京洛御伽草子(きょうらくおとぎぞうし) 東の方より上りける人宿し処にて鬼に喰われたるとか
1
「主人は鬼に喰われたのでございます!」
なかなかに芝居がかった声が聞こえてきて、麻生は廂のところで足を止めた。
「さて? 鬼とな?」
こちらもまた芝居がかっているが、そうと気づくのは鬼市の者だけであろう。しろうとが、と鼻で笑って追い出さないところからすると、この客はいい金づるのようだと推し量りながら、とりあえず成り行きを見守ることとした。
「はい、まことに恐ろしい夜でございました。」
気難しいことは内にも外にも知れ渡る鶴郎女の興味を引けたと確信したこの客は、声を震わせて言を継いだ。
秋の陽はつるべを落とすごとしである。瞬きするごとに、一枚また一枚と薄絹を重ねるように辺りは暗くなっていく。
ここは京まであと半日という地点であった。本来ならば、今日の昼過ぎには京の居館に着く予定であったが、今朝の出立が大幅に押したためにこんな半端な所で日暮れを迎える羽目となった。
東国からの長い旅も終わるから前祝とか景気づけとか理由を付けて、浮かれ女なども呼び寄せて、前の宿ではどんちゃん騒ぎ。共寝の女と高いびきで日も高く昇ってから起き出してきたわけだから、この事態は自業自得である。
旅慣れた一行ならば少し無理をするところだが、初めて旅に出たところの若い主人は二日酔いも抜けきらないから、一夜の宿りを探すように命じた。
しかし少し昔に水害に遭ったようで、草が生い茂る荒れた農地と水と土砂に汚れたあばら屋ばかりである。
物陰から何かが這い出してきそうなおどろおどろしさを漂わせる、黄昏の、人気のない集落跡を一行は進み、水が上がった跡や、おそらく放棄されたのちに野盗に荒らされても、かろうじて形の残っている家を見つけることができた。名主かそれに準ずるような家筋だったのだろう。厩を備えた屋敷だ。
鉢合わせしてはたまらないから野盗がアジトにしていないかは慎重に確認して、一行は宿ることを決めた。厩に近い手前の房を下人たちが、中の房を侍たちが、中庭に面した奥の間に主人が入った。主人はすぐに寝息をたてはじめ、家臣たちは藁で宿直の順番を決めた。
穏やかな、風も殆どない夜だった。
家臣たちは小さな火を焚いて外を警戒したが、タヌキか狐のような小動物が草陰を走る気配があっただけで、何事もなく白白と夜は明けた。
出立の準備が始まっても一向に出てこない主人に房の外から声をかけたが、返事がない。昨夜は酒の持ち合わせはなかったから酔いつぶれているということはないはずだ。疲れもたまっていたのか、とあとは主人が馬に乗るだけまで準備を進めて、再度声をかけた。しかし、やはり応えはない。
奥の房からは、物音一つ聞こえなかった。
もしや具合ほ悪くしているのだろうか、とやにわに顔を強張らせて、主人の(仮の)房へ踏み入った次第だ。
彼らが見たのは、伽藍とした、だれもいない房だった。昨日、主人が入る前に確認したままの、古い鞍櫃とぼろぼろの几帳だけが残されていた房だ。
若い主人が横たわっていた位置に、彼の直垂が乱雑に投げ出されているが、彼の姿はどこにもない。
まさかとは思いながらも傾いた妻戸を数人がかりで力づくで動かして、裏庭も確認したがそこにも主人はいなかった。
廃村中を探しても次の日の朝が明けても。
----主人の姿は喪われたままになった。
それで、と客は言を継ぐ。
「旦那様がたいへんに心を痛められております。」
郎女はきっと肩を竦めていると麻生は思った。こうして鬼市の守に直接話を持ち掛けていることが、言わずもがなの伝手を語っているとういうのに、念押しのつもりなのだろうが、郎女の矜持を逆なでする悪手といえよう。
「我が主人は実はさる貴き方の御血筋で、訳あって鄙の方でお育ちでしたが、此の度漸くお手元に迎えんとしたところの悲劇でございます。何としてでも行方を探り、取り返したい、というのが切なる親心というもの、」
