後編
「お糸、調子はどうね」
障子の向かい側から聞こえるお静の声に、布団に入ったままのお糸は、ゆっくりと瞼を開けた。目に、光はない。
「あんまりようなか」
その声は掠れている。
「久之助さんのお菓子ば持ってきてくれたとよ」
こうやってお糸が伏せるようになってから、久之助は度々何かしらの差し入れをしてくれていた。だが、お糸の口に入ったものは、ない。
「かすていらよ。お糸ちゃん、好きやろうもん」
どうやら障子の向こうにはお民もいるらしかった。お糸は瞼を閉じた。
「お糸。食べんね?」
「よか」
お糸は布団に潜り込んだ。甘味など口にしたいと思う気持ちもなかったし、もう何も聞きたくはなかった。
「こいも駄目やったね」
「お糸ちゃん、好きやったとに」
先ほどとは打って変わって、ひそひそと交わされるお静とお民の会話は、余計にお糸の耳に届いた。
こうやって布団の中で過ごす日が続くようになってから、お糸の耳は、外で交わされる声をよく拾う。
彼岸花が咲き、ナンキンハゼの実が黒く色づいてきた季節の移ろいや、久之助が蘭の言葉を学びたいと直談判していること。それから、正吉の頬が腫れた理由や、正吉が別のおなごと祝言をあげる話も。そして、その相手が、いつか正吉と出かけた時に蹲っていたさきであることも。
最後に正吉に会った時に、正吉の頬にあった腫れは、お糸の父である喜三郎によって作られたものなのかと思ったが、どうやら正兵衛に殴られたせいらしかった。
お糸と正吉の夫婦になる話は、父親同士の口約束だった。だから反故にされる理由にはならない。
ただ、さきが、食も細るほど望んだ相手が、正吉だった。
それだけだったら、さきの恋煩いだけの話で終わったのだろう。
ところが、正吉もまた、さきに惹かれていた。しかも、さきは貴重な砂糖を扱う大店の末娘で、店主の幸之助はさきを殊更かわいがっていた。だから無理が通った。
聞きたくないと思っていても、ひそひそと声が交わされても、お糸の耳は正吉の名前を拾っていく。お静とお民の正吉に対する怒りが、口からついてしまっていたのも影響していたが、そうしていつの間にか、お糸は理由にたどり着いた。
既に涙は枯れていた。
「ハゼの実の弾けとるね」
縁側から庭を眺めていたお糸の声に、お糸の髪を梳いていたお民が頷く。
ナンキンハゼの黒くなった皮がはじけて、朱に染まった葉の間に白い実が顔をのぞかせていた。
「もう十月やっけんね」
「……そうたいね」
お糸はじっとナンキンハゼの実を目に入れたまま、ため息をつくように告げた。
一か月ほど床に臥せっていたお糸は、ここ最近は部屋から出て過ごすことも増えてきた。
それでも、しばらく碌に食べ物を口にしていなかったことと、ほとんど日に当たっていなかったせいで、肌は青白いままだった。ふっくらしていた頬はやせこけ、少し前まであった、ほんわかとした幼い表情が抜け、いくらか大人びていた。
「もうすぐ、くんちのあるたいね。今年は、本籠町の新しか踊ば披露されるったい。賑わうやろうね」
急に明るい声になったお民に、お糸は足元に目を落とした。
十月七日になれば、長崎くんちが始まる。去年は正吉と御旅所まで見物に出かけたが、もう二度と正吉と連れ立って行くことはない。
「龍舞ば、されるっちゃろう?」
お糸は正吉と交わした会話を思い出した。けれども、顔を上げる、勤めて明るく告げた。
「龍踊って言わすらしかよ。見に行かんばね」
「……そうたいね。見に行かんばね」
お糸の返事に、お民が安堵の息をついた。
お糸は行く当てのなくなった気持ちを、空に逃がした。
臥せっている間に、空は高くなっていた。一羽の鳶が悠々と円を描く。なのに、お糸の心はその高さに届きそうもなかった。
「お糸ちゃん、人数揃いに行こうで」
庭を眺めながら縁側で日向ぼっこをしていたお糸の前に顔を出したのは、久之助だった。小さな頃であれば、庭から現れる久之助の姿は見慣れたものだったが、分別のつく年になってからはそんな現れ方をしたのは初めてだった。
だからかもしれないが、殊の外、久之助が大きくなった気がした。しかも、最後に会ったのは六月のことだ。しばらく会わない間に、上背が伸びているのかもしれなかった。
「人数揃いって……今年は踊り町じゃなかよ」
お糸は頬に手を当てた。
