駿河攻め大評定①
永禄11年『1568年』1月 諏訪勝頼
武王丸誕生から二ヶ月、父・信玄から甲府に武王丸誕生の報告へ登城せよと手紙をもらった。妻・雪姫と武王丸を連れて父上に会うつもりだったが、雪姫は出産後身体が思わしくないので、無理させず武王丸と一緒に高遠城に残す事にした。
我が子武王丸は、最近普通の赤子と違う雰囲気を感じられる。武王丸の左右の眼色は違い、見つめる視線には意志を感じる。時々周囲の者達の顔を見つめては、一人一人を観察する様に見つめてくる。泣き声上げるのも他の子より少ないし、泣いたら人の言葉らしきものが混じってる気がする。本当に某の血を引いてるのか、織田家の血がこの先の武田を変えてしまうのか・・・・
「雪姫、長坂釣閑斎、小原丹後守、秋山紀伊守と一緒に甲府へ御館様に武王丸誕生の報告と今年以降の武田家の方針を聞きに行くので甲府へは長く滞在するかもしれん。留守の間は外の事は跡部越中守と向山出雲守に、家の事は太方様と腰元の篠に相談しなさい。あと身体を養生するんだぞ。篠も雪姫の事を頼む。くれぐれも雪姫を大事にせよ。」篠に雪姫の事を守るように命じて愛馬・大鹿毛騎乗した。
「勝頼様も御気を付けてくださいませ。御義父上には武王丸共々よしなにお伝えください。武王丸は御館様や勝頼様と同じ血を引いてますから、何か変わった事をやり始めても良き流れに導くと雪は思います。」雪姫は、あの信長と同族なだけあって、何か新しい時代がやってくる事を予感してるのかもな。
勝頼一行は、上原城の城下町で一泊した後、翌日甲府の町に入った。甲府の町に入る前に、父・信玄の側近である鎮目長四郎惟真が笑顔で出迎えてくれた。躑躅ヶ崎館まで案内してくれる惟真は「若君、高遠よりお疲れでございます。御館様は、明日の評定の前に夕餉を一緒に取りながら、武王丸様の話をしたいとお待ちしております。」と武田家の後継者誕生に喜びが隠し切れないでいた。
「あい分かった。父上は忙しくて中々時間が取れないのに、某の為に貴重な御時間を取ってくださるのはとても有難い。衣を着替えたらすぐ訪ねると御伝えよ。」「承知しました。勝頼様、では後程。」そういうと奥の間に下がったいった。
半時ほどで衣を着替え終えてから使用人に声をかけて、主殿に通された。すると父・信玄が正室の三条夫人を伴って、主殿に入ってきた。勝頼一行は信玄と三条夫人が着座して、声をかけてきた。父は御機嫌な笑顔で語り始めた。「四郎よ、武王丸と雪姫は息災か。雪姫の御身が健やかになり次第、皆を甲府に連れて参りたいと思うぞ。ささ、今夕餉を運ばせるから、食べながら今後の話をしようと思う。」三条夫人は俯き加減に「勝頼殿、武田の嫡孫武王丸殿の御誕生、おめでとうございます・・・・」
機嫌の良い信玄とは真逆に隣に座ってる三条夫人は、昨年嫡男義信が病の為亡くしてるので、周囲の人や勝頼に心を開かず形式的な挨拶しか交わさず信玄の横に無言で座ってた。かといって勝頼に対して妬んだりしてる様子もなく、ただ無常な運命を儚げに思ってる感じであった。
「四郎よ、武王丸は金目銀目だと釣閑斎から報告受けたぞ。武王丸は、どのような才能あるかわからないが、武田の家にとっては慶事も呼ぶかもしれぬな。数年後、武王丸は法泉寺・快岳宗悦和尚を師として頼もうと思う。」
「父上、承知しました。」
「御屋形様、身体が優れぬので勝頼殿には済まないですが、先に下がらせて良いでしょうか。」「わかった、下がるがよい。」
三条夫人がよろめきながらも、父上が介添えして身体を支えてもらった時、にっこり穏やかな微笑を父上と勝頼に向けた後退出していった。その後、仕切り直しとばかりに甲州の政策話を始めた。
「氏真に、昨年8月に今川塩止めされたので、太郎が病死した後今川夫人を駿河に返した。氏真は己が行った行為に気が付いて、慌てて今川夫人を甲斐に戻すからと謝罪してきたが、駿河との同盟は手切れとなった。そこで三河の徳川家康が遠江を欲しがってるので、奴と同盟をしようと思う。同盟締結後国内の稲刈りが終了次第、駿河攻めの陣触れを出すので、勝頼も伊那の兵を率いてもらう。食料弾薬の物資も集積しろ。」
