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工房から発って数時間後、私は周囲の安全を慎重に確認し、迷宮の冷たい石畳の上に腰を下ろした。ノエルから貸与された古い魔導書の38ページを開くと、そこに刻まれた円形の魔法陣が運行する天体図のように回転し始め、眩い光を放った。
四散した光が迷宮の小部屋の隅々にまで広がると、魔法陣はぴたりと静止した。魔女の工房を維持している時空停滞魔法の簡略版だ。効力は永続せず、強大な負荷には耐えられないが、退路の確保には十分だ。私は腰に下げた水筒の口を開けた。
世界各地に点在する『迷宮』を長年調査してきたというノエルは、かつての経験から、生き物のように変幻する迷宮の内部構造にも、ある程度の規則性はあると語った。考古学者や地質学者による現在の主流な学説、及び有象無象の冒険者(或いは盗掘者)達による俗説によれば、今や地下の大洞窟と半ば同化し、その威容を土砂の中に埋めた迷宮の全容は、最大で『第七階層』まで存在すると言われている。彼女ご自慢の操屍術や傀儡術で使役するゴーレムによる人海戦術で、かつてノエルは『第五階層』にまで到達したことがあると豪語していたが、途中でゴーレムを錬成するための材料が尽き、敢え無く撤退したのだという。そして、今回の挑戦は過去の反省と研究の成果を活かし、万全を期しての挑戦だと言っていた。……私の存在という都合の良い偶然もあり、彼女は迷宮攻略の自信を高めていたようだった。
ノエルの以前の探索に基づく情報によると、迷宮の各階層は50の石室が構造変化毎に無作為に分岐する回廊によって直列されたものとなっており、各階層最後の50番目の石室を抜けた先の大広間に次なる階層へと下る大扉が待ち受けている。公正な手段で辿り着いた者が扉の魔法陣に触れることによって、大扉を閉ざす封印魔法が解かれるとのことだ。それぞれの石室の大きさは一定ではなく、約数十から数百メートル四方の面積と幅がある。順路となる石室には落とし穴(私はこれに引っ掛かった所を彼女に『救助』された)等の原始的な罠が仕掛けられていることは勿論、小鬼の野営地、骸骨戦士の墓所といった魔物の住処が配置されることもある。
――一時の休息を終えた私は、鎧を着込んだ体を持ち上げるように立ち上がる。
しかし、分かっているのは飽くまでもそれだけだ。結局、石室間を繋ぐ回廊を抜けた先で、どんな初見殺しに見舞われるのかなど誰にも分からない。音もなく飛来する毒矢、頭上に仕掛けられた大岩、篝火を囲む小鬼の哄笑――。
私は左手に掲げた松明の炎をあらゆる暗闇へと差し向け、事実上の不死となった今でさえ拭い去り難い死への恐怖に怯えながら、第一階層に出現するという精霊の揺らめく影を追って、地下迷宮の深みへと、再び歩み出していくのだった。