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第三章

大君(おおいぎみ)様。源少納言(げんしょうなごん)と申します。よろしくお願いいたします」

菊子は一段上の畳に座っている大君にそう言った。源少納言とはほんの少し前に決まった菊子の女房名である。

この時代、自分の本当の名前は家族以外には明かさなかったのである。でも呼び名がないと不都合が生じるため、父の役職や自分の名字などであだ名をつけるのだ。

菊子は(みなもと)という名字なのでこんな女房名になった。

(おもて)を上げよ」

偉そうな声に少しムッとする。こんな声で何かを命じられたことはこれまでなかった。だが、ずっと座りながら頭を下げているのは疲れるし首が曲がるためそっと顔を上げた。

(以下は菊子の個人的、かつ主観的な感想である。菊子はわがまま娘でマナーとかも知らない。そのため身勝手なことばっかり考えるのである)

(……)

何も言えず何も考えられなくなってしまった。不愉快な虫をみたときと同じような気分だ。

大君は道義の同母妹だと聞いていたが、彼とは似ても似つかない。

けだるそうに脇息にもたれかかった大君は一目見ただけでも病弱そうに見える。髪は細く頼りなく、長さは背丈に届いていないだろう。

それだけならばよいのだ。

いやでも目に留まってしまうのは鼻だった。象のようにやたらに長く、先が紅をこすりつけたように赤い。

大君の顔は青く、唇は白っぽい。化粧はしているのだろうが、不健康さを隠しきれてはいなかった。

目は線のように細くものが見えているのか心配なほどだ。

気の毒なほどに痩せていて、何枚も重ねた着物の上からでもごつごつとした体つきがわかってしまう。

なにかの物語でこんな姫がいたなと思った。その姫は髪だけは見事だったはずだが。


「そなたが噂の没落貴族か。もとは皇族とはいえ落ちぶれたものじゃ」

大君が言う。その声には蔑みがこもっていた。菊子こぶしを握る。見とがめられないよう手をそでに隠して。

(私はなぜこんな女に落ちぶれたなんて言われなきゃならないの!?私はなんでこんな人に仕えなきゃならないの!?)

菊子の気持ちは爆発寸前だったが、なんとか唇を笑の形にした。ここでなにか大君の気に障る言葉を言ってはならない。そしたら即解雇だ。なるべくならそれは避けたい。

「最近は暮らしていけるのかどうか不安な日々が続いておりましたので、取り立ててくださった大君様、関白様、大納言様への感謝は言葉では言い尽くせないほどです。これで父上の生活はどうにかなりそうです」

大君様と言うときは少し声が震えた。大君はそれに気づかなかったのだろう。

「そうか。それはよかったな。下がれ」

と、退出をうながされた。菊子は大君ともう、一秒もむかいあっていたくなかったので素直に従った。

関白の屋敷の東の対から自分の部屋へ戻るため、渡殿(わたどの)を歩く。渡殿とは寝殿造りの屋敷における廊下のようなものだ。家に建物が何個もあるのか疑問に思う。菊子の屋敷は寝殿くらいしか建物がなかったのだ。

上流貴族が住む家は面積がとんでもなく広い。庭や池もある。だいだい四三六四坪(約一万四四〇〇平方メートル)というから驚きだ。関白の屋敷も大体そのくらいである。大きな建物は4つある。

真ん中にあるのは寝殿。居間という意味だ。寝るとろではないそう。

その北、東、西も建物がありそれぞれ、北の対、東対、西の対という。北の対には

主の正妻が住むことが多い。正妻を北の方と呼ぶのはここからきている。関白の屋敷では関白の正妻で道義と大君の母が住んでいる。東の対は成人した主の娘が住むことが多い。関白家では大君が住んでいる。

で、その四つの建物を行き来するとき使う廊下が渡殿というわけだ。渡殿は建物と建物との間にそれぞれ北と南の二つある。北の渡殿には部屋が作られることもよくある。南の渡殿に部屋はなく、そのため透渡殿すきわたどのという。

こういうことを菊子は関白の屋敷に到着してすぐ覚えさせられたのだった。

けっこう歩いてからようやく自分の部屋へ菊子はたどり着いた。

(なんだか無駄に疲れたから休もう)

と、菊子は思い床にねっころがる。布団の上で寝てしまうと完全に眠ってしまう。まだ今は昼だからそれは避けたい。

うとうとしていると、近くにいた乳兄弟の楓にたたき起こされた。

「姫様、起きてください!!」

「なによ、うるさいわね。ちょっと昼寝したっていいじゃないの!」

「いいから起きてください。大納言様がいらっしゃったのですよ。そんなふうに寝ていたら無礼ですよ!」

菊子は「えっ!!」と叫び飛び起きた。あの大納言道義が来るとは。こういうゆっくりしたいときに来ないでほしい。そう思ってもあちらのほうが、身分が高いので言えない。前に会った時のようなはしたないことをしないようにしなければならない。

気づいた時には楓はいなくなっていて、菊子の部屋の扉のような役割を果たす御簾のすぐ外に人の気配がする。

「春眠暁を覚えず、かい?」

道義の声だ。だが、いったい何を言っているのかわからない。父が教えてくれた漢詩の一節だったような気がする。でも意味の理解が間違っていたら嫌なので何も言わないことにした。

「そもそも今は朝じゃないけどね」

「そうですね」

適当な相槌をうつ。

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