第三幕 きっと私はきらめいて 〜その4〜
翌日は音楽室での練習日。
今日、樺沢はアンコール用のアレンジを用意していることを告げた。
昨日のステージ練習でも、樺沢は何度も演奏を止めた。
制限時間一杯まで、樺沢の指導が続き、結局一度しか一曲を通して合唱できなかった。
疲労が出始めているクラスに、樺沢はさらに無理強いをしているようだった。
「ちょっと前奏だけでも弾いてみてくれる?」
樺沢の指示通り、私は新しいアレンジをした前奏を奏でた。
徐々に響めきが起き始めたところで、私は演奏を止める。
「少し転調した?」
樺沢は私のほうを見つめていた。
特に意識したわけではないけれど、私はひとつ上へ移調していた。
「金賞取ったら、アンコールは、この新しいアレンジでいくから。」
樺沢は高らかに宣言したものの、生徒の反応は今ひとつ。
「まあ、優勝したら、そのとき考えればいいんじゃない。とりあえず、中村と俺が打ち合わせて準備するから、みんなはこのまま練習を続けよう。」
結哉はそう言い放つと、練習を再開した。
樺沢以上に存在感を示したのは、学級委員の拓海や由香里ではなく、音楽少年の結哉だった。
四十人を率いてクラスを統率し始めた結哉の成長を、樺沢は嬉しそうな表情で見守っている。
その様子を、私は音楽室のピアノから、じっと見つめているだけだった。
合唱祭前日は、会場の準備とリハーサルで、一日が費やされた。
二回目のステージ練習に、樺沢ももちろん付き合ったが、今回は何も指示することなく、体育館の真ん中でスコアを見つめているだけだった。
樺沢が立っている脇を、忙しく生徒が行き交い、徐々に椅子が並べられていく。
会場設営の雑踏の中で、結哉を中心に樺沢が指摘していた課題を修正する。
制限時間ぎりぎりまで練習したけれど、都合二回しか全体を通して合唱できなかった。
けれど、やれることはやったような気がした。
一週間前まで、まったく手の施しようがない退廃ムードを一掃して、よくここまで来たと思う。
今年も合唱祭なんて参加するだけと思っていたけれど、気がついてみれば主役の一人に押し出されている自分が居る。
体育館から渡り廊下を通って教室へ戻る途中、職員室前のトイレに教頭先生と樺沢が入っていくのを見かけた。
私は気になって、隣の女子トイレに入って、二人の会話に聞き耳を立てた。
トイレの入口は隣同士で、壁一つ挟んで個室が作られているため、いつも男子がトイレで女子への不満を垂れているのを聞いていた私は、鍵を掛けて隣の会話に聞き入った。
「今年は金賞、いけるんじゃないですか。」
教頭先生の声がトイレに響く。
「どうでしょうかねえ。でも、最強の布陣であることは間違いないです。」
いつもは小声で話す樺沢の声が、壁に反響して張りが出ている。
「それにしても、よく中村さんを担ぎ出しましたね。彼女は、なかなか賢いですから、こういう役は引き受けないと思ったんですがね。」
白を切る教頭先生に、私は背筋が寒くなった。
「いやあ、ずるいですねえ。教頭先生が説得されたんでしょ?中村が教室から出て行ったときは、どうなるかと思いましたけど、しばらくして戻ってきたときには、今日の夕方に配られるはずの楽譜を持ってました。あれは、教頭先生が渡されたんですよね?」
樺沢は、私と教頭先生の間でどんな話があったのか、わかっていた。
「鋭いですねえ。いやあ、感服しました。」
教頭先生の高笑いは、廊下まで響くような音だった。
「中村さん、というより私は、暮葉ちゃんと呼んで可愛がっているんですがね。朝から不機嫌だと彼女はよく私が眺めている体育館の渡り廊下に来るんですよ。彼女は天才肌ですからね、気が乗らないとやらないんですよ。彼女のハートに火をつけるには、彼女の中にある自尊心をくすぐるしかないと思いましてね。実のところ、私も彼女のピアノには興味がありまして、どうしてもやらせてみたかったんです。」
教頭先生は、私を冷静に分析していた。
「中村には、他人の気持ちを揺さぶる音楽センスがあります。それは、私は間違いないと思います。本当に繊細で今にも切れそうな細い旋律を奏でる彼女のセンスは、他には真似ができません。」
樺沢はなにかに取り憑かれたように、自信たっぷりの口ぶりだった。
「彼女は将来、大化けしますよ。私もたくさんの生徒を見てきましたけど、彼女は期待できますよ。自分の世界をしっかり持って、このまま大人になってくれれば、きっと素敵な女性になりますよ。それは私が保証します。じゃあ、明日。期待してますよ。二回目の演奏があると、いいですね。」
水道が勢いよく出る音が辺りに響いて、二人の声はしなくなった。
私はしばらくその場を動けなかった。
初めて他人の自分に対する評価を聞いて、それが当たっていて、とても恥ずかしくなった。
一気に体に疲れが出て、急に体が重くなった気がした。




