わかりません
一体、何がそんなに可笑しいのかイリノにはわからなかったが、何となく、彼女の笑いは、心をホッとさせるものがあった。そのとき、イリノの腹が鳴った。それに釣られるように、王女の腹も鳴った。彼女はハッとした表情を浮かべた。
「何か、作りますね」
そう言って視線を逸らせて、まずは水瓶に向かう。半分くらいまで水が残っている。ということは、少なくともカイルラルが侵攻してくるときまでは、親父はこの家にいたことになる。ということは、侵攻を聞いて村人全員で非難したのだろうか。ただ、この村から非難する場所などあるはずはない。村が襲われたのであれば、死体の一つも転がっているだろうが、そうした形跡は感じられない。
そんなことを考えながら、竈の近くに設えられた食べ物を保存している箱を開ける。意外にも野菜など色々な食材が入っていた。あのオヤジにしては、マメに準備しているなと思わず声が漏れそうになる。ただ、野菜類は色が変わっていて、食べられそうにもない。干し肉は十分に食べられそうだ。そして……ラメという小麦粉を練って作ったパスタがあったのでそれを取り出す。
水瓶の水を一口飲む。特に違和感はない。腐ってもいなさそうだ。それで鍋を洗い、竈に火を入れて水を張った鍋を置く。
「うわっ!」
思わず声が出た。すぐ背後に王女が立っていた。一切足音をさせず、気配も感じなかった。イリノは心底恐怖を感じた。殺そうと思えばいつでも殺せるな、と心の中で呟く。
「ど……どうされました?」
「……どこじゃ?」
「は?」
「ハコはどこじゃ?」
「ハコ?」
「もよおしじゃ」
「えっ?」
一体何を言っているのかがわからず、首をかしげる。その瞬間、王女の右の拳がイリノの顎下を直撃した。声を上げることもできずに、たたらを踏んで尻もちを搗く。頭が揺れる。王女は大股で玄関まで行くと扉を開けて外に出ていった。
王女様どちらにと言って立ち上がろうとするが、足に力が入らない。それどころか、足が震えている。這う這うの体で玄関までたどり着く。やっとのことで扉を開ける。
「見るな! 見るでない! 見たら、首を刎ねる!」
物騒極まりない言葉が聞こえてきた。声の雰囲気からはそれは脅しではなく、本気でやろうとしているのがわかる。イリノは玄関を開けたまま、その場で正座をした。頭が揺れてそれ以上進むことができなかったのだ。
どのくらいの時間が経っただろうか。およそ二、三分のことのような気がした。ようやく頭が回復し、足の震えも止まり、片膝をつくことができるようになった。すぐ近くから、ザッザッという足音が聞こえてきた。王女だ。
彼女は一歩一歩地面を踏みしめるようにして、イリノに向かって真っすぐに歩いてきた。そして、彼の前で立ち止まると、両手をスッと上げた。
「大儀である」
一体何のポーズであるのかがわからない。抱きしめようとしているのかと思うようなポーズだが、それでないことはわかる。では、どういう意味だ。顔を見ると、いつもの鋭い目つきに戻っている。普段よりも鋭さが増しているのは気のせいだろうか。まるで、人を殺してきたような雰囲気だ。そのせいもあって、必死で頭を働かせて考える。さもないと、また殴られることになる。あんなことになるのはもう、ゴメンだった。
一か八かで彼女の右手を両手で握る。
「何をしておるのじゃ!」
「ゴ……ゴメンナサイ」
「汚いではないか! それとも貴様は、汚れた手を好むのか。まさかそうではあるまい!」
「ええと……」
「いつもは近習の者が濡れたタオルを持ってくるのだが……。そなたらは、知らぬのか?」
「……何のことでしょう?」
「……まさか、もよおし、もわからぬか」
「わかりません」
「つ……つまりは、じゃな」
「つまりは?」
「皆まで言わせずに考えよ!」
「何のことですぅ」
困った顔のイリノをまるで飛び越えるようにして彼女は家の中に入っていった。仕方なく扉を閉めようとしたそのとき、
「もしかして、手洗い、か」
そういえば、彼女が手洗いに行っている様子はなかった。ずっと我慢していたのか、いや違う。そうしたことも忘れるくらいに緊張していたのだ。仲間を探すこと、山を越えることに集中していたのだ。そう考えると、彼女が少し哀れに思えた。
中に入ると、すでに鍋の中には湯がグラグラと煮えていた。そこにパスタを放り込む。干し肉を適当な大きさに切って火であぶる。肉の焼けるいい匂いが漂ってきた。
王女は腕組みをして背中を向けて立っている。よほど、先ほどのことが恥ずかしいらしい。確かに、お城の中で育ったお姫様には、外で用を足すなどということは経験がなかっただろうし、初めてのことだったのかもしれない。
「さあ、できました。簡単なものですが、腹の足しにはなると思います」
そう言ってパスタを皿に盛り、その上に炙った干し肉を添えている。味付けは塩だけだ。
イリノの声に王女はゆっくりとこちらを振り向いた。鋭い目つきは相変わらずだが、ちょっと顔が赤い感じがする。ただ、今の彼女にヘタなことを言わない方がいいのはよくわかっていた。
「さ、どうぞ。お口に合えばいいのですが」
王女はフォークを取ると、パスタを一口食べた。目がカッと開かれる。
「お口に……あいませんか」
「美味じゃ」
「これは、何のソースを使っているのじゃ。これだけしっかりした味……。なかなか出せぬ味じゃ。何を使ったソースじゃ?」
「……わかりません」
その言葉に、王女の眼が再び鋭くなった。




