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天に舞う  作者: 三谷朱花
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前編

 享保元年、公方様(くぼうさま)の代替わりがあった。八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の治世が始まったのである。だが、遠い江戸の話など、長崎の庶民の口に上ることはほとんどない。

長崎の庶民の関心は、前年に発令された長崎新令を制定させた新井白石の解任でも、新しい長崎奉行の石河政郷(いしこまささと)でもなく、くんちだったと言っていい。


 くんち——長崎くんちは、寛永十一年に榊原飛騨守(さかきばらひだのかみ)神尾備前守(かみおびぜんのかみ)からのお触れが出され、諏訪神社(すわじんじゃ)で行われる「諏訪祭礼」という形で始まったものだ。長崎ではキリスト教が広まり、神社や仏閣がないがしろにされていた。そのことを憂いた者たちの働きかけで、始まった祭りである。最初こそ奉納踊(ほうのうおどり)は、遊女二人によるものだったが、次第に規模は大きくなり、八十年も経った今では、すっかり長崎一の祭りとして定着している。

 その奉納踊の一つが、この年新しくなった。だから、庶民が集まると、誰彼ともなく話題に上ったのである。


 大川(中島川(なかしまがわ))にかかる袋橋(ふくろばし)の石畳を辿るお糸の足取りは軽い。

湿った重い風が、お糸の新しく誂え直した単衣の裾を揺らす。今日のためにと、お糸本人ではなく、わざわざ店のお針子さんに誂え直してもらったものだ。一目見て気に入った淡い藤色だった。

 梅雨の晴れ間の心の軽さも相まって、抜ける風は爽やかな気分を運ぶ。お糸の足取りが軽いのは、勿論それだけが理由ではなかった。


 目の前を燕が横切る。きっと巣には、お腹を空かせた雛が待っているに違いない。お糸は自分の数年後を思って微笑んだ。

 燕を追ったお糸の視界の端の川岸に、薄紫の紫陽花が咲いていた。顔をそちらに向けると、途端にふらついた。足元を石畳にとられたせいだ。


「お糸ちゃん」

 隣を歩く正吉(しょうきち)が、咄嗟に手を取り、お糸は転ばずに済んだ。

「ありがとう」

 握られた手に、お糸は赤くなる。

「お糸ちゃん、ぼんやりしとっけんね。気をつけんば」

 微笑む正吉に、お糸が目を伏せる。

そげん(そんなに)……ぼんやりはしとらんよ。ただ、紫陽花の咲いとるけん、見とっただけたい……」

 正吉の意識が川岸の紫陽花に向かった後、姿勢を持ち直したお糸の手を離す。


 離された手にお糸は自分の手を宙に浮かせたまま、何かを口にしようとして、そのまま手を下した。

 お糸の落ちた視線が大川の水面を泳ぐ。

「龍神様はこん水ん中におらすとやろうか?」

 お糸は正吉に顔を向ける。正吉がわずかに眉を寄せた。

「龍神様はどこの水にも住んどらすやろ。なして(なんで)突然、龍神様の話になったとね?」


「いや……なしてって……ちょっと思うただけたいね」

 お糸は最近どこかで龍の話を聞いたような気がしたが、どこで聞いたのかは思い出せなかった。

 正吉が肩をすくめる。

「龍、ね。そげん言えば、今年のくんち、本籠町(もとかごまち)が新しか踊りばするらしかけど、知っとう?」

 正吉がお糸の顔を覗き込む。お糸は眉を上げて、パチパチと瞬きをした。話題が唐突だったせいもあった。


「ほら、やっぱりぼんやりしとろう? お糸ちゃんのことやっけん、聞いとらんとやろうと思ったけど。小屋入りの日には、もう噂になっとったとよ?」

 本籠町は、くんちの七年に一度巡ってくる踊り町の一つだ。今年は、本籠町のほかに、本大工町(ほんだいくまち)今博多町(いまはかたまち)本紺屋町(もとこうやまち)、今魚町、材木町、古町、上筑後町(かみちくごまち)後興善町(うしろこうぜんまち)江戸町(えどまち)、本興善(こうぜん)町の十一の町が踊りを披露することになっている。


