第二章
菊子の父・道信の屋敷はにわかに活気に満ちるようになった。菊子が関白左大臣の
娘・大君(長女/固有名詞)に仕えることになったからだ。
関白というのは貴族の中で一番偉いといっても過言ではない役職だ。
成人した帝を補佐するのが仕事。ちなみに摂政というのは帝が幼少、または女帝の時、帝に代わって政務をとる役職である。摂政関白をまとめて摂関といいそれを代々する家が摂関家、そのような政治形態を摂関政治とよぶ。摂関になるには帝との血のつながりが必須でそのため、貴族はこぞって帝に姫を入内させたのである。
今の関白は帝の伯父。左大臣も兼ねる。
菊子はすぐに宮中にはあがらず、大君が入内するまでの間は関白の屋敷で働く。
道信は娘の菊子が侍女になることに抵抗があるらしく、あまり乗り気ではない。毎日ぶつぶつ、
「ああ、父上が政変にまきこまれず大臣のままでいてくれたらどんなによかったか。
そしたら、菊子は堂々と后妃になれたのに」
と言っている。
菊子はそんな父の姿をみている。過去の栄光にすがってもどうしようもないというの
になぜ道信はこんな愚かなことを言うのだろう。本当に情けない父だ。母が生きていたらこんなこといわないだろうに。そう思ってはっとした。忘れようと思っていた記憶がよみがえってきてしまった。まだ若かったというのに風邪をこじらせ亡くなった
母。菊子は治ったというのに看病してくれた母はそれがうつりあっけなく逝ってしまった。この家にはつらい記憶の断片がそこかしこに散らばっている。
でもこの屋敷にはうれしい記憶の断片ももちろんある。父の昇進、母が侍女たちと一緒に菊子の着物を縫ってくれたこと、母と一緒に小鳥を飼ったこと、菊子の裳着(女性の成人式)のとき父が喜んでくれたこと。
家には長年使った屏風や几帳。長年稽古した琴。愛用の鏡台、文机、伏籠(衣服を乾かしたり香を焚きしめたりする籠)。持っていこうと思えば関白の屋敷にも宮中にも持っていける。でもこの屋敷に置くからこそ思い出となるのだ。
ふっと、この屋敷を離れたくないと思った。菊子はここに閉じ込められていたのではなく、守られていたのだ。屋敷を出ると決めてから気づくとは…遅すぎる。もう支度は着々と進められていたのだ。
「これは私が決めたことだもの。絶対に後悔なんかしない!」
自分で自分に言い聞かせるように言った。そうすると少しだけ気持ちが軽くなった。
里帰りすることがあっても、ここは昔のように菊子にとって唯一の世界ではなくなっているのだ。でも屋敷はそのまま変わらないはずだ。
とうとう出発の日になった。関白の屋敷から迎えの牛車が来る。女房にしては破格の待遇だ。皇族の血を引く菊子に敬意をあらわしたのではないかと父・道信は言っている。
最後に道信は菊子にむかって、
「いいな、菊子。頑張るのだぞ。いつか幸運をつかめるかもしれない」
と言った。その目は赤く、泣き出しそうだった。
クソ親父と心の中で言ったこともある父だが、いたって善良な人なのだ。妻を亡くしてからは娘の成長をなによりも楽しみにし、浮いたことひとつしなかった。
菊子にとっては腹立たしいところも多くあり、そこを気にしないことはどんなに些細なことでも菊子には絶対できないが、いざ別れるという段階になるとよいところしか思い出さない。
菊子はこくこく肯く。
「父上。どうかお元気で」
菊子は牛車に乗り込んだ。四人まで乗れるということなので二人なら余裕で乗れると思っていたがなんだか狭い気がする。中には乳兄弟(乳母の子供)の楓もいる。やっぱりぎゅうぎゅうだ。もし四人が乗ったらどんなことになるだろう。
小窓を開けると父・道信がわざわざ門の近くまで出てきて手を振っているのがみえた。
(ああ。もし私が身軽な恰好をしていたらすぐ車を降りて父にかけよれたのに)
目頭が熱くなってきたが泣くまいと思い、こらえた。未練を断ち切るためにも小窓を閉め、しっかりと御簾を下ろさせた。
牛車はゆっくりと進んでいく。これでは関白の屋敷に着くころには、夜になっているのではないか。まあそれでもいいけど、などと考え、気を紛らわした。