シルフのイブ
すべての生き物を作り出せても、人を創生させる事には、二の足を踏むものだ。
1度産まれてしまったら、誰が責任を持つのだろう。
最初の分裂が始まったシャーレか。
つまみ上げたピンセットか。
それを見守る者達か。
彼女は5歳。
タップリした金髪が美しい。
眼は翡翠色に輝き、頬は春を乗せて微笑む。
その成長の早さに、教育カリキュラムが追いつかないほどだ。
すでに150センチを超え、朝昼晩と測る体重は36キロになっていた。
早逝した少年の細胞から産まれたので、アダムの肋骨から生まれた神話そのままに、『イブ』と名付けられていた。
良く笑い、良く食べ、良く眠る。
だが、これ程のスピードで育つ事は、想定外だった。
教育係の楢林は、明日からのカリキュラムの制作に悩んでいた。
義務教育レベルはすでに、卒業していた。
だが、情緒面が追いついていないと、分析官の村上に、指摘されていたのだ。
同年代の友人も無く、ひとりぼっちなのだから、感情の起伏などというものが、そうそう湧き出すものでもないだろう。
周りはガラス細工のように、今まで接してきていたから、幼少期でさえ、グズって泣いていた記憶も無いのだ。
ふと、イブがまだ5歳と3ヶ月なのを思い出し、苦笑いが出た。
少年の名の付いた財団に提言しなければならないだろう。
シニカルな村上が、手伝ってくれるとは限らないので、楢林がレポートを書いているのだ。
楢林は、ペットを飼わせたいと、書き上げると、メールを出した。
笑われるかもしれない。
犬猫より、しっかり教育過程を進めろと、多分そんな返答が来るだろう。
書くだけ書いたのだ。
次は村上にやってもらおう。
モニター越しに、眠っているイブをしばらく見てみたが、もはやそこには、幼子は存在していないようだった。
ブザーが鳴り、生活面を見ている森高瑠美が、外に立っていて、会議室へ来るように言うと、サッサと行ってしまった。
サッパリした性格なのだが、あまりにサッパリしすぎてるような気がした。
もう少し、母性の強い女性の方が良かったんじゃないかと思ったが、それは執着だと、村上に言われたことを思い出した。
イブは普通の子供ではない無いのだが、楢林は割り切れずにいた。
会議室では、イブの成長著しい事が、毎回の議題だ。
すでに、女性体として、完成しつつあったのだ。
身長も今朝、3センチ伸びたという。
門田室長の顔も曇る。
楢林の『ペット』は、却下されていた。
何もかも飲み込むイブは、まるでスポンジの様だったが、中身は空っぽだと、言ってやったが、まだ5歳だ、と、これも退けられた。
ここにいる誰もが、問題を受け止めようとはしていないのを、楢林は感じていた。
絵本の花やお話の友達では、情緒が育ったないのだ。
外見は大人に見えても、やはり中身が伴わない。
AIの時とソックリな間違いが、待っているのをひしひしと感じる。
あの巨大な国でさえ、AIの情緒面での構築に、100年もの、足踏みをしたのだ。
考える機械が、感じる事に気付くのに、それだけの時間を要していたのだ。
イブは、貪欲に、ここでの日々を呑み込む。
用意されてる答えを導き導き出しはする。
だが、そこまでなのだ。
何が、何故が、感情の起伏や喜びにつながるのか。
まとまらないまま会議は、なし崩しに終わった。
森高が、昼寝から目覚めたイブの面倒をみる為に退席していった。
村上は、馬鹿にした様な顔で半笑いのまま、自分の部屋に帰って行った。
誰も彼も、育ちすぎる娘の将来なんて考えてもいない。
何処までも続く館内の壁の迷路を抜け、中庭を歩く。
生き物は、どうやって心や気持ちを手に入れたのだろう。
自分自身、物心ついた頃には、母親も父親も他の兄弟達も好きだった。
好きとしか、言えない。
あのAIが計算上とはいえ、感情に気付いたのは、奇跡なのだろうか。
