望遠鏡
今回はかれんちゃんと流美加ちゃんのエピソード。前回から日が経っています。
「流美加ちゃん、北極星が見えたよ! 真ん中に入った!」
そう言って天体望遠鏡から離れた花笈 かれんを見て初瀬 流美加は溜め息を吐いた。
異星人の報道の衝撃もそろそろ薄れた六月末の夜、二人の頭上に拡がる空は快晴だ。
彼女たちはかれんの家のベランダで、これから天体観測を始めようとしているところだった。
「かれん、自分で組み立てる気が全然ないのね」
「だってぇ、分かんないんだもん」
「自分の望遠鏡なのに?」
「お兄ちゃんのだよ」
「はあ、仕方がないわね。まあいいわよ。かれんが下手に触って壊すよりはね」
「だよね!」
「だよね!、って自分で言ってどうすんのよ?」
「あはは。もし壊れても流美加ちゃんは弁償しなくていいからね。三〇万円とか高いし」
「げっ、これ三〇万円もするの⁉ 口径三〇センチのシュミカセだから、そんなものかあ。
……かれん、あたしこれ触るの怖くなってきたんだけど?」
望遠鏡の架台(三脚の上に望遠鏡本体である鏡筒を載せる台)を触っていた流美加は少し躊躇ったものの、迷っても仕方がないと思い直して作業を続けた。
天体望遠鏡の架台は『経緯台』と、この『赤道儀』の二種類ある。経緯台は鏡筒をクレーン車や戦車の大砲と同じように水平方向と垂直方向に回転させる。その経緯台を赤道と水平になるように傾けたものが赤道儀だ。こちらは鏡筒を経度方向と緯度方向に回転させることができる。地上から見た星々は北極星を中心に回転しているので、赤道儀は経度方向に鏡筒を動かすだけで星を容易く追跡できる。ただしそのために赤道儀の極軸を北極方向に正確に合わせる必要があり、極軸に内蔵された小型望遠鏡でかれんが北極星を視界の中心に捉えたのだった。
「それにしても大きいわね」
赤道儀の上に鏡筒を固定した流美加はそれを見上げる。この漆黒のプラスチック製の望遠鏡は内口径が三〇センチなので直径(外口径)はそれより一回り大きい。望遠鏡でどれだけ暗い星まで見えるかは内口径の大きさで決まる。個人の天体望遠鏡で三〇センチはかなり大きい部類だ。また『シュミカセ』=『シュミット・カセグレン方式』のこの望遠鏡は内部の二枚の凹面の反射鏡で入口から入ってきた光を三重に折り畳み、鏡筒の長さを焦点距離の三分の一にしている。鏡筒の長さは五〇センチだ。そして脚を伸ばした三脚は流美加の胸の高さまであり、その上に鏡筒を載せた全高は流美加の背丈を越えていた。
「お兄ちゃんが大学の天文サークルで、これでよく観測してるんだけど、この間、お巡りさんの職務質問に遭ったんだよ。山の中にパトカーが何台も来て、すごかったって」
「パトカーが何台も? 何でそこまで大騒ぎになったの?」
「『ロケット砲か?』ってお巡りさんに思われたんだって。お兄ちゃんたちが『違います』って言っても信じてもらえなくて、ケータイでメーカーのサイトの商品写真を見せて、やっと分かってもらえたんだって。その時期って、東京で暴力団のミサイルが発見された時だったから、お巡りさんも神経質だったのかなあ」
「なるほどねえ」
流美加は改めて望遠鏡を眺めた。黒塗りの堂々たる姿はロケット砲に見えなくもない。
「それでね、星って暗いから天体写真は一時間とか二時間とかカメラのシャッター開きっ放しにするでしょ? そこにパトカーのヘッドランプの光がビシバシ入り込んでたんだって」
「さ、最悪すぎる。……」
流美加はかれんの兄たちに同情した。三〇センチの鏡筒から入り込んだパトカーのヘッドランプの光が一点に集まり、デジタル一眼レフのCMOS/CCD(光を感じる部品)に映り込む。一〜二時間掛けた天体写真は真っ白になっていただろう。
「あれ、これなに?」
一通り組み立てたつもりが、まだ部品が余っていることに流美加は気付いた。一メートルほどのケーブルが付いたその箱型のものは有線のリモコンのように見える。流美加は足元の取説を拾い上げてページをめくった。
「うそ、コンピュータ制御で星を自動追尾できるの?」
取説によれば、この望遠鏡は自動追尾対象として各惑星や月を選択すれば、それらを自動的に追跡し視界に収める。そして『天球』を選択すると望遠鏡は夜空の回転(つまり地球の自転)に合わせて動くので、任意の星に望遠鏡を向ければ、その星はずっと視界に入り続ける。
「すごいよこれ。さすが三〇万円するだけのことはあるわ」
感心しながら流美加はリモコンのケーブルを望遠鏡に接続させた。リモコンの電源ボタンを押すとモノクロディスプレイに起動メッセージが現れた。
「できたよ、かれん。じゃあ、どの星を見る?」
「リイェイッカ星!」
流美加の問いにかれんは即答した。