人数揃いとは、今日、十月四日に行われる、総練習のことである。踊り町の町民の前で演じることが習わしだ。
「本籠町の人数揃いに行こうで」
ただ、広場で行われる人数揃いは、他の目を隠すこともできないため、町民ではなくても観覧することは可能である。
「本籠町の?」
「そうさ」
大きく頷く久之助の目は、まっすぐにお糸を射る。
お糸は耐えきれなくなって、俯いた。
「でも……」
つい先日、お糸はお民と一緒に久しぶりに外に出かけた。その時、お糸は他の人の目が気になって仕方がなかった。
例えお民に「お糸ちゃんは何も悪うなかとやっけん、背筋ば伸ばさんね」と言われても、狭い町の中では、お糸と正吉の話は既に知れ渡っているし、同情的な視線を感じるのは、とても居心地が悪く、お糸が外に出づらい理由にもなってしまっていた。
それに、本籠町の話も、お糸の心を重くさせた。
「お糸ちゃん、本籠町の人数揃いに行くとって?」
現れたのは、お民だった。手には、秋の装いの一揃えがあった。薄い柿色は、お糸が初めて目にするものだった。
「お義姉さん、行くとは言っとらんよ」
「久之助さんから頼まれとったとよ。ほら、着替えんば」
驚いたお糸が口を開くと、お民が平然と告げる。
お糸が弾かれたように久之助に顔を向けると、久之助は気まずそうに目をそらした。
「ほら、手伝うけん」
お民に押し切られて、お糸は障子の向こう側に押しやられた。
「お義姉さん、行くとは言っとらんよ」
お糸がもう一度同じ言葉を繰り返すと、お民はお糸の帯を解きながら苦笑する。
「こん着物、仕入れてすぐに、お義父さんと喜助さんが、お糸ちゃんに似合うやろうばい、ってお針子さんに急いで仕立て直して貰ったとよ」
お民の言葉に、お糸は目を伏せた。お静とお民が心配してくれているのはよく理解していたが、父の喜三郎も、喜助もお糸には何も言うことがないため、そこまで心配させているとは気が回っていなかった。
「そう……ね」
お糸は、お民の動きに合わせて、素直に袖から腕を抜いた。
六月から噂で持ち切りだったこともあって、本籠町の人数揃いは、普段以上の賑わいだった。お糸と久之助が広場にたどり着いた時には、披露の舞台となる場所の周りを、何重もの人の輪が囲っていた。
「あー。あいが龍たいね。お糸ちゃん、見ゆっね?」
お糸は久之助に眉を下げて首を振った。
庭先で感じたように、背の伸びた久之助は、何重もの輪の外でも中の景色に届くらしい。だが、頭一つ小さいお糸は、人の背中に遮られてしまっている。
「そうね……あっちに行こうか」
ぐるりと広場を眺め回した久之助が、お糸の手を引いて歩き出す。
お糸は久之助の行動に戸惑いつつも、手を引かれたまま、小刻みな歩みで久之助の後をついていく。
「ここやったら、どうね?」
久之助が自分の前にお糸をぐいと押し込む。
丁度、人と人の合間になっていて、隙間から横たわる龍と龍の腹に繋がった棒を持って座り込む踊り手が覗いていた。龍は、唐人たちの龍舞と同じで、金糸で輝いていた。そして、踊り手たちは、唐人の衣を模した、金糸と朱色のきらびやかな衣装だった。
「見えたよ」
お糸が振り向くと、久之助が笑って頷いた。そしてその視線はまた、龍に戻る。お糸は下から仰ぐ久之助の表情に、覚えのある幼さが消えていることに気づいて、途端に居心地が悪くなって、慌てて顔を龍に戻した。
「龍踊って言うとって」
背中から聞こえてきた久之助の声に、お糸は頷く。その名は、既に耳にしていた。
銅鑼の音が広場に響く。ざわめいていた広場は水を打ったように静まり返った。
しゃがみこんでいた踊り手が立ち上がったことで、人々の頭の上に、龍が躍り出た。お糸は龍に見惚れる。
空の青に、金色の龍が映えていた。
とぐろを巻いて静止する龍の長さは、十尺を軽く超えている。下手すれば五丈近くあるかもしれない。龍の腹に繋がる棒の数は、十。どうやら踊り手は十人のようだった。
銅鑼の音と鉦の音が互いに作用して広場に木霊する。雅楽とは趣の違う音色が、一瞬で広場を唐の雰囲気に染めた。
龍がのっそりと頭を左右に向けた。何かを探すようなしぐさは、生きているようだった。
しばらく頭だけを動かしていた龍が、獲物を狙うように勢いよく空に舞った。