「----ほぉ、」
「ですが、御子息の行方知れずという私の苦悩に耐えながら、京よりほど近い場所で鬼が跋扈するとはあってはならぬ、民草が怯えて暮らすようなことはあってはならぬと公の憂いあってこそ、わたくしは遣わされたのです。」
酔っていて、
「・・・なるほど、」
すでに棒読みであるが、きちんと詰めるらしい。
「その若主人とやらが、とこぞの浮かれ女と手に手を取って月の下の道行を気取った可能性は?」
「ございません! 漸く父君の下でお役立てると胸を弾ませておいででした。」
「ふぅん?・・・じゃあ、もう一つ。父親のほうで、若主人を要らないというひとは一人もいないんだね?」
「それは・・無ろ・・」
「話は正しく共有してほしいね!」
ぴしゃりと言う。
「北の方には男子はなく、姫君の婿を親戚筋から迎えるという話もあったようだが、そこでその旦那様とやらが、実は・・と宣わってひと騒動。そうじゃないかい!?」
鬼市を舐めるんじゃないよ、という啖呵が聞こえるようだ。
「それは・・その、確かに・・そんなこともあったようですが、・・北の方さまもご親戚も、ご家中納得されていると・・いまは。」
「あたしが言うのもなんだけどね、」
しどろもどろな遣いをきっと睨めつけているが、けれど憐れむような声だ。
「人の世で鬼が出たと騒々しい時は、おおかた、鬼のような所業があっただけさ。」
「鬼の仕業ではない、と?」
「人間は何かというと鬼なる名称をもちだすけどねえ⋯いったい鬼とは何か、きちんと定義できているのかねえ?」
「鬼市の守が思いがけないおっしゃりようだ。まるで、鬼がいないように聞こえますぞ?」
不穏な気配を感じたのか、笑おうとして、頬にひっかかった、そんな声だ。対する守は、無表情に見返したのか、はたまた唇を歪めたか、部屋の外の麻生には判断がつかない。
「入っておいで、」
言い募ろうとした相手を躱すように、守は妻戸のこちらに声を飛ばしてよこした。
このまま部外者としていたかったな、と思ったが呼ばれた以上は応えないと怖い。
「は----子ども?」
髭もじゃらの大男か、枯れた老人か、外見が能力を保証するけでもないのに。
「うちの売り出し中の術者のひとりだよ。」
文句があるのか、と皺だらけの瞼の下の目は鋭い。
麻生も、彼より二十以上は年上の使いの男も、彼女にしてみれば等しくひよこ・・どころか、たまご以前なことを、麻生は弁えているが、使いは分かっていない。
「ばかにしているのか!?」
かつ。
鬼市を頼ってはきても、結局は地下人と下に見る心を覆い隠せないものは珍しくもない。
恫喝するような勢いで立ち上がった男を横目に、麻生はいつものように身の回りに簡易の結界を張ったのである。
依頼交渉は仕置きが終わってからだ、と。
2
「----鳴神か、」
今にも雨を溢しそうな昏い空を見上げて、若者はそう呟いた。
「若君、」
馬を寄せて、従者が上申してきた。
「天気も荒れてくる模様です。このまま進むのは、夜道に慣れぬ者には危いことと存じます。」
「・・しかし、」
もう少しで終着地だというのにと、逸る気持ちはありはしたが、夜道に慣れぬ者というのが遠回しに自身のことだと察することができないような居丈高な人物ではなかった。
「この辺りに皆が宿れるような場所はあるだろうか?」
と問えば、林の奥には打ち棄てられた集落があり、その中には雨風を凌げそうな家屋があるという。前の宿で、天気が荒れてきそうだからもしもの時にと教えられたのだそうだ。
一行は林の小道を抜けて、廃村の奥にあった古い家の傾いた門をくぐった。
厩に馬を繋いだところで、空は一気に雨を落とし始めた。僅かに残していた携帯食を食べた後、従者たちは馬屋の様子が窺える房で、若君はそこから少し離れるが最も屋根と壁が残った房で休むことにした。
外は激しい雨と雷、そして吹き抜ける風で建物もガタガタ鳴りっぱなしで、横になったものの眠りにつくことはできなかった。
