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終業後のアクアティクス

人間関係をリセットするため、地方の大学に再入学した水泳特待生の海斗。彼は、過去のトラウマから心を閉ざし、深夜のプールでの個人練習に没頭する。だが、そのプールには「ルール」があった。それは、水面に現れる奇妙な波紋、「響き」の正体を探ってはならない、というもの。しかし海斗は、その波紋が、かつて自分を陥れたライバルの、絶望の残響であることに気づいてしまう。罪悪感と恐怖に苛まれながらも、彼は「響き」との対話を試みるが、それは、プールに潜む「何か」を呼び覚ます、禁断の儀式だった。プールは、強い後悔を持つ魂を記憶し、それを「餌」として、次なる犠牲者を引きずり込む、巨大な捕食装置なのだ。逃げられない水槽の中で、海斗は、過去と現在、二つの溺死の恐怖に、追い詰められていく。

俺、宮内海斗の人生は、常に、水と共にあった。物心ついた頃から、スイミングスクールに通い、ジュニア時代には、数々の、大会で、その名を、轟かせた。水の、抵抗を、切り裂き、誰よりも、速く、ゴールへと、たどり着く。その、純粋な、速度だけが、俺の、存在価値の、全てだった。だが、その、水が、俺の、全てを、奪った。

高校最後の、インターハイ予選。決勝の、レース。俺は、トップを、独走していた。だが、ゴール直前、隣の、レーンを泳いでいた、生涯のライバル、黒木が、突然、痙攣を起こし、沈んでいくのが、見えた。俺は、迷った。ほんの、数秒。だが、その、迷いが、俺の、アスリートとしての、本能に、勝った。俺は、レースを、放棄し、黒木を、助けるために、引き返した。

結果、黒木は、一命を、取り留めた。だが、彼は、二度と、競技には、戻れない、体になった。そして、俺は、「美談のヒーロー」として、メディアに、祭り上げられた。だが、それは、偽りだった。俺は、知っていた。黒木が、沈んだのは、事故では、ない。俺が、彼の、ドリンクに、こっそりと、混ぜ込んだ、ごく、微量の、筋肉弛緩剤の、せいだということを。俺は、勝利に、取り憑かれ、決して、越えてはならない、一線を、越えたのだ。

その、罪悪感は、鉛のように、俺の、心に、沈殿した。俺は、推薦を受けていた、東京の、強豪大学を、辞退し、誰一人、俺の、過去を、知らない、地方の、三流大学へ、水泳特待生として、逃げるように、再入学した。人間関係を、リセットし、ただ、贖罪のように、泳ぎ続けるために。

その大学の、プールは、古く、そして、どこか、陰気な、場所だった。特に、夜になると、その、不気味さは、増した。俺は、人間関係を、避けるため、正規の、練習時間には、参加せず、監督に、特別な、許可をもらい、部員たちが、全員、帰宅した、深夜、一人きりで、個人練習を、行うのが、日課になっていた。

静まり返った、プールに、響くのは、俺が、水を、掻く音と、荒い、呼吸音だけ。それは、孤独で、ストイックな、時間のはずだった。だが、俺は、すぐに、このプールに、潜む、異様な「ルール」の、存在に、気づかされた。

それは、水面に、時折、現れる、奇妙な、波紋だった。

俺が、泳ぐのをやめ、プールサイドで、息を、整えている時。完全に、静止しているはずの、水面の、特定の一点に、まるで、誰かが、透明な、石を、投げ込んだかのように、小さな、波紋が、一つ、また一つと、静かに、広がるのだ。

先輩部員たちは、それを、「響き」と、呼んでいた。

「あれは、気にするな。このプールには、昔から、あるもんだから」

「『響き』の、正体を、探ろうとしたヤツは、必ず、ひどい目に、遭う。下手をすりゃ、死ぬ。だから、見ても、見ないふりをする。それが、ここの、ルールだ」

だが、俺には、わかっていた。

あの「響き」が、現れる場所。それは、決勝の、レースで、黒木が、沈んだ、あの場所と、全く、同じ、コース、同じ、位置だったのだ。

これは、黒木の、無念の、残響なのではないか。俺への、怨嗟の、声なのではないか。

その、考えは、俺を、苛んだ。俺は、毎夜、その「響き」から、目を、逸らすことが、できなかった。

ある夜、俺は、ついに、禁忌を、破った。

俺は、「響き」が、現れる、水面に向かって、話しかけたのだ。

「……黒木、なのか……? すまなかった……俺が、悪かった……」

震える声で、そう、呟いた、瞬間。

それまで、規則的だった、波紋が、ぴたり、と、止んだ。

そして、次の瞬間、水面が、激しく、盛り上がり、俺の、すぐ、目の前で、巨大な、水柱が、立ち上った。

「ヒィッ!」

俺は、腰を抜かし、その場に、へたり込んだ。

水柱は、すぐに、消え、水面は、また、元の、静けさを、取り戻した。だが、俺の、鼓膜の、奥には、確かに、聞こえていた。

水の中から、響く、低い、呻き声のような、音を。

それは、黒木の声では、なかった。もっと、古く、そして、飢えた、何かの、声。

俺は、とんでもないものを、呼び覚ましてしまったのだ。

翌日、俺は、大学の、図書館で、このプールに関する、過去の、資料を、調べた。そして、衝撃的な、事実を、知る。

このプールでは、過去、何十年もの間に、数え切れないほどの、水難事故が、起きていたのだ。その、ほとんどが、原因不明の、溺死。そして、その、全ての、犠牲者が、水泳部の、部員であり、何らかの、強い、後悔や、未練を、抱えていた、という、共通点が、あった。