龍の視線の先には、金色に輝く珠がある。珠には棒が繋がっていて、棒を持つ踊り手は、朱色だけの衣装を纏っていた。どうやら踊り手は十一人らしい。
龍の前に翳してある珠が、大きく動き出す。その珠に食らいつくように、龍が体を躍動させた。
珠が下を向けば、龍は地をめがけて頭を下げ、珠が右に振られれば、龍は体ごと右に大きく体を揺らす。球が動くたびに、地鳴りのような銅鑼と鉦の音と龍が迫っていく。
珠を求めて龍が左に旋回する。お糸は現れた龍のぎょろりとした目を見つめる。
だが、龍はお糸に見向きもせず、ただひたすらに金色の珠を追いかけていく。
龍の勇壮な体躯が、広場を縦横無尽に駆け回る。
珠と共に龍が勢いよく龍の腹の下をくぐって、龍の頭が空に突き出ると、自然と拍手が湧いた。お糸も久之助も、例に漏れない。
尚も龍は珠をめがけていく。
以前唐人の龍舞の時には、ぼんやりと龍の動きをなぞっていたお糸だったが、今は違う。龍の動きに合わせて、顔だけではなく体まで龍に向かっていた。
珠を追いかけてきた龍の目が、お糸を捉える。まるで龍にぎろりと睨まれたような気がして、お糸は目を見開いて固まる。
そして龍は美しい金色の体を、誇るように左に大きく弧を描く。
珠にかじりついて龍が頭を空に突き出すと、珠に促され、首をもたげて前を向いた。
龍の動きに重なるように、それまで忙しなかった銅鑼の音と鉦の音がゆっくりとした響きになる。
龍は優美に首を左右に動かすと、長い金色の体を引き寄せるように頭を中心にして渦を巻く。そして、すっかり体を引き寄せると、最初と同じく前を向いたまま動かなくなった。
ひときわ大きな銅鑼の音が鳴り、その余韻が終わると、静寂が訪れた。
次の瞬間、先ほどまで鳴り響いていた銅鑼と鉦の音に負けないほどの拍手が広場を埋め尽くした。
お糸も自然と拍手をしていた。青白かった頬は上気して、目は輝いていた。
「もってこーい、もってこい」
どこからともなく、声が挙がる。くんちの奉納踊りが終わった時にかかる掛け声だ。
「もってこーい、もってこい」
お糸も声を張り上げた。龍に掛かる声は数十にも及び、お糸の声は埋もれている。
もう一度見たい。「もってこい」という掛け声は、そういう意味だ。この広場にいる人間の総意にも思えた。
銅鑼と鉦の音がまた響いた。声が一瞬止まる。お糸も固唾をのんで龍の動きを待った。
だが、緩やかな銅鑼と鉦の音は、珠と共に龍を静かに退場させる動きを促しただけだった。
「もってこーい、もってこい」
消えていた掛け声が、再度湧く。
広場から出ていく龍に向かって、皆が懸命に声を掛けている。
それでも龍は振り向きもせず、去ってしまった。
しばらくは、期待を持った声が広場に残っていたが、龍が戻ってこないと理解すると、人々はちりじりに解散となった。
「お糸ちゃん、おいたちも帰ろうか」
ぽん、と久之助から肩を叩かれて、龍の消えて行った方向に気持ちをやっていたお糸は、びくりと肩を揺らして我に返った。
「龍の生きとらしたね」
振り向いた興奮気味のお糸に、久之助は微笑んだ。
「確かに、生きとるごたったね」
お糸は何だか気恥ずかしくなって、空に視線を逃がした。
どこまでも、澄んだ空だった。鴎が一羽、気持ちよさそうに風に乗っていた。
袋橋に差し掛かると、朝のひんやりとした風が吹き抜ける。お糸の視線は風に誘われるように、橋向こうの立ち枯れた紫陽花に向かう。低い木立は、あの日の鮮やかな色を思い出すことはなかった。
人揃いの時には気が進まなかったのに、血が騒いで自ら進んで袖を通した気持ちが、沈む。
「お糸ちゃん、どげんしたと? 早う、行こうで」
先で振り返った久之助の声に、お糸は首を振る。
「ちょっと裾の乱れたけん」
形ばかり、少し乱れた薄い柿色の裾を整えると、お糸は歩みを進めた。
追いつくのを待っていた久之助が、前を見て、「今日は人の多かね」と声を漏らす。
お糸たちのように着飾った人の波が、大波止を目指していた。
今日十月九日は、大波止に設えられた御旅所で、くんちの奉納踊りが披露される。だからこの日、庶民はこぞって、大波止に集結した。
くんちの前日である十月七日に、諏訪神社でくんちの奉納踊りを見ることができる人間は限られている。それは、諏訪神社が坂で形作られていることも影響していた。長崎奉行や庄屋などの身分の高い者か、それこそ諏訪神社に奉納を惜しまない家には長坂の桟敷席が用意されるが、庶民が奉納踊りを眺められる場所はわずかだ。