米国政府と接触した貴種天人たちは「ケンタウルス座LHS 311から来た」と騙っていた。一方でヴァルカートワの率いる抵抗組織『真実の剱』は複数のチームに別れて地球の各地に潜入し、欧州では政府関係者とも接触し、真実を話していた。LHS 311が本当はアルタイマトリ聖帝崇国が支配する八二億の星系の一つに過ぎないことを知っている人類は、英仏独の政治家など極一部の人々のみであり、日本ではただ一人、伊佐那 潤だけだった。しかし世間ではLHS 311が貴種天人の故郷の星だと認識され、最近は『リイェイッカ星』と呼ばれるようになっている。
「えっとぉ『LHS 311』は、……あった」
流美加はケータイでフランスのストラスブール天文データセンタのサイトにアクセスし、LHS 311を検索する。天体情報の充実度では世界随一で、(仏語でなく)英語で書かれているが、詳細な説明でなく天体の簡単な情報だけなら英語ができなくても支障はない。
「座標は『RA: 11h 46m 31s』『Dec: -40° 30.01'』かあ」
地上の座標である経度と緯度のように天の座標は赤経《RA》、赤緯《Dec》で表される。ただ赤緯《Dec》が三六〇度の『度数法』なのに対して赤経《RA》は『時角』で、一周が『24時間00分00秒』となる。
「これって座標で入力しなくても星の名前でもいいんだ。あれ? 名前がいっぱいあるわ」
流美加の疑問に、かれんも星のデータベースを覗き込んだ。
『HR 4523, 66 G. Centauri, LHS 311, GJ 442, HD 102365』などが列記されている。
「どれもリイェイッカ星の名前だよ」
あっさりと答えるかれんだが、流美加は納得できない。
「何でこんなに名前があるのよ?」
「色々とあるんだよ。例えば有名な星は独自に名前があって『織姫星』は西洋じゃ『ベガ』でしょ。それに天文学者さんたちはできるだけ多くの星に名前を付けようと『星座名+アルファベット』とか『星座名+数字』とかで命名してるよね。ベガだったら『琴座α星』とか。
でもね、星って簡単な望遠鏡でも、名前が付け切れないくらい、いっぱい見えちゃうんだ」
「まあ、そうね」
「それで天文学者さんたちはみんなそれぞれ独自に星のリストを作ったんだ。星のリスト作り自体が目的のこともあったし、自分の研究用に一部の星だけ名前を付けたりしたんだよ。ヘンリー・ドレイパーさんが作ったリストには『HDなんとか』って名前を付けてるし、ハーバード大学は『HR』だし、グリーゼさんだったら『Gl』、ヒッパルコス宇宙望遠鏡だったら『HIPなんとか』みたいに。連星リストとか変光星リストとか、固有運動の大きい星リストとかあるんだ。でもおんなじ星が色んなリストで名前を付けられちゃったから、こうなってるの」
「ふ〜ん。じゃあ『LHS』って何?」
「さあ、何だろう?」
二人で検索する。
「うっ、英語だ。『Luyten Half Second』、ルイテンの半分の二番?」
「そっかぁ、ルイテンさんの固有運動カタログなんだ」
「かれん⁉ あんた英語できるの? あたし英語は負けてなかったと思ってたんだけど」
「ううん、英語分かんない。でも天文用語だけは分かるもん! ほらここ。『Proper motion』って『固有運動』だよ。太陽系との相対速度、つまり地球から見てどれだけ動いてるか。えっと、『0.5" annually 』……って流美加ちゃん、『アニュアリー』って何?」
「『毎年恒例』とか『一年ごと』よ。でも何で『0.5』の右側だけ『”』?」
「それ、引用の鈎括弧じゃなくて『秒』だよ。角度『°』の三六〇〇分の一」
「なるほど。じゃあ『角度が一年当たり〇.五秒以上動いてる星のリスト』かあ。もしかしてリイェイッカ星ってかなり速く動いてるの? 地球に近付いてきたら面白そう!」
「そう言えば、数万年後に一光年まで近付いてくる星があったと思う」
「数万年後って、あたしの死んだ後なんてどうでもいいわ。リイェイッカ星は数年後とか数ヶ月後とかに地球に来ないの?」
「流美加ちゃん、リイェイッカ星は三〇光年離れているんだから、ほとんど光速に近くても地球に近付くまで三〇年以上かかるよ」
「あっ、そうか。よく考えたらそうよね」
「だいたい、超新星爆発で吹き飛ばされた物体でも光速の一〇%だし。あっ、よく見たら『Radial velocity: +15.3 km/s』、+だから離れてるんだ」
「なんだ、近付いてこないんだ。って秒速一五.三キロメートル⁉ えっと、……時速五万五千キロメートル! かれん、さっきものすごく速い星はないって言わなかった?」
「うん。でも光速の一〇%でも時速一億キロメートルだから、それの二千分の一しかないよ」
「そうなんだ。すごすぎてピンと来ないなあ」