このプールは、それ自体が、一つの、巨大な、捕食装置なのだ。

強い、後悔を持つ、人間の、魂を、「響き」として、記憶し、それを、疑似餌として、次なる、獲物の、罪悪感や、好奇心を、煽る。そして、獲物が、禁忌を破り、「響き」に、干渉した時、その、魂を、水底へと、引きずり込むのだ。

俺は、完全に、ターゲットに、されたのだ。

黒木への、罪悪感という、最高の「餌」を、持った、俺は、このプールにとって、またとない、獲物だった。

その夜から、プールの、怪異は、さらに、エスカレートした。

水の中から、無数の、青白い手が、伸びてきて、俺の、足を、掴もうとする。

ロッカーを開けると、中が、水で、満たされており、溺死者の、顔が、浮かんでいる。

シャワーを浴びていると、水が、いつの間にか、生温かい、血液に、変わっている。

俺は、精神的に、追い詰められていった。大学を、辞めようとも、考えた。だが、特待生である、俺には、それも、許されない。監督からは、「結果を出せないなら、学費を、全額、返してもらう」と、脅されていた。俺には、もう、どこにも、逃げ場は、なかった。

そして、俺は、気づいてしまった。

「響き」の、正体。それは、黒木、一人だけの、ものでは、ない。

それは、このプールで、溺れていった、全ての、犠牲者たちの、魂の、集合体なのだ。

彼らは、救いを、求めているのではない。彼らは、仲間を、増やそうとしているのだ。自分たちと、同じ、苦しみを、味わう、次なる、犠牲者を。

俺は、決意した。

この、負の、連鎖を、俺の代で、断ち切る、と。

そのためには、俺自身が、このプールの「神」と、直接、対決するしかない。

満月の、夜。

俺は、一人、プールの、飛び込み台の、一番、上に、立っていた。

眼下には、月光を、反射し、妖しく、輝く、黒い水面が、広がっている。

「響き」が、いつもより、大きく、そして、激しく、水面を、揺らしている。

「出てこい!」

俺は、叫んだ。

「俺が、欲しいんだろ! 他のヤツらを、巻き込むな! 俺の、魂だけで、満足しろ!」

すると、水面が、静かに、二つに、割れた。

そして、その、暗い、水の底から、ゆっくりと、「それ」が、姿を、現した。

それは、特定の、形を、持たない、巨大な、黒い、水の、塊だった。その、表面には、これまで、このプールで、死んでいった、全ての、犠牲者たちの、苦悶の、顔が、無数に、浮かび上がり、そして、消えていく。

その、塊の、中心で、ひときわ、大きく、俺を、見つめているのは、あの、レースでの、黒木の、絶望の、顔だった。

『……オマエも……コチラへ……』

無数の、声が、重なり合った、合唱が、俺の、脳内に、直接、響き渡る。

俺は、笑った。

それは、乾いた、自嘲の、笑みだった。

「ああ、行ってやるよ。だが、ただでは、行かない」

俺は、両手を、広げ、飛び込み台から、身を、投げ出した。

美しい、フォームだった。俺の、生涯で、最高の、飛び込み。

俺の、体は、一直線に、黒い水の塊、その、中心、黒木の、顔が、浮かぶ、その一点へと、吸い込まれていった。

水に、入った、瞬間。

俺の、体を、無数の、冷たい手が、掴み、水底へと、引きずり込んでいく。

口から、最後の、空気が、泡となって、漏れていく。

意識が、遠のいていく。

だが、俺の、手は、確かに、掴んでいた。

俺が、ポケットに、忍ばせていた、小さな、防水の、カプセルを。

その中には、高濃度の、塩素剤が、詰め込まれていた。

このプールの、水を、浄化するための、唯一の、武器。

俺は、最後の、力を、振り絞り、その、カプセルの、蓋を、開けた。

途端に、純白の、薬剤が、黒い水の中へと、拡散していく。

黒い水の塊が、断末魔の、悲鳴を、上げた。

俺を、掴んでいた、無数の手が、離れていく。

犠牲者たちの、苦悶の顔が、次々と、浄化され、安らかな、表情へと、変わっていくのが、見えた。

黒木の、顔が、最後に、俺を見て、ふっと、笑った、気がした。

それは、【幼い喜び】とは、違う、全てから、解放された、安らかな、赦しの、笑みだった。

俺の、意識は、そこで、途切れた。

翌日、大学の、プールは、閉鎖された。

水槽の水が、全て、抜かれ、そこに、残されていたのは、信じられないほど、大量の、人骨と、そして、プールサイドで、安らかな、顔をして、倒れている、俺の、姿だった。

俺は、生きていた。だが、俺の、魂の、半分は、あの、プールに、置いてきた。

俺は、二度と、泳ぐことはないだろう。

だが、それで、いい。

俺は、ようやく、水の中から、陸へと、上がることが、できたのだから。

長かった、俺の、終業後のアクアティクスは、ようやく、終わりを、告げたのだ。

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