 その本籠町が六月一日の小屋入りの日の打ち込みの時に、世話町に新しい踊りを披露すると告げたというのだ。噂にならない方がおかしいのかもしれなかった。

噂は、六月中に瞬く間に長崎の町に広まった。くんちは長崎の一大催しだ。そこで新しい奉納踊りを披露するとあっては、長崎の人たちの口も軽くなる。


どげん(どんな)踊り?」

 お糸は正吉に小首をかしげた。もしかしたら家人の中では話されていたことかもしれないが、ぼんやりと想像の世界に思考が行きやすいお糸は、家人の話をよく聞き洩らしている。きっと家では噂に敏い兄の細君であるお民が、真っ先に口にしていたことだろう。

「そいが……龍舞らしかとさ」

「龍舞?」

 お糸が目を見開いた。


「そう、龍舞。お糸ちゃんも、見たことあるやろもん?」

「あるけど……?」

 お糸も龍舞は目にしたことがある。唐人たちの間で伝わる踊りらしく、日本舞踊とは趣も動きも、使われる楽器すら違う。お糸には、ぼんやりとしたイメージしか残ってはいなかったが、唐人の奏でる賑やかな音には慣れているつもりでも、初めて目に入れた時には衝撃を受けたものだった。


「本籠町は唐人から教えてもらったとば、披露するとって」

 なるほど、とお糸は頷く。本籠町は唐人町に隣り合っているため、唐人とも親しく付き合いがあるのだろうし、教授する機会にも恵まれたのかもしれなかった。

「お諏訪さんも、びっくりさす(される)かもしれんね」


 のんびりと告げたお糸に、正吉の口元が笑う。長崎の人々は、諏訪神社のことをお諏訪さんと親しみを込めて呼んでいる。

「そうやろうね。まあ、銅鑼の音は街の中のどこからかは聞こえるやろうけん、鳴っても驚きはせんとやろうけど」

「でも、龍が舞うとは、思ってもおらっさんやろうね」

「でも、龍舞は水神様ば祭るための踊りって聞いとるけん、案外お諏訪さんはどこかしらで目にしとるかもしれんよ?」


 真面目な顔つきで、でも目を笑わせたまま告げた正吉の言葉に、お糸はクスクスと笑う。

「神様も、物見遊山に行かさらすとやろか」

「神様も遊びたか時はあるやろうもん。息抜きも必要かさ。おいんごと(俺のように)ね」

 微笑む正吉に、お糸も笑顔を向ける。


 正吉は米屋の跡取りだ。毎日仕事を手伝って忙しく働いている。こんな風にお糸と二人出かけるのは一か月ぶりのことだった。

 お糸の家も古着屋をやっているが、米屋のように毎日忙しないことはない。

 その正吉が、まだあどけなさの残るお糸との時間を取ってくれるのは、いずれ所帯を持つことになっているからだ。

 それは、互いに商家である親同士の口約束ではあったが、お糸が疑問を持つことはなかった。青年になった正吉に、少女から脱したお糸が自然と恋心を抱いていたことも、そこに疑問を挟まなかった理由でもあった。


 前を向いた正吉が、あれ、と声を漏らす。

どげん(どう)したと?」

 お糸は首を伸ばして、正吉の視線の先を辿る。橋のたもとには、狼狽える少女と(うずくま)る女性がいた。

 正吉は足を速めると、二人に近づく。お糸も心配そうな表情で後ろに付いて行く。

 正吉が困っている人を放っておけないのは、良く知っていることであるし、お糸も力になれるのであればなりたいと思う。


どがん(どう)したと?」

 正吉が落ち着かない少女に声を掛ける。地味な色味の着物を着た少女は奉公人なのだろう。蹲る女性の明るい浅黄色の単衣とは、仕立てからして違っている。少女は縋るように正吉を見上げた。