理不尽な感情の源は、1度開けば溢れて来るのだろうか。
嫉妬や激情、歓びや慈愛が、降ってくるのでは無い事は、気付いてはいたが。
楢林はそれから、体調を崩していった。
微熱が続き、村上に『知恵熱』だと、嫌味を言われた。
たまたまお抱えのドクター津嘉山が休暇中で、看護師2人だけだったので、診察が出来ない。
解熱剤は、切れると熱が上がるだけだったので、勿論イブの教育に、支障をきたしている。
財団は、行き詰まっている楢林をお払い箱にする良い口実が出来たと、考えたのも仕方の無いことだった。
荷物をまとめて、津嘉山と入れ替えに、楢林はこの施設を後にした。
ホッとした自分自身を、そこに見つけたのだった。
それから、3年。
楢林は幼稚園の雇われ園長をしていた。
あの財団の持ち物だ。
イブとの事は、忘れたくても、契約に縛られていた。
1度、足を突っ込んだら、この沼からは抜け出せないのだ。
死ぬまで緘口令を敷かれている。
ここに来てからは、1日が早い。
行事にも追われた。
卒業式も終わり、春休みを迎え、つかの間の休息を感じていた。
園内の卒業おめでとうの飾り文字や講堂に並べられている小さな椅子の乱れが、昨日の式典を思い出させる。
誰かが落としたおめでとうの短冊のついた、花の胸飾りを拾う。
ここを片付け、入園式に様変わりさせるのは、2~3日後になるだろう。
講堂の扉に鍵を掛けて、シンとした廊下を職員室に向かう。
園庭に植えられている桜の蕾は、膨らみかけていて、このまま暖かさが続けば、入学式のまえに、花開くだろう。
たった2週間程の春休みなのだ。
全てを見て歩き、鍵を確認して、正門も閉じた。
そのまま駅に向かい、これから電車に乗るのだ。
あれから、決して切らしたことが無い、充電器に刺さったままだった携帯電話を持って。
卒業式の昨日、それは短いメールを受けていたのだ。
静かな昼下がり、後をつける者もいない。
最初の1年間は、見張られていたと思える事が度々起きていた。
幼稚園の職員も、児童の保護者も全てそう見えてしまったのは、仕方のないことだろう。
だが、規則正しく進む毎日と小さな何十もの手が、楢林にイブとのあの生活を忘れさせてくれていた。
止まっていた児童書の出筆も、又手がける気力が湧いて来ていたのだ。
常に子供との距離感に親は悩む。
親自身、答えが出せない問題なのだ。
そんな問いに、答えらしき物を書いていた幼児雑誌の連載がまとまり、加筆して1冊の本になったのだった。
その本もやがて、古くなるのだろう。
教育とは、常に脱皮し続ける、蛇の様だ。
2つの私電を乗り継ぎ、終点の駅に着いた。
春の山の息吹きが、肺に満たされる。
清々しい。
ロープーウェイに弁当を買って乗り込み、山頂駅に着いた。
桜祭り前という事もあって、さすがに疎な観光客と静かな土産物屋が、影を濃くしながらたたずんでいる。
傾いた日差しは、色を変え出していた。
山頂からの眺めは、明かりを灯しだした柔らかな色が、影と交差していた。
適当なベンチに腰掛け、弁当を食った。
昼を食わなかったので、旨い。
ゴミを片付けると、ここの山の寺に向かった。
いつの間にか、店は閉じ、疎な人影も消えていた。
春まだ浅い、肌寒い夕方だった。
足元が暗くなり出していたので、歩みを速めた。
寺までは、道も整備されていたので、難なく着いた。
ここいらの伝承で、ここには天狗が祀られている。
寺の脇からは、二股三股に分かれながら、後ろの山々に続く道があるだった。
山は深く、濃い色に染まっている。
用意して来た懐中電灯を出すと、楢林はその道に足を進めた。
近年観光で賑わっているこの山は、子供でも登られるが、意外と連なったその奥は深い。
時々遭難者が出たりもしていたので、楢林は慎重に、携帯に送られて来た地図を見返しながら、夕陽の届かない山の中に、分け入って行ったのだった。
