第三幕 きっと私はきらめいて 〜その3〜
この日の夜、私は家のピアノの蓋を開けた。
樺沢に言われた宿題に、私の時間は割かれていく。
「ピアノもいいけど、勉強もちゃんとしなきゃね。」
練習する私の横に来て、母は嫌味たらしくならない精一杯の小言を言い去っていった。
前奏に少し音を足して、後奏ではそれを繰り返すことにした。
受験勉強もあるし、そんなに練習に時間を割いてはいられない。
もらった五線譜に音符を鉛筆で書き込むと、それを何度か弾いてみる。
それを何度も繰り返して、なんとか聞いても遜色ない音になったところで、今日のところは切り上げた。
これをしたから、特別に評価されるわけでもない。
こんなことをしたいために、ピアノのレッスンを受けてきたわけでもない。
ただの幼少時代の暇つぶし程度だったはずが、いつしか私の一芸一能になっていた。
それを評価する人が現れて、それを利用したい人がいる。
私は、そんな他人の都合に振り回されて、このまま流されていくのかと思うと、とても情けない気がした。
ベッドの上で目を閉じてみても、落ち着かない感じがして、横になったり、起きてベッドに腰掛けてみたり、自分のやっていることが、私自身で理解できなくなってきていた。
連日、午後から練習漬けの毎日になった。
徐々に他のクラスも合唱が完成しつつある。
体育館でのリハーサルの日程が決まり、各クラスに二回の練習時間が用意された。
前のクラスが練習を始める時刻になったら、体育館に入って回ってくる順番をステージの下で待つ。
その間、前のクラスが練習している様子をつぶさに観察できるけど、その分自分のクラスも次のクラスから鑑賞されることになる。
今日はその練習日に当たっている。
合唱祭を目前に最終調整の時が来ている。
こんなに緊張感があるステージ練習は初めてだった。
入学以来、二年続けて適当に合唱祭に参加するだけ。
ステージ練習も、時間一杯まで練習するクラスがほとんどなのに、私が居るクラスはいつも、時間を何分も余して終了。
生徒は適当に時間になったら現れて、そのまま思い思いの場所へ散っていく。
それが今年は初めて一緒に集合して、ステージに上がろうとしていた。
いよいよ時間になり、私はピアノを前に椅子に座った。
制服の袖を肘まで上げる。
両手を握って開くと、口の前で手を合わせた。
鍵盤に置いた指から冷たさが浸透する。
指揮台が軋む音がした。
一段高くなっている指揮台にゆっくりと上がった結哉見ると、生徒の背中でよく見えない。
私は、少しずつ生徒にずれてもらい、結哉への視界を確保すると、結哉が大きく手を振り出した。
初めてのステージ練習が始まった。
樺沢がステージの真下で、スコアを片手に拍子を取る様子が、指揮台の脇に垣間見える。
普通のステージ練習は、音楽教師が付き添うのが通例なのに、なぜか私のクラスは担任の樺沢が練習を仕切っていた。
スケジュール管理から指導まで、音楽教師を締め出して、自分で仕切る樺沢の熱意は、確かに私も感じている。
昨夜までの不信感は、ようやく私の中で整理されようとしていた。
「とりあえず、この人がやる気になっているから、協力してやるか。」
私は心の中で自分に言い聞かせた。