「さき様が……差し込みのあるとです……」

 うつむく女性は、確かにお腹の当たりを抑えている。鮮やかな浅黄色から覗くほっそりとした首筋が、白く際立っていた。


「差し込みね……家は?」

 正吉の問いかけに、少女が肩を落とした。

蛍茶屋(ほたるじゃや)になるとです……」

 少女が困り果てた様子だったことにお糸も納得する。確かに家人を呼んで来るには、西浜町(にしはまのまち)から蛍茶屋だと、少々距離があり、さき様と呼んだ女性を数十分一人きりにするのは気が向かなかったのだろう。


「蛍茶屋……もしかして、松尾屋(まつおや)さんの?」

 正吉の問いかけに、少女が頷く。松尾屋の屋号は、確か砂糖を扱う大店だったはずだった。

「うちの近かけん、ちょっと休んでいったらどがん(どう)でしょう?」

 だが、さきは首を縦にはしなかった。

「すぐ治りますけん。大丈夫です」

 主の頑なな声に、少女は眉を下げた。 


「じゃあ、おい(おれ)が送って行きますけん」

 少女はようやく落ち着いた表情になったが、蹲ったままのさきは力なく首を振る。

「大丈夫です」

 顔を上げたさきと正吉の視線が混じる。その一瞬、お糸には時が止まったような気がした。

「無理()したらいけん」

 いつもと違ってきつく聞こえる正吉の言葉に、お糸は我に返る。


 顔を上げたさきは青白い顔をしていて、お糸の目にも大丈夫そうには感じられなかった。

「無理はせんでください」

 お糸がしゃがみこむと、さきは目を伏せて、そしてようやく頷いた。

「申し訳なか(ない)ですけど、お願いします」 


 大きく頷いた正吉が、お糸を見る。

「お糸ちゃん、悪かけど、送って行くばい」

「私んことは気にせんでよかよ。私も、何か手伝おうか?」

 折角のお出かけがふいになるのは残念だったが、お糸だって、病人を放っておくことはできない。

 お糸が少女を覗き込むと、少女は眉を下げたまま、首を小さく振った。

 特に荷物を抱えているわけでもないさきたちには、手に余るようなことは特にないのだろう。


「大丈夫。お糸ちゃんは、帰っとってよかよ」

「うん……」

 お糸の返事を待たずに、正吉はしゃがみこむ。

「じゃあ、背中に乗らさんですか」

 正吉は、幼いころにお糸が触れた時より広くなった背中を、さきに向けた。

 お糸が幼いころには正吉に背負ってもらった記憶はあったが、今はもう、背負ってもらうようなこともない。


 正吉は背中にさきを載せると、よろけもせずに立ち上がって、お糸を振り返った。

「じゃあ、またお店に顔ば出すけん」

 お糸は心配そうに正吉に顔を向けた。

「正吉さん、気つけて行ってきてね。さきさんもお大事にしてくださいね」

 お糸の言葉に、正吉とさきが頷く。

 そして、さきを背負った正吉の後ろ姿を、お糸は小さくなるまで見送った。


 風がまた着物の裾を揺らして、お糸は我に返る。

「……帰ろうかね」

 小さくついたため息は、風にさらわれていく。

「お糸ちゃん、どげんしたと?」

 掛けられた声に、お糸は振り向く。

久之助(ひさのすけ)さんこそ、どがんしたと?」

 手に風呂敷包みを抱えた久之助を少し仰ぎ見て、お糸は首をかしげる。


 久之助は、お糸の一つ下の幼馴染だ。家が近く、幼いころには、正吉に一緒に遊んでもらったものだった。

「おいはお遣いやけど……お糸ちゃんは?」

「正吉さんと街ばぶらぶらしようって言いよったとけど……」

「正吉兄さん?」

 不思議そうに顔を左右に向ける久之助は、幼いころから幼馴染の正吉のことを『正吉兄さん』と呼んでいて、その癖は十五になっても抜けないらしかった。


「今、急病人()おって(いて)、送って行ったとよ」

「ああ、そいで(それで)おらん(いない)とね」

