第一章:異世界の競馬場
競馬好きのサラリーマン・圭介(35歳)は、交通事故に遭い、魔法と競馬が支配する異世界「エクウス王国」に転生する。
その王国では、魔法馬を駆使した競馬が経済の中心となっていたが、かつて名門だった競馬場「グリーンフィールド」は、経営難と騎手不足で倒産寸前の状態に。圭介は女騎士で支配人のリーナに頼まれ、競馬場再建を引き受ける。
1. 転生、そして競馬場との出会い
目の前に広がっていたのは、まるで時間が止まってしまったかのような光景だった。
――崩れかけた観客席はひび割れ、木材は黒ずみ、所々に雑草が根を張っていた。レース用のコースには草が伸び放題で、ところどころぬかるんでさえいる。遠くの厩舎からはかすかに馬のいななきが響いてきたが、その声はどこか頼りなく、活気のないものだった。
「……ここが、グリーンフィールド?」
圭介は呆然とつぶやいた。
数時間前、彼は確かに東京の交差点にいた。通勤ラッシュの雑踏の中、スマホで競馬のデータを確認しながら横断歩道を渡っていたのを覚えている。次の瞬間、猛スピードのトラックが視界に入り、その後の記憶はない。
目を覚ますと、目の前にあったのがこの競馬場だったのだ。
「あなたが……圭介ね?」
突然、背後から声がした。振り返ると、鎧姿の女性が仁王立ちしていた。
背丈はそれほど高くないが、整った顔立ちと鋭い眼差しは、見る者に強い印象を残した。肩まで届く赤みがかった髪はきつく束ねられ、腰に下げた剣は使い込まれている様子だった。
「私はリーナ。この競馬場の支配人よ」
「え、支配人って……あんた、騎士じゃないの?」
「女騎士で、支配人。どっちもやってるのよ」
リーナは肩をすくめ、無造作に長剣を背中に戻した。その動作に隙がない。戦士としての訓練を積んできたのが、一目でわかった。
「……で、あんたが助け舟を出してくれるって話なんだけど?」
「助け舟?」
「ほら、あんたが『異世界から来た知恵者』だって。神殿の占い師が言ってたのよ」
「はあ……」
圭介は頭を抱えた。まさか、交通事故に遭ったと思ったら、異世界の『知恵者』扱いとは。しかも、どうやら頼まれたのは、倒産寸前の競馬場の再建らしい。
「なぁ、これって冗談だろ?」
「冗談ならよかったのにね」
リーナの口調は軽いが、その背後に漂う切実さは否応なく伝わってきた。
ふと、風が吹き抜け、コース脇の錆びた鉄柵がギィィと不吉な音を立てる。
圭介はゆっくりと目の前の競馬場を見渡した。
「……わかった。やってみるよ」
まるで、逃げ道などないと悟ったかのように圭介は笑った。
翌朝、リーナに案内された厩舎には、異世界ならではの光景が広がっていた。
「これが……魔法馬?」
薄暗い厩舎の中、馬たちの体からは淡い光が立ち上っていた。緑、青、赤――それぞれが異なる色を放ち、まるで命の炎が燃えているかのようだった。
「属性があるのよ。風、火、土、氷……魔法の力を宿した競走馬ってわけ」
リーナは手近な馬の背をぽんと叩いた。毛並みの美しい栗毛の馬が穏やかに首を振る。
「競馬も魔法の一部ってことか……」
「そう。属性によってスピードや持久力、回復力に差が出るの。だから、どの馬がどのコースに向いているかが重要なのよ」
「面白いな……」
圭介の競馬オタク魂が刺激された。だが、興奮と同時に目の前の厳しい現実も突きつけられる。
「こいつは?」
圭介が目を止めたのは、奥の厩舎で静かにうずくまっていた一頭の馬だった。
青銀色の毛並みは艶やかだったが、その体は細く痩せ、眼は虚ろだった。
「……《蒼風》よ。うちの看板馬だったけど……今は、ね」
「……なるほど」
馬房の隅で力なく横たわる蒼風は、かつての名馬の姿とは思えなかった。
「回復魔法でも効果が薄くて……。だから、もう無理かもって……」
リーナが珍しく声を落とした。その指先が、蒼風のたてがみをかき寄せる。その仕草に、圭介は言葉を失った。
彼は競馬を知っている。馬が調子を落とし、二度と走れなくなった光景を何度も見てきた。けれど――
「いや、まだやれるかもしれない」
「え?」
「魔法馬の血統理論を応用すれば、体質改善できるはずだ。あと、俺の知ってるストレッチ法なら……」
「……本当に?」
「競馬はデータと努力の積み重ねだ。魔法でも、それは変わらないはずだ」
圭介の声には、迷いがなかった。リーナは目を見開いた後、小さく笑った。
「頼りにしてるわよ、異世界の競馬オタクさん」
翌日から、圭介の改革は始まった。
「まずは、馬たちのコンディション管理からだな……」
圭介は厩舎に張り付き、魔法馬一頭一頭のデータを取り始めた。血統、属性、過去のレース成績――これまでの資料を洗い直し、リーナを驚かせるほどの量のデータを並べていく。
「おい、あんた本当に全部頭に入ってるの?」
「まぁ、こっちの競馬は初心者だからさ。やるなら徹底的にやらないと」
馬の筋肉の張りや、魔法の波長にまで目を向けながら、圭介は一頭ずつストレッチや回復魔法を試していく。その甲斐あって、数日後には数頭の馬が活気を取り戻し始めた。
「やるじゃない、圭介!」
「そりゃそうさ。馬は、手をかけた分だけ応えてくれるんだ」
リーナの笑顔を見ながら、圭介は確信した。この世界でも、競馬のロマンは同じだ。
「さぁ、ここからが本番だな……」
圭介は拳を握りしめ、寂れた競馬場のスタンドを見上げた。かつての熱気が戻るその日を信じて。