夜半をすぎて漸く風雨は収まり、切れた雲の間から月光が差して、外れかけた半蔀から室内を青白く染めた。
いつの間にか、うつらうつらとしていた若君がうっすらと目を開いた。夜に、初めての場所で目を覚ましたことがある人は心当たりがあると思うが、先までは全く目につかなかったものが無性に気になることが起きる。
殆どは、夢見心地の気のせいで、再た眠りに落ちるまでの物思いに過ぎないが----。
住人がこの家を離れる時に置いていったのだろう、奥の壁際にぽつんとある鞍をしまう櫃を若君のぼんやりとした視線が撫でる。
ほとりごとり、ほとりごとり。
何かを動かす音を、夢と現の間で何だろう、と聞いていたが、やにわに目を瞠った。
その音は、鞍櫃の方から聞こえてくる。房には若君しかいないのに、行き止まりの壁際で、鞍櫃の蓋が、ほとりごとり、とひとりでに動いて開こうとしている。そう、見えた。
それだけでも恐ろしいが、少しずつ開いていくそこから、きっと何かが這い出して来るような予感がして、若君はかけ布にしていた上衣を握りしめた。
夢だ、と目を閉じてこのまま眠ってしまおうか。いや、武士たるもの、そんなことではいけないと自らを奮い立たして再度首を倒して櫃を見据えた。
ほとりごとり、とだれも居ないのに、月明かりに白く浮かんだ櫃の蓋は確かに動いている。
そして、そこから溢れてくる重い気配が、見えない煙のように床を流れて、ひたひたと横たわる若君に向かって迫ってくるように感じられた。
ここにいてはいけない、と強く思ったが、さて、ここで跳ね起きて一目散に逃げだすのは得策とは思えない。
一気に襲わず、このように気配を消してじわじわと迫ってくるということは、用心深いのか見掛け倒しだからなのか----後者だといい、と息を調えながら思案する。
とすれば、気づかぬふりでこの場を離れて従者たちと合流すれば良いのではないかと決心した。
若君は今目覚めたばかりに身じろいで、
「やあ、」
と、独り言ちながら、
「なんだか目が醒めてしまったな。・・おや、雨も上がったか。」
そろそろと体を起こした。
「まだ夜明けには時間があるが、厠に行くついでに馬の様子を見に行こうか。」
しかし、若君が立ち上がるのと同時に、かたんと櫃の蓋が床に落ちた音がした。それは丁度時が来たのか、はたまた逃げようと言う気配を感じ取ったからなのか。
どちらにせよ、蓋が落ちた音だと気づいた瞬間、若君の意識はぷつりと途切れた。
3
「あにさま!」
高い高い秋の空に浮かぶ鰯雲を遮って、ひょこっと妹が上から彼の顔を覗き込んだ。
「たんれんはもういいの?」
「ああ、今日はもう終いだよ。」
草の上に半身を起こすと、妹は脇に退きながら彼の衣服についた草葉を小さな手で払ってくれた。
「きょうはどんなたんれんをしたの?」
「いつもと同じだよ。」
「こういう?」
千切った丈の長い草を振り回すのが微笑ましい。
「そう刀術、それから体術、」
「きょうもぜんいんたおしたの?」
「・・まあ、」
「やっぱりあにさまにはだれもかなわない!」
膝にじゃれかかってくる小さな体を、そのまま脛に乗せて宙に浮かしてやれば、きゃっきゃっと光を弾くような笑い声を立てた。
「おじさまも従兄さまたちも、この年ですごい才だ。どんなに強いもののふになるか先が楽しみだとうれしそうだよ! あにさまがいればうちはあんたいだって!」
手放しで褒めてくる言葉がくすぐったい。
「かえろっ!」
おやつがあるよ、と伸ばされた手を掴んで(けれど力はかけずに)立ち上がった。
見慣れたあぜ道を屋敷に向かって歩く。収穫は終わっていて秋じまいに向けて領民が働いている。二人を見かけると挨拶をしたり手を振ったり、総じて愛想がよい。
穏やかな景色を眺めながら、どうして自分はあそこで独り寝転がっていたのだろろうかとふと思った。
----いや、そうだ・・・稽古が済んだ後はひとりになりたい・・?