 久之助も正吉の行動としておかしくないと感じたらしく、あっさりと納得した。

そいけん(だから)、もううちに帰ろうかなと思っとって。久之助さんは、出島に?」

「流石におい一人で出島には行けんさ」

 久之助は肩をすくめて笑う。

「そうたいね」

 流石にお糸も、出島への出入りが制限されていることは理解している。


 塩問屋のせがれである久之助は、父親が用事があって出島に出入りするときには、大抵丁稚代わりに兄と共に一緒に足を運んでいたのである。小さいころから目にする出島の中の景色は、久之助の阿蘭陀(オランダ)に対する憧れを膨らませることになった。久之助は阿蘭陀通詞に弟子入りしたいと常々言っていた。だが、阿蘭陀通詞は世襲制のため、久之助にはその資格はない。ただ、三男であるために、阿蘭陀通詞の家の養子ともなれば可能性はあるかもしれないが、久之助の父親が許すことはなさそうだった。


「おいのお遣いはすぐ終わるけん、そん後に一緒にぶらぶらしようか?」

 久之助の提案に、お糸は頷かなかった。

「今日は正吉さんとぶらぶらしたかったけん……よか(いらない)

 お糸の返事に明らかに肩を落とした久之助は、それでも不器用に笑う。


「じゃあ、後からおいしかもん(もの)()持っていくけん」

「気ば遣わんでもよかって」

 俯いたお糸には、沈む久之助の表情は写ることはない。

「後で行くけん」

 眉を下げた久之助はそれだけ言い残すと、踵を返した。

よかと(いらないの)に」

 お糸は遠ざかる久之助の背中を少しだけ追うと、息を吐いた。




「なして急にお遣いに行かんばと?」

「あちらさんも、急いどらすとさ。他に手のなかけん、お糸に頼んどるとよ」

 母親のお静に風呂敷の荷物を押し付けられ、お糸は腑に落ちない気持ちで荷物を受け取る。

 今日は、正吉の父親の正兵衛(しょうべえ)が家に来ると聞いていた。正吉の父親とも、お糸は顔なじみだ。だから、しばらく貰えていない正吉の休みを、貰えるように頼もうと思っていたのだ。


 あの日、さきを送って行く正吉と会ったあと、お糸は正吉とゆっくり会える時間がほとんどなかった。それは、急に忙しくなった仕事のせいで、正吉が休みが取れないせいだった。

 だが、お遣いに行くとなれば、きっと正吉の父親には会えないだろう。

 流石に、米屋に押しかけてまでは言う勇気はなかった。


 ため息をつきながら、お糸は風呂敷を手に店先に出る。

 途端に、強い日差しがお糸を照らす。じわりと浮かぶ汗に、お糸は目を細める。

 歩き出すと、日差しとは裏腹な涼し気な風が吹き抜けて、お糸は息をつく。

 八月も末だ。秋の気配も近づいてきているのだろう。


 正吉とは二か月もゆっくりと会えていない。会えたとしても、正吉はせわしなく仕事に戻ってしまうため、もっとゆっくり会いたいと、お糸は望んでいた。

 当然、後継ぎとして忙しいのは理解しているし、その忙しない生活をお糸もしていかなければならないわけで、夫婦となればこんな風に不満を感じる暇もないのかもしれない。それに、夫婦になれば、いつでも顔を合わせることになるのだから、今の不満が生まれることもないのだろう。

 それでも、会いたいと思う気持ちから、お糸が不満を募らせていたのは確かだった。


 路地を辿って、大川沿いの道に出ると、川を流れる風が涼しさを運んできた。

 今日のお遣いは、大川沿いに諏訪神社に向かって歩いていく途中にある馴染みの客の家だった。


「お糸ちゃん」

「あら、お小夜さん。こんにちは。お妙さんも、こんにちは」

 お糸を呼び止めたのは、砂糖問屋の娘のお小夜だった。手習い先で顔を合わせることがあって、会えば言葉を交わす仲だ。お糸の針の師匠の旦那さんが長崎刺繍の職人で、お小夜はそこで長崎刺繍の手習いに来ているのだ。そしてお小夜と一緒に居るのは、お小夜の幼馴染のお妙だった。