それに対して御旅所のある大波止は長崎では珍しい平地で、人垣はできても、多くの人が奉納踊りを楽しむことができるのである。
「ほんなこつね」
お糸は頷いて、波の先を見やる。大波止に繋がる坂を上っていく人たちの表情は明るく、足取りは軽い。いつものくんちの空気に当てられて、お糸の気持ちも上書きされる。
今魚町の何十人もの手に押される大きな川船に、並んで立つお糸も久之助も「もってこーい」と声を掛ける。だが、野太い声や、高い声、幼い声が混じる要望に応えることなく、川船は立ち去っていく。川船を曳く男たちは、既に二回戻ってきて力強い舟回しを行った後で、観客も満足した声でお礼代わりに「もってこーい」と声を掛けているようなものだった。
川船の代わりに入ってきたのは、本籠町の傘鉾だった。観客はどの顔も噂を知っていて、これからどんな奉納踊りが始まるのか、傘鉾が挨拶するように場を一周する様子を、期待を持った目で見つめている。
既に一度目にしていたとは言え、お糸も胸の高まりを抑えることができずにいた。
ふと、視線を感じてお糸は顔を向けた。
五間ほど離れた場所に、正吉の見慣れた姿があった。
当然のように、隣にはさきが寄り添っている。さきが嬉しそうに話しかけるのに、正吉は柔らかい表情で頷いている。お糸が知っている正吉とは、少し違っていた。
目を逸らそうとしたお糸と正吉の視線が混じる。申し訳なさそうにお糸を見つめる正吉に、お糸は手に力を入れて、口の端を上げようとする。
だが、できなかった。
咄嗟に、お糸はうつむく。もう出なくなったと思っていた涙が、滲んでいく。
力強い銅鑼の音が、逆に辺りを静まらせる。
「お糸ちゃん、始まるばい?」
上からの久之助の声に、お糸は一度目を強く瞑ると、ゆっくりと瞼と顔を上げた。涙は引いていなかったが、お糸は何もなかったように、そのままにした。
ぼやけた景色の中を、銅鑼と鉦の音に合わせて龍が息づき始める。
ゆっくりと動く金色の残像が、熱を持っていたはずのお糸の気持ちを冷ましていく。
勢いのある銅鑼と共に、龍が空を切る。龍は、人揃いの時と同じように生きている。
だが、お糸は龍の動きに置いてきぼりにされていた。
去年、正吉と一緒にいたのは、お糸だったのに。その気持ちが湧いてきた途端、お糸の心は臥せっていた布団の中に戻ってしまった。
あの時、街をぶらぶらしようと言い出さなければ。あの時、袋橋を通りかからなければ。あの時、お糸も付いていけば。
この日に正吉の横に立てるのは、お糸のはずだったのに。
でも、どうすれば正吉はずっと側にいてくれたのか、いくら考えても正解は見つからなかった。今だって、後悔する言葉が堂々巡りするだけである。
いつの間にか涙は乾いていた。お糸は熱気をすり抜けて正吉にたどり着く。
正吉の顔は龍とさきをゆったりと行き来している。いくら待っても、お糸の視線に正吉は気付くことはない。
あの優しい眼差しが、揶揄うような瞳が、お糸に向けられることは、もうないのだ。
お糸は紅をさした唇を噛む。
「もってこーい、もってこい」
周りで一斉に噴き出した野次に、お糸は弾かれるように広場に意識を戻した。
龍は首をもたげて鎮座している。楽しみにしていたはずの龍踊が、終わってしまっていた。
「もってこーい、もってこい」
久之助の声も混じっている。
呆然と龍に見入っていたお糸は、息を大きく吸った。
「もってこーい、もってこい」
腹の底から、声を張り上げた。
久之助が、驚いた顔になる。
「もってこーい、もってこい」
周りの声よりも、お糸の声はひときわ際立っていた。
お糸は、心の奥に押し込めていた感情を龍にぶつける。
理解はしたつもりだ。正吉との未来はあり得ないことも。正吉とさきの気持ちが揺るがないものであることも。
それでも、捨てきれない気持ちは、ずっと燻ぶっている。
「もってこーい、もってこい」
ありったけの気持ちを、叫びに変える。
お糸に応えるように、銅鑼が返事をする。
太い響きに、鉦の高い音が縋り付く。高い高い空に、金の珠が突き刺さる。
青い空に、龍が舞い始めた。
完
アイデアを出して完成させるまでに足掛け2年かかった作品です。楽しんでいただければ幸いです。