二人歩き
夜が明けてきたな、と心の中で呟く。と同時に、王女が立ち上がった。
「これから北に向かう」
誰に言うともなくそう呟いて、彼女は歩き始めた。イリノは無言のままその後ろをついて歩く。
逃げようと思えば逃げることはできただろう。だが、どういうわけか、そんな気持ちは雲散してしまっていた。ただ、このまま二人でいるわけにもいかないし、このままの状態で目的の場所にたどり着けるとは到底思えなかった。
彼女は無言のまま歩いていく。驚いたことに、イリノの歩く速度とそう変わらない速さで歩いている。イリノ自身は相当に歩くのが早い方だ。せかせかと歩くために、よく父親から怒鳴られたものだ。この王女は鎧を装備しているにもかかわらず、これだけの速さで歩く。一体どんな体をしているのか。イリノは下手に逃げなかったことを心からよかったと思った。
目が悪いにもかかわらず、王女はまっすぐに北に向かって歩いていた。太陽を右手に見て歩いている。方向の知識もそれなりにあるのだ。
「うっ!」
突然王女がよろめく。慌てて彼女のそばによる。
「大丈夫……ですか」
「大事ない」
目が悪いために目つきが悪くなっているのは理解していても、この至近距離で見ると、どう見ても怒っているようにしか見えない。思わず小さな声で、すみませんと言ってしまう。王女は再び歩き出すが、しばらくするとまた、何かに躓いたかのようによろめく。
「あの……先を歩きましょうか?」
「……」
彼女は黙ったまま悔しそうに頷いた。
結局、王女はイリノの袖を握りながら歩くことになった。しかも、不思議なことに、右手で袖をつかんでいる。さすがに、利き手で袖をつかむのはいかがなものか。もし、敵に襲われたら、剣を抜くのが間に合わないことにもなりかねない。イリノは言葉を選びながら彼女に諭してみたが、返ってきた答えは、そのまま北に向かって歩け、というものだった。一見すると逃げようとする男を捕まえているようにも見える。何とも間抜けな姿だなと思うが、王女は相変わらず鋭い目つきで睨んできており、イリノはそれ以上は何も言うことができずに命令に従った。
「あの……王女様」
「……なんだ」
「そういえば、馬に乗っておいででしたが、それは……」
「おそらく死んだだろう」
「……」
「突然暴れ出して、私は放り出された。察するに、敵の矢が当たったのだろう」
……よく生きていたなと心の中で呟く。落ち方が悪ければ悪ければ死んでいる。兜をかぶっていれば話は別だろうが、彼女は装備していない。上手に受け身をとったのか、はたまたは、その長い金髪の髪がそのクッションになったのか、などと下らぬことを考える。
「……ツ」
「どうした?」
思わず足が止まった。いや、止まったと言うより足がすくんだという方が正しいのかもしれない。イリノの目の前には、数人の兵士の遺体が転がっていた。緊急徴兵された兵士のようだ。
「……死んでいるのか」
「その、よう、です、ね」
「先に進もう」
「はい」
「味方と思われる者がいたら、すぐに知らせるのだ」
「は……はい」
先に進めば進むほど、兵士の死体の数が増えていく。そして、多数の遺体が晒されている光景が現れた。あたり一面におびただしい矢が地面に刺さっているのと同時に、兵士たちの体や頭にも多くの矢が深々と刺さっている。皆、なす術もなく飛んできた矢に命を奪われたのだ。
カーサやスウゴの姿を探してみたが、それらしき死体はない。ふと、王女の掴んでいる手が震えているのがわかった。
「……王女様」
「状況を、報告せよ」
「おびただしい死体が、転がっています。すべて、王国軍……緊急徴兵された者のようです。生きている者は……いないようです」
「……」
「王女様?」
振り返ると、彼女はあらぬ方向に視線を泳がせていた。その表情から敵を見つけたのかと思ったが、その方向に視線を向けてみると、一人の兵士が立っているのが見えた。後ろ姿しか見えないが、あの佇まいは、確かにルエネス大尉だ。
「王女様、大尉です。ルエネス大尉がいらっしゃいます」
「ルエネス! ルエネス!」
王女は大声で叫ぶが、彼は反応しない。どうやら天を仰いでいるらしい。泣いているようにも見えた。
「参りましょう」
そう言って大尉に向かって歩き出す。いつもの癖で早足で歩きだしてしまったが、王女も気持ちは同じであるためか、問題なくイリノについてくる。
「大尉、ご無事でしたか! 王女様をお連れしました!」
そう言って声をかけるが、大尉はなおも天を仰いだままだ。やはり泣いているのか。気持ちはわかる。兵士たちの大半を死なしてしまったのだ。その責任を感じているのだろう。ただ、その気持ちはイリノにとっては嬉しかった。この人だけは、緊急徴兵された兵士たちを、ちゃんと人として見てくれていたのだ。
「大尉、悲しんでいても仕方がありません。まずは、王女様と、今後のことについて……。大尉? 大尉?」
正面に回ってみると、ルエネス大尉は立ったまま絶命していた。彼の喉笛には、一本の矢が深々と突き刺さっていた……。