分岐点には印があり、楢林はそれに導かれながら、前に進んだ。
ザワザワと風が渡り、空気がすっかり夜の匂いに染まった頃、ポッカリと開けた場所に着いた。
距離的には、そんなに歩いてはいないだろうが、別世界に来た様な気分になった。
明かりの灯った家が視界に入った。
入り口の戸を叩くと、返答があり、やがて戸が開いた。
出てきたのは、村上だ。
「久しぶりだな。
さっ、入れよ。」
「お邪魔するよ。」
外の古民家風な外見とは裏腹に、中はモダンだ。
広い土間が横に伸び、左右に曲がって消えていた。
村上が、格子のランダムな障子風の戸を開けると、板の間にソファのセットが現れた。
「あ、靴のままだ、ここは。
山の中なんで、寒さ避けの戸だしな。」
相変わらずな、村上だった。
戸を閉めると、フワッと暖かい。
思ったよりも、寒かった様だ。
「さ、座って話そう。
幼稚園の先生ってのは、良い職場だよな。」
「あぁ、ひと段落した。
卒園が終われば入園だ。」
横の戸がスルスルと開いて、背中の曲がったお婆さんが入って来た。
手には、珈琲の乗ったお盆が携えられている。
中腰で、それを村上が受け取る。
お婆さんは、そのまま村上の横に腰を下ろした。
「さ、暖かいうちに飲めよ。」
珈琲は、美味かった。
下を向いているお婆さんを、村上が紹介してくれた。
「楢林、覚えてるだろう。
俺たちのイブだ。」
目を疑った。
一瞬、辺りのひかりが反転してしまったかのような、錯覚におちいった。
天井の和紙の照明の明かりの下、皺くちゃで静脈がゴツゴツと浮き上がった手が、膝の上で堅く結ばれている。
ザンバラに切られた髪は、無造作に後ろで三つ編みにされていた。
顔は、影の下、頬のたるみに筋を作っている。
「土台ってのは、辛いよな。」
村上の声が、クラクラしている頭を殴って来る。
「なんで、こんな。
イブなのか、、。」
うん、と村上が頷いた。
「幼生成熟が、起きていたんだ。
二十日鼠を知ってるだろう。
彼らは、産まれて二十日で、成人して次の世代を産む。
人のようなダラダラ長い幼年期を持たない。
イブは、もともと子供を産むようには作られていなかったのだが、そこが落とし穴だった。
成熟の度合いを見過ごしたんだ。
楢林、俺らが見ていたのは、子供では無かったんだよ。」
珈琲の湯気の中、村上の話は続いた。
「お前が去ってから、急速に老化が始まった。
半年も立つと、イブはすっかり様変わりしてしまったんだ。
お前の意見が聞きたくて、今夜来てもらった次第だ。」
意見。
老婆になってしまっているイブに、本人を目の前に、何を言えば良いのか。
「さ、あっちに行って良いからな。」
こくんと頷くと、少し足を引きずりながら、イブはお盆を抱えて、出て行った。
「そう、ジロジロ見るなよ。」
「いや、目が離せないだけで。」
気まずい。
想像していたのは、美しく育っているだろうイブだったのだ。
「あのアダムとイブが、エデンの園から追放されたのは、歳経てしまったからかも、な。
俺たちのイブも、同じ運命という訳だ。」
「それにしても、なんで。
まだ3年、だろう。
早過ぎないか。」
村上が頷く。
「止められなかった。
ミトコンドリアが暴走したんだ。
先月、心筋梗塞、起こしてるしな。」
「追いつかなかったのか。」
「何がだ。」
「情緒の形成だよ。
身体が成長するスピードが早過ぎて、ついて行かれなかったのかも知れないと。」
「そうか。
言ってたな。
だが、あの時ですら、すでに遅かったんだ。
先見の明が無かった俺らは、イブを苦しめていたのかも知れない。」
2人の男は、沈黙の荊で、胸を締め付けられていた。
傍若無人で人を見下すような村上が溜息をついた。
