴァトーレ・マッツォレーニです…」
初めて会う似た境遇の人物に、伯爵はどうして良いのか分からず控え目に挨拶をした。
玉霊と名乗る男は、伯爵が大人しくなると腹が減ったと言って廊下へ出て行った。宝物庫を出てすぐの壁際にはまだ血まみれの水夫が倒れている。そこから甲板へ上がっていく途中にも、別の船室へ続く廊下にも、少し前に伯爵が殺した死体がごろごろと残っていた。
玉霊はそれを両手を打って喜びかぶり付いた。
嬉々として死体を喰らう玉霊を、伯爵は不思議そうな顔で見た。
「あの、玉霊さん、どうして死体を食べているのですか?」
「どうして?そりゃあ、ワタシだって喉が渇くし腹が減りますからね。まあ食べなくとも支障はないのですが。目の前に御馳走があれば、食べたいと思うのが普通でしょう。貴方は何も口にしないんですか?こんなにたくさん転がっているのに」
「だって、物を食べたらそれだけ生き延びてしまうじゃないですか。私は早くハッピーエンドを迎えたいのです…。飢えを満たしては、終わりが遠のいてしまいます」
「ハッピーエンド?何の事だか分かりませんが、それじゃあ折角の不死が勿体ない。貴方も死に囚われない存在なのでしょう?だったら世を愉しめば良いじゃないですか!人の近くには愉しいことも、美味しい物も、たくさんあります。美しい絵画を眺めたり、心安らぐ曲を聴いたり。人間とは様々な快楽を生み出すおもしろい生き物です!しかもその快楽とは場所によって異なり、時代によって変わっていく。これを遊び尽くすのに不死の体はぴったりですよ!……まあ、たまにヘマをして、自由に動けなくなることもありますが。しかし死ぬことはない。ワタシはいつまでもこの世を愉しめるのです」
玉霊は伯爵の質問にそう答えながら、狭い箱の中を少しだけ思い出した。
そうこう喋る間にもこちらの死体を啜り、あちらの死体を囓り、食べる度に何だか血色が良くなる様子である。伯爵はその元気になっていく彼を見て、やはり信じられないと言った風な顔をした。
「私が世を楽しむだなんて、とんでもない!……それは、立派な方だけが出来ることです…。私のような落ちぶれ者は、何かを楽しむ資格なんて。ああ、だからせめて、幸せのうちに死ぬことが願いだったのに…」
今回もまた死にそびれた伯爵は、ぎゅっときつく剣を握りしめた。彼は親の理想に成れない自分を嘆き、悲しい未来を見せないために、一族諸共海に沈めたのだった。けれども何の因果か自分一人が不死となり、霧の海に取り残されてしまった。
楽しみも、喜びも、そういった幸福なものと自分とは遠く離れた存在である。自分の不完全さに苦悩する伯爵には、とても不死を謳歌する気になどなれなかった。
「なんと!まあ!勿体ない!」
これに信じられないと言った声を上げたのは玉霊である。彼は思わず口からもも肉を落とし、新鮮な別の部位を持って伯爵に駆け寄った。
「折角の不死ですよっ?どこにでも行ける、何でもできる、時間に制限だってない!やろうと思って不可能なことなどないのです!こんなに自由な世の中を、貴方は愉しまないって言うのですか?アア、それは何て勿体ない。ほら、一口囓ってご覧なさい。味を知ればきっと食を愉しめますよ。貴方は愉しみから目を逸らしているに違いない」
「結構です!私は早く死にたいのです!私には、世を楽しむ資格などないのです!不死の何が良いのですか……、胸を突いても首を刎ねても死にきれない。私は死すら満足に迎えられない出来損ないです。一体……、どうして世の中を楽しめると言うのです。私は死にたい。早く死にたい。なりたくて不死になったのではないのです…」
差し出された食事をはね除けて、伯爵は悲痛な声で訴えた。その目からは大粒の涙がぽろぽろと流れ落ち、白い頬をつうっと濡らした。
玉霊はしばらく伯爵の様子を眺め、何か言おうとしたが、結局何も言わずにまた食事に戻った。腹が満たされた後は使えそうな金を取ったり、体の一部をより丈夫そうな物に付け替えたりしながら、上甲板まで登っていった。伯爵は一人取り残されるのが嫌だったのか、めそめそと泣きながらもその後を付いていった。
甲板から海を眺めても、霧は深く、ぼんやりとした太陽が昼を示すだけだった。
「どうやらワタシは随分と遠くまで来たようですね。こんなに濃い海霧を見るのは初めてです。これはこれで珍しいですが、何も見えないんじゃあ退屈ですね。ちょうど小舟が付いているみたいですし、これをもらってお暇いたします」
「……どこへ行くと言うのですか?」