親子の会話から、君臣の会話に切り替わったので、勝頼は態度を改まった。「承知しました、御館様。」
「それと越後の長尾謙信には揚北衆を当てがい、信濃や上野への活動を封じる。夏には揚北衆援護の為に、信濃飯山城を攻める。」
「御屋形様、信濃飯山城を攻めるのを某に任せてください。」「いやならん。四郎には今川と北条が連携して、何するかわからんので、伊那の国境を守備をしろ。」
「はっ、承知しました。しからば、これにて。」勝頼は、父信玄に認めて貰いたくて言い出したが、却下されたので信玄の命を承った。
「明日、大評定にて方針を語るので、今夜は下がって休むがよい。」信玄は勝頼を頼もしそうに見てる表情しながらも甘やかすつもりないと言う感じに話を切り上げた。
躑躅ヶ崎館 大評定
集まった重臣達がまず御館様に全員で挨拶の唱和を行った後、信玄は皆座らせた。
武田家の領内の御親類衆、譜代衆、信濃先方衆、上野先方衆の主だった者がこの評定の為に躑躅ヶ崎館に登城していた。武田の重臣は、皆一国一城の主になれる者ぱかりの優秀な臣下だった。その重臣を前にして、この甲州軍団の総帥武田信玄が彼らを前にして、今回の議題を出す。この大評定を進行するのは、武田家家臣筆頭の馬場美濃守信春が皆の意見を纏めて、最後に御館様に認可の是非を決めてもらう。武田家では、この談合のやり方で武田の方針を決めていた。
馬場美濃守が御館様から事前に聞いた議題を重臣達に発表する。「今回、御館様が皆から知恵を借りたいという議題は、①手切れを迎えた今川に対して、駿河攻め。②敵対する今川・北条の戦力を分散させる為に、松平との対今川同盟を締結。③越後の長尾謙信対策。④二年前の東日本での凶作の影響の対応策。⑤武田領内の経済活動の促進及び商取引の保護。⑥領内の河川の洪水対策及び新田開拓。」
馬場美濃守が改めて重臣達に向かって、駿河攻めのいきさつから話を始める。
「愚君今川氏真は元来臆病者で、父・義元公が桶狭間で織田に打ち取られても報復の軍を出さず、重臣の心が離反していった。特に今川家の一武将だった松平家康に離反され、三河一国が松平勢に制圧されてしまった。さらに愚かな氏真は、二年前の凶作のせいで、各国物資不足で軍事行動が低調にならざる得ないのに、自ら松平勢に決戦挑むでもなく、武田家の援軍を使って松平勢を討伐しようとする浅ましい考え。そして武田家が援軍を出すなら、まず今川家が松平勢と対峙を求める文を送れば、氏真は武田家を敵意し塩止めを行った。そして昨年末、病で義信公がお亡くなりになされた時に氏真は今川夫人を返却を求め、ここに今川家との同盟破棄に相成った。」
宿老の山県三郎兵衛尉昌景が質問してくる。「駿河攻めをする際、相模の北条氏康・氏政親子に今川領分割を提示したのに拒絶されたと聞いておる。北条氏は今川氏を救援出すのではないか。両国を相手取って、我々の犠牲も増大するのは折り込み済みなのか。」
馬場美濃守は、事前に御館様から話を聞いてた。「駿河侵攻には消耗戦は避ける手段を取っている。今川の重臣や国人数十人を離反させる書状を交わしてる。これは全てが御味方になるとは限らぬが、日和見してくれる者が多数出てくる。あと遠江を所望してる松平との領土分割の約定を交わす。」
対越後の最前線を任されてる春日弾正忠虎綱は、今回の駿河攻めの時越後の長尾謙信対策をどういう方針なのかと質問してきた。「越後の長尾家は、数年前関東の関宿城攻めを失敗して以来、関東諸侯の信頼を失った。その後越後勢は戦力回復の為、大きな戦を控えてる。そろそろ兵力が回復して、川中島に乗り込んでくるんじゃないか?」