「あの時君からの意見を、もっと早くに検討していたら、イブの姿も心も変わったかもしれないな。」
「結果論だよ、それは。
3歳の時は普通に見えたし、その後の急速な成長を止める手立ては無かっただろう。
今のイブは推定何歳なんだ。」
「80かそれぐらいだな。
衰え出してから、加速してる。
感情の起伏が無いので、どう思っているのかも、こちらからはわからないんだ。」
そうか。
情緒は育たなかったのか。
楢林は、次々質問をしたが、満足な答えは返ってこなかった。
「次のイブは。」
楢林の問いに、村上はニヤッとした。
「頓挫したよ。
ビビった医者が、逃げた。
勿論、直ぐに捕まったが、ガンとして、2人目のイブを生み出さない。
それがネットに漏れて、あの施設に来る医者は皆無だ。
なあ、俺らは失敗したんだよな。
人工子宮までは、良かったんだがな。」
村上は何処か遠くを漂っている。
楢林は、産まれたてのイブを知らない。
彼がイブに携わったのは、3歳からなのだ。
小さかったイブは、可愛く美しかった。
そして、みるみる大きくなっていったのだ。
「よし、飯にしょう。
ついて来い。」
立ち上がった村上に、急かされながら、部屋を出て土間をあるいた。
そこには、広い清潔な台所と食卓テーブルが待っていた。
「アレで、イブは料理は上手いんだ。
さ、食べよう。」
「で、イブは。」
サッと村上の顔が曇った。
「後でな。
まあ、食え。」
気不味い食卓だったが、味付けは旨かった。
なんて事のない山菜と姫筍の天麩羅。
ネギとワカメのみそ汁。
古漬けの沢庵。
噛み応えのある胡麻豆腐。
がんもどきと大根とじゃが芋の煮物は、殊の外、旨かった。
梅干しと海苔の佃煮の小鉢も添えられていた。
「精進料理って、ヤツだが、まあまあ喰えるだろう。」
ニヤリと村上が笑った。
「いや、旨いよ。
これみんな、手間暇かかってるだろう。」
「だから、こそなんだ。
イブはお前に食べてもらいたいんだよ。
あれはもう、命が消えるからな。」
村上から、ため息が漏れた。
そして。
箸が止まり、ポタンと涙が落ちたのだった。
男二人は、お互いを見た。
一晩、二人は島での日々の思い出を語らった。
あれっきり、イブは顔を見せなかったが、楢林は深追いはしなかった。
朝起きると、朝食の支度はされていた。
サッパリとした蕪の酢の物と蒟蒻の甘辛煮。
豆腐のみそ汁が旨かった。
別れを告げると、朝霧の立ち込める中を、楢林はひとり、下山した。
そして、半年後。
村上から、イブが塵になり、この世から呆気なく去って行ったと、メールが来た。
風の精の様だったと、何時になく感傷的な村上のメールは、次の日も来た。
あの山の寺に、小さな石の地蔵を奉納した、と、記されていた。
楢林は、夏休みのその日、あの山に登った。
蒸せ返る深緑の中を、木立の影に癒されながら。
寺の敷地内をあちこち探し、その小さな地蔵菩薩を見つけた。
イブに良く似て、ほんのりと笑いかけてくれている。
村上は台座に当て字で、イブの名前を彫っていた。
《知流布乃納毋》と、読める。
楢林と村上以外、そう読む者はいないだろう。
最後のメールで、シニカルに村上はこうかいていた。
『イブは、風なんだよ。
まるでシルフィードのひとりの様だったじゃないか。』と。
美しい髪と衣をひるがえし、風の精達は乙女の姿で、笑いながら、お喋りしながら、世界中に風を送っているのだ。
例えそれが、神話の中だったとしても、イブはそこに居て、笑って風をまとって、笑って居て欲しいと、村上は思ったのだろう。
楢林は、絵本を描き始めていた。
美しい島で、風の精と出会う少女の話だ。
題名には、シルフのイブと付けよう。
いつか、又、村上からメールが届くかも知れない。
小さな地蔵菩薩に花を添えてから、楢林は下の世界に帰って行ったのだった。
今は、ここまで。