イリノと王女
一瞬、我が目を疑った。いつもの鋭い視線を向け続けていた女性の面影は微塵もなく、ただ、穏やかに眠る少女の姿がそこにあった。これが本当にあの王女様だろうか。
少し顔を近づけて、その顔をまじまじと見る。よく見ると、目鼻顔立ちが整っていて、なるほど、気品のある王女らしい顔立ちだ。肌も白く、村の女たちのように、シミやそばかすといった類のものもない。かなり年上の女性だと思っていたが、こうして見ると、自分と同じ年か、ヘタすると年下かもしれない。それほど、彼女の顔にはあどけなさが現れていた。
いやいや、と顔を左右に振る。あれだけの剣技を持っているのだ。年下であるわけはない。あんな芸当ができるのは、相当長い修練を積まないとできないことだ。やはり、年は上であるに違いない。
……己の欲望の通りに生きるのだ。
ふと、先ほどのカーサの言葉が頭によぎった。欲望とは何だろうか。イリノは自問自答した。
カーサの言うように、この鎧を脱がせて、さらにその下に着ている服を脱がせて裸にして、力づくで王女の体を蹂躙して、欲望を満たすことだろうか。残念ながら、今のイリノにはそんな気持ちは微塵もなかった。サーヤさんのときのように、一緒にいたいだとか、抱きしめたい、だとかいった感情は沸いてこなかった。
それに、見たところ、鎧はかなり頑丈に作られていて、これを脱がすのは骨が折れそうだった。王女様とて、唯々諾々と脱がせるまで大人しくしているとは思えない。むしろ、相当に抵抗することだろう。それに、彼女は腰に剣を差している。カーサが目つぶしをして視力を奪えばいい、などと言っていたが、ヤツは知らないのだ。この女性が暗闇の中でも正確に敵を探知して攻撃する能力を持っていることを。一旦距離を取られて、剣を抜かれれば、勝てる可能性はなくなるどころか、ほぼ確実に首を刎ねられることになる。
……ムリだな。
心の中でそう呟いて天を仰ぐ。それに、そんな行為をやりたいかと言われれば、答えは否だった。そこまでするだけの欲望はなかったし、むしろ、そんな疲れるようなことはやりたくないというのが本音だった。
「う~ん」
呻きながら頭をガリガリと掻く。やおら立ち上がると、王女様に背を向けて歩き出し、先ほど水を汲んできた沢に向かった。そして、そこから水を掬うと、バシャバシャと音を立てて自分の顔を洗った。このとき、イリノは知らなかった。王女の手が剣の柄に添えられていることを。
一方の王女は、イリノの足音が遠くなると、ゆっくりと目を開けた。先ほどの男たちの会話は聞こえていた。ここで襲われるわけにはいかない。私には果たさねばならぬことがあるのだ、と心の中で呟いた。何としてもこの国をもう一度再興させねばならない。
カーサとスウゴという男たちは、相当の腕前であることはわかっていた。こんな男が緊急徴兵の兵士だということ自体が、彼女にとっては信じられぬことであった。
例えば御前試合など、ある程度のルールが決められた中で、一対一で戦うというのであれば、正直言って勝つ自信はあった。だが、ここは山の中だ。二人が協力して森の中に身をひそめながら戦われたら、さすがに勝つことは難しい。先ほどの会話から考えると、二人がここに戻ってくるまではまだ時間がある。今の間にどこかに身を隠さねばならない。
だが、ここは勝手知らぬ山の中だ。周囲がぼやけているこの状況下で、一人で行動するのは危険であることは、彼女も十分に理解していた。
そのとき、ふと彼女の脳裏に、先ほど目の前に座っていたイリノのことが思い出された。
てっきり、このイリノという男も、自分に襲い掛かってくるものと思っていたが、彼は自分の顔をまじまじと見ただけで、そのままこの場を去ってしまった。ずいぶん長い間顔を眺めていたために、彼の鼻息が頬に当たってくすぐったかった。だがそれは、興奮しているときの息遣いでないことはわかっていた。彼女はもしかすると、自分の顔に何かついているのではないかと思い、手で顔を丁寧にこすった。
ややあって、足音が聞こえた。これはあの、イリノのものだ。周囲がぼんやりとしているが、そのぶん、耳をはじめとする全身の感覚を研ぎ澄ます。どうやら、相手からは殺気の類いなどは感じない。むしろ、何となくだが、確固たる決意を感じる。
「お目覚めでしたか」
彼はそう言って目の前で片膝をついた。この男の雰囲気からは邪念などの類は感じない。敢えて言えば、雰囲気があの、死んだルエネスに似ていた。
この男はどうやら自分に従ってくれそうだという思いと同時に、早くこの場を去らねばならないという焦りも芽生えていた。この男もまだまだ荒そうだが腕はそれなりのものを持っているのはわかる。だが、この男を加えても、あのカーサとスウゴの二人を相手にして勝てるような気はしなかった。
王女は早くこの場を離れる。案内をせよと言おうとしたそのとき、イリノが口を開いた。
「王女様、お願いがあります」
「……何だ」
「すみませんが、鎧を脱いでいただけませんか?」
「……は?」
今度は、王女の頭が真っ白になった。




