第一章
一家の主婦を失い、ますます荒れてきた寝殿造りの屋敷に久々の来客があった。
菊子は父からうやうやしく迎えられて屋敷にはいる男の様子を古びた几帳のすきまから覗いていた。四角い木の台に二本の棒をつけその棒の上に横棒をわたしてある。そ
こに帳とよばれる布がかけてある。それが几帳というもので、空間をしきるといっても少し隙間がありそこから向こう側を覗くことができた。
道信が急いで用意した畳の上に座った男は二十代後半にみえる。狩衣に烏帽子。お忍びだろうか。そういえばなんとなく上品な香りがするような気がする。
菊子はどうしようもなくその男が気になってきた。ただでさえ家族と使用人以外の人
をみることがめずらしいうえに、高貴な人かもしれないと思えばもう少しちゃんと姿をみてみたいと考えてしまう。外の者に姫君が顔をみせるなどはしたないと世間では
いわれているが、自分の好奇心には勝てない。
もっとよくみようと前のめりになると、しぜんに几帳に体重がかかる。あっ、と思っ
たときには几帳は前に倒れていた。菊子の体はすんでのところで踏みとどまっていて、少しホッとする。
前を見ると、青い顔をした父の顔ともう一つ、美しい男の顔が見えた。
「お怪我はありませんか」
と、道信はがくがく震えながらいう。
「ないよ。そう心配するな。どうせ当たったってたいしたことはない」
男はそう言う。そして少したってから、唐突に大声で笑いだした。
「あはははははは」
貴公子にしては品のない笑い方をする。
そんな彼をみていると菊子は自分が馬鹿にされているようで気分が悪くなってくる。
そもそもこんな男が屋敷に来たから几帳をたおすなんていう恥ずかしいことをしてしまったのだ。全部こいつが悪い。菊子はそう決めてかかった。実際、男は今現在笑っていること以外、悪いことはなんにもしていないのだが、自分が悪いとは認めたくない菊子は自分を正当化しようとする。
「ねえ!あなたがどこの誰だか知らないけど私のこと笑わないでくださる!!」
菊子はそう叫んだ。無礼だということは考えられなかった。
道信の顔が、青色を通り越して白色になった。蒼白ってやつである。もう謝罪の言葉も思いつかないようだ。
男は笑うのをやめた。でもさっきよりさらに愉快そうだ。
「あなたはおもしろいおなごだ。俺はそういう子大好きなんだよな」
そう言われて菊子の怒りの熱はすーっと冷えていった。平常に戻ってくると私はなん
てことを言ってしまったのだろうと思う。几帳を倒した姫などおかしいにきまっている。
男の顔をおそるおそる見る。彼の目の奥の奥を覗きたい。そこにはきっと本心が隠れ
ているから。でもそんなの見えるわけがない。他人の本心などわかったためしはない。
男は固まっている道信のほうをむき、
「姫は本当に聖帝のひ孫なのか?おくゆかしさはかけらもないが」
とおかしそうに言う。
「はあ。わが娘はこのように癇癪持ちで、わしも困っております。本当に申し訳ありません」
道信はため息とともにそう言う。道信の言葉は男に完全に無視された。きまり悪そう
にしている道信に目を向けず、男は菊子にむけてす。
「いかにもお姫様という感じの女は俺の好みじゃない」
その言い方では菊子は姫らしくないということになる。ムッとしたが、それを言うのはやめた。
「俺は関白左大臣の息子、道義だ。大納言を務めてる」
男―道義はきかれてもいないのに自己紹介をする。道義か。覚えにくそうな名前だ。
なぜ貴族はみな似たような名前なのだろう。同性同名な人は都の中にたくさんいそうだ。
関白左大臣の子で大納言。エリートの中のエリートである。
(そんなに偉い人だったのか。あーあ、覗くんじゃなかったな~)
後悔しても後の祭り。
「さて、本題に入ろうか」
道義がそう言うと道信がいきなり生き生きとしだした。
「つまり、娘を嫁にということですな。こんな娘でもよいならありがたいことです。
どうぞよろしくお願い致します。わが娘はー」
嬉々として話し出した道信に道義はあきれ顔で、
「そうじゃない」
と言って話を途中で遮った。あきらかに落ち込んでしまった道信はまた黙ってしまう。
そんな道信の存在は二人に簡単に無視された。
「俺の妹がもうすぐ入内し主上の妃になる。そこであなたには妹の女房になってほしい」
女房とは妻という意味ではなく、使用人という意味だ。使用人といっても下女ではなく、育ちのいいものだけがなれる。公的な女官もいるが、菊子は后妃に仕える宮の女
房になってほしいという。
存在感が完全に消えていた道信が小さな声でぼそぼそと反論した。
「わしの娘はさっき申したようにあの聖帝のひ孫なのですぞ。その娘を女房とはいえ
侍女にするのは…」
最後のほうはまったく聞き取れない。
「妹に箔がつく」
サラッと言う道義。
「さあ、どうかな?」
疑問という形をとった言葉だがほとんど決定事項のような言い方だ。逆らうことはできないだろう。はいというしかない。
だが、菊子はそれとは別に女房という仕事に興味を持っていた。ぼろ屋敷に閉じ込められ外の者に会えない生活はもうたくさんだ。これからは自分で自分の道を歩いてみたい。宮中という場所は強いていくほどではないのだが、行くほかに選択肢がないのなら喜んで行きたい。
そして父に反抗したいという思いも少なからずあった。
道信と道義は菊子の答えを待つようにこちらをじっと見ている。事実待っているのだ
ろう。道信は拒否しろと思いながら。道義は承諾しろと思いながら。どちらを選ぶの
かは菊子の自由だ。
菊子の思いは決まった。
「私、女房になります。そして宮中に上がります」
菊子、17歳。彼女が初めて自分のことを自分で決めた瞬間だった。