どうして、と進もうとした思考を妹の声が遮る。
「あ! 次従兄さま!」
門柵の前で、伯父の二番めの息子と出くわした。
とっさに身構えたが、 彼もまた親和的な物腰であった。
「おかえり。」
当たり前の挨拶なのに、身体が勝手に目を瞠る。
「今日も見事にやられちまってな~、」
と、次男坊は傍らにいる遊び仲間に話しかけた。
「十も離れてるってのに、いやいや強すぎだよ?」
「こちらが神童と評判のぼっちゃんですかい?」
にこにこと気のいい笑み。心地よい----はずなのに、どうしてか心の臓が抉られた感じがして、そこから真っ黒い何かが染み出してくる心象に、着物の合わせを握りしめた。
「おでかけ? 次従兄さま?」
「ああ、今夜は戻らんよ。」
「坊ちゃんももうちょっとしたらお誘いしますからね?」
男同士の目配せをする男の袖口から、下腕から上腕に向けて刻まれた刺青の黒が目を灼く。
へび・・いや、ムカデ・・。
「----行ったら、・・だめ、だ。」
また、どうしてか言葉が口をつく。
行かせては、連れて行かせてはだめだ、というこの絶望感はどこから来るのか。
「・・今夜は・・そう、・・ひどい嵐になる。出かけない方が・・いい。」
「嵐って、」
雲一つない、抜けるような青。
「----山のあちらに雲がでる気配が・・ある。」
確かに嵐はくるが、とても信じてはもらえそうにない----はずなのに。
「そうかい。」
従兄は頷いたのだ。
「じゃあ、今日は家で飲むか。」
刺青の男もあっさりと同意した。
「そうしましょうや。」
そして、本当に門の外には出ず、内へ歩いていったのだ。
どうして、と茫然とする彼の手に妹の柔らかい指が触れる。
「あにさま、あたしたちもいきましょ?」
妹に手を引かれるまま、彼も門の中に進もうとして----その境で足は止まった。
「あにさま?」
突然動かなくなった彼の手を、門の内側から引きながら、妹は上目遣いで甘えた声を出す。
「はやくいきましょう? おやつを食べてごはんをたべて、温かい臥所でゆっくり休んで、明日も鍛錬に出て、皆があなたの凄さを讃えるわ。」
あどけない顔に、蠱惑的な色が浮き上がってくる、不均衡な表情は・・なんだ?
青い青い、澄み渡る空。降り注ぐ陽の光は、白く明るく。風は穏やかに。
優しく、彼を受け入れて肯定する家族。
----真逆だ。
彼は笑った。声を上げて。
笑って笑って。
その様は異様である筈なのに、妹はぴくりとも動かず留まっている。
笑いすぎて、涙が目じりに滲んで、頬を伝って、地面に落ちる。
刹那。
空に一閃、縦に線が走った。そこから陽より煌めく白い光が零れて、辺りを----いや総てを皓く染めて、そうして炎はないが、紙を燃やしたように、なにもかもがチリチリと形を崩していく。
つないでいた手も、愛らしい姿も、黒く縮んで、塵も残さず、なくなった。
なにも、だれも、ない、真っ暗な空間に彼は佇む。深い壺の底にいるような彼の頭上に、上方から白い紙片のようなものが円を描きながら落ちてくる。
彼はゆっくりと腕を上げ、その指先が紙片に触れた。
「急急如律令、」
言の葉に応えるように、掌ほどの小さな紙はぶわりと広がり、大きな鳥に変じた。
4
彼が背から降りると、鳥はまた紙片に戻った。懐にそれをしまってから、待ち構えていた相手を振り返る。庶民が着る粗末な水干姿が、貴族の若君の微行姿にしかみえない麗しい容姿の少年は、鞘に納めた太刀を地に突いた姿勢でじっと彼を見つめていた。
「いい塩梅だった。」
おとり捜査の一部始終を別の式神で視覚を共有していた少年から、らしくない気遣いの色を感じて、彼はあえて大きく肩を竦めてみせた。
「・・そうか、」
「まあまあの・・悪夢だな、」
言葉とは裏腹に、に、と笑えば、若者は怯んだように肩を引いた。
なにもかもが、逆さまの空間。
いわば壷中天。
取り込んだ者の、見たいものをみせて----閉じ込める。
竦めた肩を、少年がどう思ったかは知らない。
少年も、彼----麻生も、来し方を語らない。ただ、互いの中に埋めようもない虚があることを感じ合って、いまの互いだけを見ている。
「----で、こいつ、」
鞘ごしでも、少年の太刀が放つ気にあてられて、ほとりごとりとまるで身もだえするように蓋が動いている。
「つくも、か?」
