静かな戦い
カイルラル軍との戦闘はしずかに、そして、ゆっくりと開始された。
敵は朝、日が昇り切るのと同時にゆっくりと動き出した。遠くからザッザッザと歩を揃えて歩いてくる音が、イリノには心地よかった。敵が動き出すと同時に、王国軍三万は緊張に包まれた。イリノら選抜隊が率いる新兵たちの多くは尿意や便意を催したが、兵士たちがひしめくこの場所を容易には離れることができず、彼らはその場で穴を掘って用を足した。
「オイ、引くと糞尿まみれになっちまうぞ!」
デルフ軍曹がイリノら兵士たちの間を早足で歩きながら鼓舞していく。そうしている間に馬に乗ったルエネス大尉が最前列に出てスッと右手を挙げた。すぐさま盾を持った兵士たちが彼の前に出て防衛線を築いた。
「戦闘準備ィー」
軍曹の大声が響き渡る。イリノら全員が腰に差している剣を抜いた。
周囲の兵士たちの中には震えている者もいた。イリノにとっても、これから初めて人を殺すことになるのだ。だが彼は不思議なくらいに落ち着いていた。ふと、彼の両隣で隊列を組んでいるカーサとスウゴに視線を向けると、二人は慣れたもので、落ち着き払っていた。
ふと、カーサと目が合った。彼はフフンと鼻で笑った。バカにした笑いではないことはわかった。おそらく、初めての割には落ち着いている姿を見て、少し感心したのだと思っていた。
ふと、頭上から空気を切り裂くような音が聞こえた。後方から弓隊が矢を放ったのだ。おびただしい矢がカイルラル軍に向けて降り注いだ。だが、彼らは盾を頭の上にあげてそれを防いだ。峠の下で黒い塊がハリネズミのようになって止まっている様は、実に不気味であった。
「左翼、右翼、どうした!」
ルエネス大尉が誰に言うともなく口を開いた。そのとき、峠の下のカイルラル軍が二つに分かれて、王国軍の左翼と右翼に向かって歩き出した。黒い塊が二つに分かれたのは、ほんの瞬きする間であり、イリノはいつ部隊が二つに分かれたのかを認識することができなかった。
二つの軍勢はゆっくりと両翼の王国軍に近づいていく。攻撃は一切なかった。ただ、カイルラル軍の行軍する音だけがその場に響き渡っていた。
敵が迫っているのに、どうして攻撃を仕掛けないのか。イリノたちが呆気にとられて見ていると、両翼の軍勢がゆっくりと後退を始めた。それは一見すると、カイルラル軍を包囲する策略にも見えたが、軍勢はどんどん峠を下っていく。その後ろから、カイルラル軍が続いた。
「これ、一体、どうなっているんだ?」
キョトンとした表情のままイリノが呟く。ふと後ろを振り返ると、ルエネス大尉とデルフ軍曹が信じられないといった表情を浮かべていた。
「まっ、まさか……裏切った、のか?」
「そっ、それは……。いや、それは……左翼の司令官は、ウルソミ殿下ですし、右翼はワリサワ殿下です。お二人とも国王陛下のご舎弟。御はらからであらせられます。よもや、裏切ることなど……」
「しかし、このままではヤバイですぜ。軍勢はまっすぐ王都に向かっています」
カーザが落ち着き払った様子で口を開いた。そのとき、目の前に控えている親衛隊の中から金の鎧を装備した騎馬兵が中から飛び出して、峠を駆け下りていった。その後ろから続々と兵士たちが続いていく。ここに至ってようやく、イリノらはこの峠での戦いに、戦わずして敗れたことを悟ったのである。
「我々もライナル王女殿下に続くのだ!」
ルエネス大尉がそう言って馬を走らせる。その後ろから軍曹も駆け出す。兵士たちも、慌てふためきながらとりあえず彼らの後を追っていった。
「こりゃ、王都はすぐに陥落するな」
カーサとスウゴがそう言って頷き合っている。彼らは緊急徴兵されたために、この国に対して何の義理も感じていないように見えた。
「俺たちも王都に向かうんだよ!」
「どうしたんだよ、びっくりするじゃねぇか。いまさら王都に向かったところで殺されるだけだ。やめとこうぜ」
カーサがそう言って首をすくめた。だがイリノは黙らなかった。自分でも驚くほどの大声を上げた。
「うるせぇ! 王都に向かうんだぁ! グスグズ言わねぇで来い!」
そう言ってイリノは駆け出した。後ろは振り返らなかった。ただ、一目散に王都に向かって駆けた。このままでは、あのサーヤさんが危ない。彼は、何としても、あの女性の命を救いたかった……。