信濃先方衆の真田弾正忠幸隆から昨年家督相続をした真田左衛門尉信綱が答える。「某が答えまする。かねてから我が父・一徳斎と共に越後の揚北衆本庄繁長に長尾家から独立を示唆しておりました。そして武田家と芦名家が支援してくれるなら独立もやぶさかではないと返答してきました。そこで本庄勢が動いた時に、春日弾正忠殿と内藤修理亮と某には、信濃飯山城と上野沼田城を攻撃して、長尾家の兵力を分散させます。そして揚北衆を駿河攻めの間、謙信を身動き取れなくします。」
内藤修理亮昌豊が、西上野方面の状況を語る。「永禄9年『1566年』に箕輪城を陥落させ、長尾謙信に長野氏救援を失敗させて以来、越後勢は北上野防衛を重視しており、一昨年の凶作もあり関東への出兵の兆候は今の処有りません。西上野先方衆は真田左衛門尉殿と連携して沼田城や岩櫃城の制圧を考えております。」
親族衆で武田領の南を防衛する穴山玄蕃頭信君は駿河方面の話を始める。「皆々方、某は今川家一門衆瀬名氏詮や朝比奈政貞と誼を通じておりまする。彼等は日々氏真を政務を疎かにせぬ様に諫めてりますが、氏真は聞き入れずに公家と遊興に耽むようになり、家臣三浦右衛門佐を寵愛し政務を任せっきりにしております。これらの事から今川家重臣の心が離反し、家中の混乱を鎮めれない状況となっております。仮に甲駿同盟が継続したとしても松平家康に駿河・遠江は奪われる事となりまする。』
ここで信玄が現状の考えを皆に伝えた。「年内に徳川と今川領を分割する盟約を結ぶ。大井川を境にした約定を取り交わす。駿河攻めを順調に行う為に、穴山玄蕃頭には今川家臣受け入れや徳川との取次役をやってもらう。」
「ははっ、承知しました。」
なおも信玄は語り続ける。「あと長尾謙信は油断ならぬ奴なので、石山の顕如上人に越中の一向宗に越後への侵攻を依頼する。春日弾正忠には越中松倉城主椎名康胤を武田に寝返らせよ。元々は椎名康胤は長尾家から長尾景直を養子に貰い越中におけるた。長尾家の越中における旗頭だが、永禄5年9月に武田方の神保長職と争い神通川合戦で大敗し、松倉城下まで神保勢に攻め込まれた。その際に長尾謙信が松倉城に後詰を行い、神保勢を撃破。そのまま居城増山城が謙信に包囲され、能登畠山氏を仲介に神保家は長尾家に服属した。その時、椎名康胤に越中中郡(婦負・射水郡)の支配権を謙信から任されると思っていたが、神通川以西の支配権は神保氏のまま安堵され、長尾家一門の椎名氏には加増されなかった。その謙信が締結した和平の儀が椎名康胤には、内心大変承知しかねる物だった。ここに椎名氏を武田方を迎い入れる余地があるので、今回春日弾正忠が椎名氏へ取次を命じる。」
「はっ、承知しました。」
次は、二年前の日本各地で起きた凶作対策の議題が上がった。永禄8年『1566年』の凶作は、日本全土の大名の領地拡大を止めてしまうぐらいのものだった。目の前の食糧確保の為、盗賊まがいの小さな戦いは各地で起きてるが、年内の駿河侵攻作戦を発動するには、食料物資の確保が必要だったのである。
今副浄閑斎友清は発言を求め、それを信玄が許した。「私案ですが、どこの国も凶作で兵糧を不足しております。そこで商人に明や朝鮮から米を買い付けたらどうでしょうか?買った米は、同盟国の織田殿の熱田港に荷揚げしてもらい、そこから武田領内へ輸送するのはどうでしょうか?今から堺の商人に頼めば、年内に米の購入と輸送は完了出来まする。」
武田逍遥件信廉が発言する。「兄上、そしたら堺の商人との契約を交せる人材が必要ですね。私が思うに我が家中に財のやり取りに明るい者を知っております。その者は大蔵十兵衛長安と言い、猿楽師・大蔵太夫十郎信安の次男でございます。某は父・十郎と日頃から友誼を交しており、その際十郎の二人の息子の事は、よくご存じでおりまする。長男・新之丞は、勇猛で坂東武者の鑑みたいな男ですが、次男・十兵衛は責任感が有り要領が良く、何度も父・十郎と一緒に上方商人の元に訪れてございます。そして今は十郎に命じられて、数年前から大蔵家の資産管理も行っており、財の扱い方も闌けてりまする。」
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