萩野古参機関士 反芻
自己嫌悪と心地のよい疲労とが満ちた夜。操車場は二十四時間体制で貨物をさばいている。その照明がわずかに差し込む。その明かりに手を透かす。ぬらぬらと濡れて光るその手は、筋肉質ではあるものの、飽くまでも女の手だ。煤と油に汚れようと何であろうとそれは変わらない、変えようもない。それを嫌というほど認識させられた日だった。いや、やっている間は認識していなかった、認識する暇すらなかった。手一杯になってしまっていた。でも、終わったあとに改めてそれを認識して、そして、そのあとが今に続く、途方もない自己嫌悪な行為に繋がる。その自己嫌悪な行為のあとの心地よい疲労の伴うまどろみのなかに今日のことを思い返してみる。
はじめの出発のときに、加減弁リバーごと手を握られたこと、そして他にブレーキのときも。その時に萩野機関士の手にすっかり隠れてしまう手が、そして何故かそれが心地よかったことも。すべてがすべて厭だ。いや、萩野機関士のことは嫌いでない。というか、むしろ、ううん、そんなことは考えたくなかった。自分は本当に何だろうか。
考えが空転してばかりだ。空転といや、一度空転する前に萩野機関士が『砂!』と怒鳴り付けてきた。咄嗟に砂を撒いたあと、何故撒くように言ったかと聞いたら、『砂撒きのコックを倒してから砂が線路に落ちるまで1.5秒かかる。空転してから撒いても遅い。空転の予兆を感じたら先に撒け。そのうち予兆が判るようになる。』と言われた。そんなようになれるだろうか。萩野さんのような人に。あれ?ボクはそうではなくてただただ機関士を目指していたのではなかったっけ?気がつけばボクの中心には萩野機関士が居る。その理由は判るけど解りたくない。まだ、その事に折り合いが着かない。着く気がしない。でも、いつか向き合わなければならない。いや、でも、まだ、まだ、ダメだ考えもなにもできなくなってきた。明日も乗務だ……