ブッ飛んだ王女
イリノはその場の空気を変えようと、オホンと少し大きめに咳払いをした。
「俺も、聞いた話で、経験がないのでわかりません。まあ、一つ言えることは、そんな風にして女性を襲ったり、襲われている女性を見たり、そうしたことがないようにしたいと思っているくらいです」
「そう、か」
王女はそれ以上何も言わなかった。
「まあ、取り敢えず、お茶でも飲んでください。結構冷めたと思います」
王女は勧められるままにコップを手に取って口元に持っていく。飲む直前に彼女はクンクンと匂いを嗅いだのが、何ともおかしかった。
「うう……ん」
……あまり気に入らなかったようだ。確かに少し癖がある。仕方がないと、別のコップに水を入れて彼女に差し出す。それを受け取ると、一気にそれを飲み干した。
一息つくと彼女は再び鋭い目つきになった。一体何だと思って身構える。
「……ハコに案内せよ」
「……ああ」
それが手洗いの意味であることは察しがついている。イリノは立ち上がると、こちらですと言って案内しようとするが、彼女も同時に立ち上がり、彼の袖を掴んだ。
狭い廊下の突き当りにそれはある。扉を開けると、何とも言えぬ臭気が鼻を突く。あのオヤジのことだ、ここの掃除などしていないのではないかと思いながら部屋を見ると、意外にもきれいに整えられていた。
「ここです。わかりますか?」
「……大事ない。さがってよい」
「はっ」
そう言って手洗いの扉を閉める。そう言えば、昨夜、王女は手荒いあとは近習がタオルを持ってきたと言っていた。ちょうど先ほど沸かした湯がまだ残っている。それにタオルを浸して、手洗いの扉の前で待つ。
しばらくすると、王女が出てきた。いつもの癖なのだろう、両手をスッと上げる。そこにタオルを乗せてやる。
「温かい、な」
「よかった。ただ」
「ただ、何だ」
「毎回これをするわけにはいきません」
「うむ。それは、わかっているが……」
「手を洗われるときは、言ってください。外になりますが、手にお水を注いで差し上げます」
「……わかった」
そう言って彼女は再びイリノの袖を掴んだ。
「……朝になりましたね。ちょっと、外に出て見ます」
王女は無言のまま頷く。そして、キョロキョロと周囲を見廻した。
「何か?」
「剣を……。私の剣は、どこだ」
「ここにありますよ」
台の上に置いている彼女の剣を取って渡してやる。さすがに自分の剣はわかるのだろう。持った瞬間に少し安心したような表情になった。
「そなたも、剣を持っておろう。念のため、装備しているのだ」
「わかりました」
台の上にはルエネス大尉の剣と、大佐の剣があったが、彼は迷うことなく大佐の剣を手に取り、それを左手で持った。
外に出てみて驚愕した。村人は一人もいなかった。ただ、不思議であったのは、争った形跡や慌てて逃げだしたような形跡がまるでなかったことだ。飼われている牛や家畜たちも日常と変わらぬ状態だったし、畑なども荒らされた形跡がなかった。本当に、村人たちだけが忽然と姿を消していたのだ。
「やはり、人の気配がせぬな」
「そうですね……。本当に、村人全員が消えています。どうしたことだ……」
「いないものは仕方があるまい」
「そうですね」
そう言いながらイリノは少しホッとした感情も持っていた。村人たちがいたらいたで面倒くさいことになる可能性があった。誰もいないというのは不気味だったが、これで王女を匿いやすくなったのも確かだった。
「とりあえず、食料を調達してきますので、王女様は家に入っていてください」
「それはならぬ。私の傍にいるのだ」
……傍にいたら食料が調達できないだろうが、という言葉を飲み込む。どうやら彼女はどうしても一人になるのがイヤらしい。仕方がないので、彼女を伴いながら村を移動することにした。
なかなか大変な作業だった。片方の腕は王女に握られ、もう片方の手には剣を握っている。王女も同じだ。そんな状況下で彼は畑に生えている白菜を収穫し、近所の家に吊るされている干し肉をもらって家に戻った。そして再び外に出て、別の家で飼われている牛から乳を取り、さらにそれを家において再び外に出て水を汲んできた。すべてが終わった頃には、彼はヘトヘトになっていた。
「狭いが、なかなかよい村じゃな」
疲れのために大きなため息をついている彼に対して、王女は上機嫌だった。一体何が彼女をこんなテンションにするのかがイリノにはわからなかった。呆れながら呆然と様子を見守る彼に対して、王女は頷きながら口を開いた。
「大体、村の全体は把握した。やはり日が昇ると見えやすい。この村は、イヤ特にこの家は攻めるに難く守るに易い場所に建てられている。敵が攻めてきたとしても、そう簡単に負けることはあるまい」
「そこ?」
てっきり村の風景や佇まいのことを言っているのかと思いきや、まさかここで戦闘をする気でいたとは、意外すぎて呆れかえってしまう。ふと、俺はいつまで色んな意味でこのブッ飛んだ王女様と一緒にいなければならないのだと思ってしまった。
そのとき、イリノの腹が鳴った。彼は仕方なく、朝食の準備に取り掛かった……。




