第三幕 きっと私はきらめいて 〜その2〜
家に帰ると、私は母に合唱祭で伴奏することを伝えたが、母はいい顔をしなかった。
「まあ暮葉がやりたいなら反対しないけど、受験は大丈夫なの?練習しなきゃいけないし、それに貴方は、レッスンをもう半年も休んでてブランクがあるでしょ?」
母は、心配の言葉を続けざまに言い放った。
「仕方ないから、やることにした。教頭にも、担任にもお願いされたら、断れないから。」
そう私が言うと、母は大きく息をついた。
夕食の時間になり、父が帰ってくると、同じような反応だった。
「暮葉が学校行事に一生懸命になるなんて珍しいな。なんか心境の変化でもあったか?」
晩酌を楽しむ父は、さらに何かを言いたそうな表情をしていた。
それを見透かした私は先に言おうとした瞬間、母は私の言葉を遮った。
「まあ、拓海君にいいところを見せたいのはわかるけどね。せっかく仲直りしたわけだしね。」
「そんなんじゃないよ。」
すべて言われてしまった私は、早々にご飯を食べ終わると、部屋に戻った。
翌日になっても、淡々と音合わせをする時間が続いた。
樺沢は、なかなか一曲を通して歌わせない。
私が聞いている限り、そんなに大きくピッチを外しているところはない。
確かに、よく聞けば半音外している箇所が数箇所あるけれど、それほど致命的なものではない。
ほぼ譜面を確実に音に起こすことには成功しつつある。
だから、このまま歌い込んでいけば、ゴールには到達しそうな予感がする。
これは私の予感だけど、樺沢は何かを待っているような気がした。
このクラスの中で、今までにないような化学反応が起きることを期待して、樺沢は無理して上から重石をしている。
募る不信感と、求める期待感が正面から激突して、一触即発とはこういうことを言うのだろうか。
夕暮れを迎えて、ようやく今日が終わりを告げる。
帰る生徒の足取りは重い。
満たされない欲求と、求める達成感とのギャップに、それぞれ苦しんでいるような気がした。
「ねえ、なんで樺沢はあんなに厳しいの?」
由香里は帰ろうとする私の背中を捕まえた。
「まあ、樺沢にもなにか思うところがあるんでしょ。それが、なんなのかは、わからないけど。」
私も諦めたような口調で言った。
由香里と二人廊下を歩いて帰る足取りは、私も確かに重かった。
職員室の前を通り過ぎようとしたとき、樺沢が慌てて飛び出してきた。
「中村さん、ちょっといいかな。」
呼び止められた私は、由香里を外に待たせたまま、職員室の中に連れ込まれた。
職員室の片隅にある衝立の奥の黒いソファに座らされ、今にも進路指導が始まりそうな状況。
テーブルを挟んで座った樺沢は、真っ新な五線譜を私の前に置いた。
「これはまだ秘密にしておいてもらいたいんだけど、ちょっと伴奏をアレンジしてもらおうと思ってね。毎年、金賞を取ったクラスは、アンコールでもう一回演奏するのを知ってるよね。そのアンコール用に、前奏と後奏の部分に、自分なりでいいから、音を加えてもらいたいんだけど、中村さんならできるよね?」
私は何も音が入っていない五線譜を手にとって眺めた。
「でも、それは金賞でなければ、演奏されることはないわけですよね。」
樺沢は黙って頷いた。
「それでもいいから、これは最終盤で必ず練習はする。それがモチベーションになるから。だから、とりあえず黙っていてくれないか?」
「わかりました。用意しておけばいいんですね。」
そう言うと私は席を立った。
「ちょっと待って。」
樺沢は私を引き止めた。
譜面を手に持ったまま、衝立を越えようとした私に、譜面をカバンに入れるよう指示した。
「お願い、頼むよ。」
樺沢は座ったまま、私を真っ直ぐ見上げていた。
ただ、その目は私を見ているというより、私のずっと背後に飾られた金賞の小さなトロフィーを見ていたのかもしれない。
廊下に出ると、壁に寄りかかって由香里が待っていた。
「ねえ、何言われたの?」
私はとりあえず秘密を守ることにした。
「これからも頑張ってくれ、だって。」
つまらなそうな由香里と、私はすっかり日が暮れた玄関を出て行った。




