極私的俳句論 その16 推敲の是非とは?
俳句は、できたなら、そのままにせず
「舌頭に千転せよ」 芭蕉
という。
確かに芭蕉は推敲の名手?でもあった。
あれらの名句は彼の推敲の苦闘の跡でもあるのだ、
「山路来てなにやらゆかし菫草」
「くたびれて宿借るころや藤の花」
いずれも原句はこうではなかった。
それを遂行に推敲を重ねて、、この句に至ったのだ、。
我々においても
俳句はぱっと浮かんできて瞬時にできることもあるし、
いろいろ悩んでやっと体を成す、、という句もあるし、、
まあ、いろいろだろう。
いずれにしても
そのできた句を、しばらくしたら
もう一度
他人の眼で、、読んでみることだけは必要であろう。
作ってる時は夢中で、これが最高な句、、と思っても、
1週間してそれを、読んでみたら
案外。凡句だったということも多々あるはず。
そこでまあ醒めた目で、自分の句を見つめなおす作業も必要だということですね。
とはいえ
「俳諧は三尺の童にさせよ」 芭蕉
とも言っている。
自然に、、無作為に、、詠われたものが最高という謂いだろうか。
まあ童子のように、無為自然に俳句が作れたら
それが最高の境地でしょうけどね。
でもそんな
俳句仙人みたいな?境地には程遠い
我らは
やはり
見直し、、、
推敲、、、、
という作業は必須でしょう。
といって?あまりにも
凝りすぎて?
変に、いじ繰り回しすぎて、
最初新鮮な気分で作ったときの、その句の良かったイメージを
ぶっ壊すことだけは注意してね。
まあ
こういってはなんですが、
あまりいじくりまわさないで
最初のできたままのほうが
案外
良かったりして、
という場合のほうが多いような気がしますけどね。
芭蕉ほどの俳聖になれば
推敲すればするほど
磨かれて
良くなるのでしょうが
我ら
凡人の作句は
まあ
第一印象のインスピレーションでできたときが
結局一番良かったという
結論だったりすることのほうが多いような気がしますね。
まあ
俳句は第一印象(初心)を大切に、、
ということでしょうか?
私の経験でもあんまり
出来た句を
いろいろ、いじくりまわしてみても
結局
最後は
ぐちゃぐちゃになってしまって
なあんだ、こんなら、最初のままのほうが良かった、、
という
経験のほうが多いですけどね。
まあ、要は
くっつきすぎず
離れすぎず、
という
絶妙な、塩加減?なのでしょうかね_?