「どこへでも!言ったでしょう?ワタシは不死ですから、こうして体さえ手に入れば自由に何だって出来るのですよ。さすがに海原から陸まで戻るのは一苦労しそうですが、何とかなるでしょう。陸に上がればそれこそ自由です。食べたり、飲んだり、賭けをしたり、歌ったり。人間という生き物は娯楽を作る才能に溢れていますから、彼らの中にいれば退屈することなんてありません。不死を愉しむには最高の場所です」
「このような太陽も霞む海霧を見ても、その向こうに幸せがあると言うのですか?どうしてそれを信じられるのです?仮に幸福と言うものがこの世にあったとしても、それが自分の手に入るかどうか分からないと言うのに。なぜそう楽観視できるのです?不死とは、終わることが出来ないのですよ?孤独も絶望も、永遠に続いていくと言うことですよ?私はもうずっとずっと、この霧の中で終わることのない悲しみを感じているのです……」
伯爵と玉霊の言葉は、同じ不死の者でありながら全く噛み合わないようであった。
もうもうと立ち込める霧を前に、伯爵はここから出られる望みは、その先に幸福を掴める望みはないと感じていた。けれども玉霊は、慣れない手つきでがさごそとロープを弄り始め、死体を二三放り込んで出発の準備を整えた。海の大きさが分かっていないのか、或いは本当に行けると思っているのか、真面目に陸を目指すようであった。
「どうやら貴方は、ワタシに似た存在なのかと思いましたが、全く逆のようで。貴方がそれを選ぶのなら止める由などありませんが、もし不死の愉しみを知りたいのであれば、一緒に来ても良いですよ」
真っ白な霧の中にざぶんと小舟が下ろされる。甲板からはその下ろされた小舟の様子さえまともに見えない。そんな何も見えない霧の中を、彼は進めば越えられると信じて漕ぎ出すつもりなのだ。黒い手袋に包まれた指先が、蠱惑的に伯爵を誘った。
共に行こうと言われたことは初めてだった。誰かとこんなに長く話したのも久方ぶりのことだった。伯爵はそれが嬉しいようで、悲しいようで、どちらともつかずにまたぽろぽろと涙を零した。
玉霊には霧の向こうを信じることが出来ても、伯爵にはそれが出来なかった。
伯爵は自分の腹をカトラスで抉った。
「ごふっ、……う、ううっ…。はあ、ああ、やはり、駄目なようですね…。久しぶりに、穏やかな気持ちを感じたのですが、まだ死ぬことは許されないようです。私にはこの霧を渡る勇気がありません。人々と笑ったり、楽しんだりする勇気も…。もう、とうの昔に忘れてしまったのです。愛する人たちとの接し方を……。どうぞ、行ってください。きっと貴方のように自ら進めば、この霧の向こうにも陸が現れるのだと思います」
血の代わりに滴る海水が、やはり不死であることを示していた。
黒い手先がやや残念そうに引っ込められ、ぷつりと毛を一本引き抜いた。それを丸めるように捩って息を吹きかけると、小さな玉が一粒できた。奇術を見たかのように目を見開く伯爵に、玉霊はそれを手渡した。
「それでは残念ですが、これでお別れいたしましょう。………しかし、世間をどれだけ歩いても、不死の知り合いは今まで一人もいませんでした。貴方が初めてです。ですから記念にそれを贈ります。本来はめぼしい人間につける印なのですが、それがあれば貴方の場所が分かりやすいので。またいつかお話しましょう」
「また、いつか……?」
「どうせお互い不死ですから、また会う機会もありますよ」
小さな玉を手に伯爵は思わず聞き返した。
白と黒とが反転した瞳で玉霊はにたりと笑ってみせた。
***
小さな舟が、羅針盤の一つも持たずに進んでいく。
けれども乗っている男に悲嘆の様子はなく、風が吹くままに進む船旅を楽しんでいるようにすら見えた。時折気が向くと、自ら櫂でもって加速させたりもする。霧の海を抜けられる保証はないし、その先、陸地へたどり着けるかも分からない。しかし男は久しぶりの自由を喜び、これから何をしようかと空想に耽っていた。
男は、不死とこの世をどこまでも愉しんでいた。
また霧の海を出る男がいる一方で、霧の海に留まる男もいた。彼のハッピーエンドを求める心は変わらずとも、不思議な置き土産にしばらく目を奪われていた。次と言うものを、待っても良いのだろうかと。少しの逡巡では片付かない問題を、彼はぎゅっと握りしめてしまい込んだ。
男は、不死を恨みながらもずっと生きていく。
何処でどう存在しようとも、彼らが不死であることに変わりはなかった。
東国の商船が消えてからしばらく経った後、港町では墓荒らしが出たと言う。
END 2018/4/17