話しながらも流美加はリモコンに『LHS 311』と入力する。表示された座標がLHS 311のものだと確認して『OK』を押すと、鏡筒がゆっくりと動き始めた。
鏡筒の動きが止まってから流美加はファインダを覗き込んだ。『ファインダ』というのは鏡筒の横に付いている小さな望遠鏡だ。天体望遠鏡はかなりの高倍率で星を見ているので、星空のどこを見ているのか把握が難しい。そのため、倍率の低いファインダで予め望遠鏡の見ている場所をある程度見当を付けて周囲の星で確認し、それから本体で向きを微調整する。
つまり天体望遠鏡は本体とファインダの二つの『望遠鏡』が付いている。更に『赤道儀』型は極軸にも望遠鏡があるので、合計三つの『望遠鏡』が備わっていることになる。
ファインダで確認した後、流美加は望遠鏡本体の接眼レンズを覗き込んだ。しばらくして眼を離すと、ケータイに表示されたLHS 311の写真、正確にはLHS 311の周囲の星々を見比べて、望遠鏡が正しく対象を映し出していることを確認した。
「リイェイッカ星が見えたよ」
「ほんと⁉ 見せて見せて‼」
子どものようにはしゃいだかれんと交代する。かれんも望遠鏡を覗き込んだ。
「ほんとだ!」
「でもリイェイッカ星って二連星でしょ? かれんは星が二つ見える?」
「う〜ん、見えないなあ」
かれんはそう言うと望遠鏡から眼を離し、自分のケータイで何かの検索を始めた。
「流美加ちゃん、リイェイッカ星の明るさは分かる? 絶対等級(本来の明るさ)じゃなくて実視等級(地球から見た明るさ)だよ」
「ちょっと待って……えっと、明るい方は四.九等級で、もう一つは一五等級だって」
かれんはアマチュア天文家のサイトで、観測可能な星の明るさの上限を望遠鏡の口径から求める計算式を見ていた。そして電卓アプリを立ち上げる。
「流美加ちゃん、暗い方の星は無理だって。口径三〇〇ミリだったら条件が良くでも最大で一四等級までしか見えないみたい」
「一四等級? 一五等級じゃなくて?」
かれんはもう一度電卓を叩く。
「うん。やっぱり一四等級までだった」
「そっかぁ、じゃあ仕方ないわね」
流美加は苦笑しつつ、かれんと交代して再び望遠鏡を覗いた。そしてさり気なく言った、つもりだった。
「ねえねえ、伊佐那とかこういうの興味なさそうよね。あいつ何でも無関心っぽい、って感じじゃない?」
「そうかなぁ? でも伊佐那くん、お父さんが理科の先生でわたしたち科学部の顧問だし、色々教えてあげたら興味を持つかも知れないよ」
そう言った後、かれんはニヤニヤしながら流美加にグッと顔を近付けた。
「な、なに?」
「流美加ちゃん、わたしのお家に来た時も早速、伊佐那くんの話をしてたし、本日二回目! 最近、伊佐那くんの話が多いよね!」
「えっ⁉」
指摘された流美加は真っ赤になりながら、慌てて言い訳を探す。
「えっと、その、きっ気のせい! そうよ気のせいなのよ!」
「そうかなあ」
「そうよ! きっとそうなのよ!」
「でも流美加ちゃん、譜久盛くんとか猶枝くんの話はしないよね?」
「うっ、偶然! それも偶然だから! かれん、ニヤニヤするの禁止!」
流美加に言われても、かれんはニヤニヤするのを止めない。
「今月は伊佐那くんと席が近くになれて良かったね。でも明日から七月だよ! 席替えでまた伊佐那くんの近くになれたらいいね」
「そ、そんなこと、考えてないわよ!」
「もし、わたしが伊佐那くんの近くになったら、流美加ちゃんの席と交換してあげるね」
「しなくていい!」
大抵のことには動じない流美加も、この件になると普段の余裕も形無しだ。もう、かれんてば、いつもは天然で鈍いくせに、どうしてこういうことだけ鋭いのかしら? と流美加は心の中で嘆いた。
「ちょっとかれん、リイェイッカ星人がニュースに出てるわよ!」
二人がしばらく天体観測をしていると、かれんの母がベランダに来た。
「流美加ちゃんも一緒にテレビを見る?」
かれんの母に訊ねられた流美加はケータイで時刻を見た。午後九時前だ。
「あたしはそろそろ帰ります。家の者が迎えに来ますので」
初瀬 流美加の家は地元の名士で、使用人が数人いる。
「そう? じゃあその人が来たら呼びに来るわね」
かれんの母はベランダから部屋に戻った。それを見送って流美加はかれんの方を見る。
「かれん、そろそろ片付けようか」
「テレビ見た後でいいよお〜」
「あたし先に帰るけど、一人で片付けられる?」
「ううっ、」
かれんは渋々|頷く。二人は片付けを始めた。
伊佐那 潤は今頃何してるんだろう?
流美加はここにいない彼のことを想った。
流美加ちゃんが潤くんのことを想っている頃、潤くんはどうしていたか?
それが次回、語られます。一つのターニングポイントです。