食欲にぎらつく視線
部屋の中は、まだあの忌まわしいドリアンの妖精の残り香に満ちていた。
窓を全開にしているのに、空気は一向に澄む気配を見せない。むしろ湿った熱気とともに臭気が充満し、逃げ場を失ったようにまとわりついてくる。
「くっ……臭い! もう無理! お姉ちゃん何とかしてよ!」
沙月が鼻を押さえ、涙目で床を転げまわる。
「無理……鼻が曲がった……」と真顔で呟く兎子。
「曲がってないから! 早く何とかしてよ!」と即ツッコミが入る。
「なあ、消臭の妖精とか……そういうのいないの?」兎子が諦め気味に提案するが――
「知らないわよ。そんな便利なのいたことないわ」
「ないな。俺たち妖精にそんなカテゴリーは存在しない」
アスカもサンジも、揃って首を振るばかり。
「……妖精の無駄遣いね」兎子がジト目を向け、
「臭いし暑いし、もう最悪」真子はタオルで顔を扇ぎながら冷静に結論づける。
地獄はまだ終わっていない――誰もがそう悟った瞬間だった。
「くっくっくっく……愉快じゃ、実に愉快じゃ」
不気味な笑い声が、臭気と熱気に満ちた部屋へと染み込んできた。
全員がぎょっと振り返る。
「……もう来た? 今度こそ消臭の妖精?」沙月が半分期待混じりに呟く。
「くくく、残念ながら違うわ! わしは――コーヒーの妖精じゃ!」
現れたのは、茶色いマントをひるがえし、豆袋を背負った奇怪な姿。
「くらえ! 【コーヒー豆ハリケーン】!!」
バラバラバラバラッ――!
一瞬で嵐のような豆が吹き荒れ、部屋中を直撃した。
「痛っ! 痛い痛い痛い! 硬い豆が当たるだけでめっちゃ痛いんだけど!」
「うわっ、目に入った! なにこの無駄にリアルな痛さ!」
人間組が飛び回る豆の直撃に悲鳴をあげ、畳の上をのたうち回る。
「お姉ちゃん、なんでこんな妖精呼んだのよ!」兎子が泣きそうな顔で怒鳴る。
「呼んでないよぉ! 勝手に来たんだよぉ!」沙月は頭を抱えて床に伏せるしかなかった。
新たな混乱の幕が、またしても上がったのだった。
「……もう大変そうだな。なら俺の炎で焼いてやろうか?」
サンジが腹の底から炎を灯し、ギラリとコーヒー妖精に目を向けた。
「サンジ! いい考えね!」アスカが瞳を輝かせ、唇を吊り上げる。
「香ばしくてきっと美味しいわ! 焙煎したての味を楽しめそう!」
「……」
沙月は一歩引き、青ざめた顔でぽつりと呟いた。
「な、なんかちょっと怖いんだけど……この二人、本当に妖精なの……?」
しかし真子は冷静に二人の前に立ち、手をかざして制した。
「待て。殺すな。――そいつは生け捕りだ」
「なにぃ?」サンジの炎が一瞬だけ揺らぐ。
「せっかくの美味そうな香りを前に、我慢しろってのか!」
「そうよ!」アスカも抗議するように叫ぶ。
「コーヒーの妖精なんて、絶対美味しいに決まってるじゃない!」
真子は冷たい眼差しで二人を睨みつけ、短く告げた。
「消臭だ。――コーヒー豆は消臭に使える。今の部屋に必要なのは食欲じゃなくて消臭剤だ」
「……消臭……?」
サンジとアスカが顔を見合わせ、まるで言葉を飲み込むように黙り込む。
「だから食うな。使え。わかったな」
真子の声は、豆の嵐を切り裂くように冷ややかに響いた。
「よし、捕獲は任せて! この網で一気に仕留めるわ!」
兎子が勇ましく前に出る――が。
「くらえぇぇっ!【コーヒー豆ハリケーン】!」
コーヒー妖精の放つ豆弾幕が嵐のように襲いかかり、バチバチと肌を叩く。
「いったぁ! 痛い! 近づけないよ!」
兎子が網を振り回しながら後退し、涙目で叫んだ。
「大丈夫だ沙月!」真子が腕を組んで前に出る。
「策がある!」
「ほんと!? 何? どうするの!?」
沙月が縋るように視線を向ける。
真子はきっぱりと言い放った。
「我慢だ。痛くても我慢して網で捕まえろ」
「――それ策じゃないよねぇぇぇ!!!」
三人同時に総ツッコミ。
「ほら行け! お姉ちゃんならできる!」
「そうそう! 頑張れ頑張れ!」
兎子と真子は完全に他人事の声援を送る。
「もーっ! こんなの理不尽すぎる!!」
沙月は涙を浮かべつつも、必死に前へ。
バチバチバチッ! 豆が頬や額に直撃し、赤く腫れ上がる。
「いったぁぁあああ……けど……っ」
――バサッ!!
「捕まえたわ!! ……すごく痛かったけど!」
全身豆まみれ、顔もパンパンに腫らしながらも、沙月は妖精を網に絡めとり、誇らしげに掲げた。
「やった! お姉ちゃんすごい!」兎子が歓声を上げる。
「顔もすごいことになってるけどな」真子が淡々と付け加えた。
網に絡め取られ、机に叩きつけられたコーヒーの妖精が必死に暴れる。
「離せ! 俺はお前らのためにコーヒー豆なんか絶対作らん!!」
その言葉に、サンジとアスカが同時にギラリと目を光らせた。
「なら食うぞ」
「そうね。焼き豆にして、香ばしくいただきましょう」
「ひぃぃっ!」妖精の顔色が青ざめる。
「お前ら……まさか……! 妖精を食う存在――妖精食妖精か!?」
沙月が思わず息を呑む。
「そんな存在……いるの?」
だが、サンジとアスカは涼しい顔で答えた。
「いや、違う。ただ――」
「食べてみたら美味しかったから食べてるだけよ」
「そっちの方がよっぽど怖ぇぇぇぇ!!!」
妖精は震え上がり、必死に手を振る。
「わ、わかった! 出す! 出すから食べないでくれ! 豆をいくらでも出すから!」
網の中でバラバラとコーヒー豆がこぼれ落ちる。
その瞬間、真子が満足げにうなずいた。
「よし、交渉成立だな。あとは豆を回収して消臭剤に使うぞ」
「ふふふ……結局勝つのは食欲ね」アスカが甘く笑い、サンジが誇らしげにうなずいた。
網の中で必死に震えるコーヒーの妖精。観念したのか、ポロポロと豆を吐き出し始めた。
床いっぱいに散らばるコーヒー豆は、すぐさま部屋中に広がり、あの鼻を突くドリアンの悪臭を少しずつ薄めていく。
「……あ、ほんとだ。臭いが消えていく……!」沙月が驚きの声をあげる。
「すごい……消臭効果抜群だね」兎子もぱたぱたと手で空気を扇ぎながら笑う。
サンジとアスカはというと、網に縛られた妖精を見下ろしながら、まだ未練がましい顔。
「うまそうな香ばしさだ……」
「ちょっとかじったらきっと絶品よ……」
「ダメに決まってるでしょ!」沙月と兎子の声が重なった。
やがて、漂っていた不快な臭いはすっかり消え、代わりに香ばしいコーヒーの香りが満ちる。
真子が腕を組みながら、小さくうなずいた。
「……こうして、臭い問題は解消された」
静かな余韻のはずなのに、サンジとアスカの食欲にぎらつく視線が残り、どうにも締まらないのだった。