「ねえ、お糸ちゃん。正吉さん……」

 お糸に話しかけてきたお小夜の袖を、お妙が引く。振り返ったお小夜に、お妙が首を横に振る。少し間があって、お小夜はお糸に向き直った。

「何でんなかよ。今日はお遣いね?」

 どこか取りつくった笑顔を向けたお小夜に、お糸は瞬きをした。

「はい。……正吉さんに、何か用とですか? 良ければ言づけますけど?」

 弾かれたように、お小夜が慌てる。


「何でもなかとよ。ぬっか(暑い)とに、お遣い大変かね」

「本当に」

 後ろにいるお妙も、感心したような声をあげた。

 お糸は肩をすくめる。

「ただのお遣いだけですもん。そがん大変じゃなかとです」

「そうね?」

 お小夜が眉を上げる。


「お糸ちゃん、お遣いのあるとやろう? 日の暮れたらいけんけん、もう行きなっせ」

 お妙の言葉に、お糸は頷く。

「それじゃ、行きますけん」

 お糸は頭を下げると、先を急いだ。


「お小夜さん、なして正吉さんの名前ば言わさったとやろうか?」

 自然と首がかたむく。

 一陣の風が吹き抜けて、お糸は立ち止まる。お糸の着物と風呂敷が大きくはためく。

 幸い風は一度で納まった。お糸は息をつくと、大川の水面に向かって、龍神さまが吹かせた風かもしれない、と一人ごちる。

 着物の裾を直し、手に持つ風呂敷包みを持ち直すと、お糸は川面を眺めながら足を進めた。



 まだ夕暮れには時間があるが、太陽は傾き始め、その色を濃くしていた。

 お遣いに行ったはずのお糸は、帰りも風呂敷包みを抱えていた。

 店で時折顔を合わせる客ではあったが、お糸が挨拶すると、何だかんだと、食べ物を差し出しては、空になった風呂敷に包みなおしてしまった。

 まるで小さな子供のお遣いのようだと思いながら、お糸は大川から曲がると、路地に入る。


「お糸ちゃん」

 お糸は弾かれたように路地脇に顔を向ける。路地脇の家の陰から、正吉が姿を現した。

 お糸は目を見開く。正吉の片頬は腫れていた。

「正吉さん、どがんしたとね」

 お糸が正吉の腫れた頬に手を伸ばそうとすると、正吉に手を抑えられる。そっとした動きだったが、まるで拒むような動作に、お糸は戸惑う。


「お糸ちゃん、ほんなこつ(本当に)申し訳なか。悪かとは、おい()やけん」

 頭を下げる正吉に、お糸は行き場のなくなった手を宙に浮かせたまま止まる。

「正吉さん? なして頭ば下げると?」

 その理由が、お糸には全くわからなかった。

「おじさんには、お糸ちゃんの前にもう二度と顔ば出すな、って言われたとけど……きちんと謝りたかったけん」

 頭を下げたままの正吉の言葉に、お糸は呆然と正吉を見つめる。


「もう二度と、って……どげんしてね? だって……夫婦(めおと)になるとやろう?」

「……お糸ちゃんとは……夫婦にはなれん」

 どさり、とお糸の手にあった風呂敷が、石畳に落ちる。宙に浮いたままだったお糸の手も、力なく落ちる。

「な……なして?」

「ほんなこつ、申し訳なか。言い訳のしようもなか。でも……どうしようもなかとさ」


「どうしようもなかって……でも、私は」

「おいのことは、いくらでも恨んでくれてよかけん」

「正吉さん! 私は!」

 お糸の必死の叫びに反応したて、正吉が顔を上げる。ところが、その眼差しは、以前のようにお糸にまっすぐ伸びては来ない。

「申し訳なか」


「謝られたっちゃ、わからんとよ。なしてね? なして夫婦になれんとね?」

 お糸の目に涙が溜まっていく。

「おいが言える立場じゃなかけど……お糸ちゃんにも幸せになって欲しかと」

 最後にまっすぐお糸を見た正吉は、あっさりと立ち去った。

「なしてね……」

 お糸は唇を噛む。

 わかったことは、もう正吉とは夫婦になれない、ということだけだった。

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