大切に使い続けられてきた道具が、年を経て意志を宿した何かに変ずることがある。
「いや、」
「やっぱりなりそこないか。」
ほとりごとり、まるで抗議するように蓋が動くが、二人は慌てることなく分析を続けた。
「経っていない。」
「人を喰らって満ちるのは、付喪神の器ではないというのに。」
あとほんの少しで付喪神になれなかったコレは、だからこそ、そこそこ強い呪物と成り下がった。
少年が柄を握る手に力を込めるのを、麻生が止めた。
「おれがやる。」
できるのか、とは問わなかった。ずっと、麻生が支援し少年が決着を付ける態勢ではあったけれど、効率の話でしかない。
これも、わざわざ語ったことはない話だ。
「----珍しい、」
と、一言だけ。そして、いつもとは逆に少年が下がって、麻生が前に出る。
麻生は右手を鞍櫃にかけた。
ほとほとほとほと、怯えたように櫃は鳴り続けている。
「お前は立派な鞍櫃で、ずっと人の役に立ってきたのだろう。そして、ずっと人の役に立ちたかったのだろう。」
ビシリと櫃が軋んだ。
「優しい夢を見せたお前は、きっと優しい付喪神になっただろう。」
ほと、ほと、ほと、ほと・・まるで泣いているようだ。
「だが真逆の夢が現実と入れ替わることは決してない。」
腕は、鍛えていても少年らしい細いそれではなく、隆々として、節くれだった大きな指は櫃を鷲づかんで。
----それは。
まるで鬼のような。
高い音を鳴らして、櫃は粉々に砕け散った。
同時に背後で抜き放たれた太刀から、水の玉が散って、結界を作る。水の壁にぶつかった欠片は、青白く燃えて消滅えていった。
※
※
※
終わってみれば、やはり鬼の仕業ではなく呪物による騒動だった。
もう少しで付喪神になれた道具の恨みか嘆きの思念を嗅ぎつけた誰かが、壺中天もどきの呪物を仕立て上げた。
その術者は分からないが、依頼者は行方不明になった若主人の父親の正妻----やはりお家騒動だったね、と鶴郎女がつまらなそうに言ったものだ。
若主人が櫃の中で見た真逆はなんであったのかと、今回はどうしても我が身と引き比べて、麻生は思い巡らす。
家庭の事情はよく分からないが、葛藤があったとすれば、誰もが彼を歓迎する未来だろうか。
「・・わたしだったら戻れなかったかも知れない、」
別れ際、いつも真っすぐに歩いていく少年が意を決したように振り返って一言を残した。
何と返していいか咄嗟に出てこなかったので、とりあえずへら、と笑って手を振ったら、睨まれた。
笑顔は人間関係の基本のはずだが・・・難しい。
結局肩を怒らせて去っていく背に、「またな!」といつも通りに声をかけたら、さらに頭を聳やかさせてしまった。
----それにしても、と彼とは別の方向になる家路を辿りつつ、終わった依頼についてあれこれ考えることは普通はないのに、今回の件には思いが途切れないのだ。
不可解なのは事成った後、早々に引き上げていれば露見しなかったはずなのに、どうして放置していたのかということだ。
もっと育てたかったのか、父親が鬼市に依頼するとは想定外だったのか、鬼市を甘くみたのか、はたまたただの無計画なのか----あるいは、それこそが意図か。
「依頼」は完遂したが、棘のような違和感はずっと----ずいぶんと長く残ることになる。
※
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※
今は昔。東の方より上ける人、日暮れにければ人の家を借りて宿らむと為るに、その辺りに人も住まぬ大きなる家有りけり。万の所皆荒れて、人住みたる気配なし。(中略)主は上なる所に皮など敷きて、ただ一人臥したる。夜打深更る程に、見れば本より傍に大きなる鞍櫃の様なる物のありけるが、人も寄らぬに、こほろと鳴りて蓋の開ける。「これは若し、此に鬼の有ければ人の住まざりけるを知らずして宿らけるにや」と怖しくて、「逃なむ」と思う心付ぬ。
(「今昔物語」巻27第14話 より)
お読みいただいてありがとうございました。「京洛御伽草子」からの一本です。今までで最も前の時間軸で、麻生の過去絡みになりました。麻生と黎(少年)の縁深め話でもあります。
黎の相方、かつ、(やがて)鬼市の守になる彼もまた只人ではない?ということで。
もし宜しければ、前作たちもお読みください。