オレンジ色の頬
瞬くと、ベッドの傍らで居眠りをする母の姿があった。
病院の窓外はすでに夕闇が降り、光を失った室内は急激に熱を奪われていった。
【かあさん、そんなところで寝たら風邪ひくよ】
私はそう言ったつもりだったが、声は喉を揺らさず、耳にも届かなかった。
やはりまだ聞こえていないし、声も出せないらしい。
頭では考えられても、口が動くだけで声は発せられない。
先週遭った事故の後遺症で、私は検査入院を余儀なくされていた。
リアバンパーが大破する接触事故だったにもかかわらず運転者の父は軽傷で済んだ。
私も軽いムチウチ程度で済んだのは幸いだったが、医者が言うには、私は目には見えない傷を心に負ってしまったらしく、今はしばらく静養が必要なのだとか。
とにかく、何も聞こえず何も言えないままでは確かに高校なんて行けたものではない。
サイドボードに山積みされたテキスト類を見て、私は溜め息をつく。
勉強は病院でもできるだろう、と父は言う。
じゃあ、勉強が遅れなければ、学校なんていかなくていいの?
そんなことはない。
勉強をするだけが学校の役割ではないはずだ。
私は高校に行きたい。
行きたくて行きたくて仕方ないのだ。
傍にあったカーディガンを肩にかけてやろうとすると、母は目を覚ました。
こちらににっこりと笑いかけ、なにやら言葉を投げかけてくる。
私はひどくやさしいその顔に隠しきれない疲れを見つけ、それがきっと自分のせいなのだと思うと居たたまれなくなった。
だから母の動く唇を見るのが苦痛で、私は毛布を頭からかぶる。
もう何も聞きたくない。
何も言いたくない。
このまま私は消えてなくなっちゃえばいいんだ。
そんなことさえ思う。
でも、毛布の上から背中を摩ってくれる母の顔を思い浮かべると、声無き声を出して泣かずにはいられなかった。
私の病院での一日は病的に規則正しいものだった。
朝起きて朝食を食べ、日中は主に勉強をし、飽きたらサイレントショーのテレビを観たり小説を読んだりして時間を潰し、消灯の時間と共に眠る。
散歩には、屋上に風に当たりに行く位であまり出なかった。
夜、眠れずに窓の外をうかがうと、時折、カーテン越しに車のヘッドライトが映し出され、それが私を怯えさせた。
面会時間には両親の他に、毎日見舞い客が訪れた。
始めは担任の住谷先生。
次の日にはクラスを代表した男女四人。
その日の夕方、親友の沙理が一人で。
彼女は私の耳と口が不自由だと分かると、ひとしきり笑った後、一冊の可愛いノートをバッグから取り出した。
【正太郎、来た?】
沙理の走らせたペンが記したのはそんな言葉だった。
私が首を振ると、彼女は首をかしげ、またなにやら書き出した。
【おかしいわね。あんなに心配してたのに】
【そんなに心配してた?】
【ええ、口には出してないけど、あれは相当だったわよ】
文字を読んだ後、顔を上げると沙理は意地悪げに微笑んでいた。
【うそでしょ?】
私はそんな走り書きを突きつけるが、彼女は肩を竦めて見せるだけだった。
沙理は私が正太郎ちゃんを好きなことを知っている。
彼もどうやら私のことを好きでいてくれていることも。
二人をからかいつつも見守ってくれていることを知っている彼女に私は歯が立たないのだ。
【たぶん、みんなが来そうにない時を狙って来るよ、あの子】
その文字を読んで、私は病院の屋上のベンチに座る二人を想像する。
洗濯物がはためく中、二人は微妙に距離を置いて腰掛ける。
きっと、何も喋らないで空を見たり、俯いてコンクリートタイルの継ぎ目を視線でなぞったりするのだろう。
【きっと来てくれないよ。正太郎ちゃんは私が学校に来るのを待つと思う】
でも、来てくれると嬉しいな。
ノートに自分の気持ちとは裏腹なことを書いてしまう。
彼は私に会いに来てくれるだろうか。
【ま、いつ来てもいいようにしとくんだね】
沙理は意地悪な笑みを浮かべたあと、病室の窓外を眺めた。
くだらないことを、気を使わず言える友達。
耳が聞こえないとか、声が出せないとか、そんなことを忘れさせてくれる沙理に、私は感謝した。
次の日の夕方、病室のベッドで両親と三人で医師の説明を受けた。
私の今後のことがそこで話し合われた。
日常生活は恙なくこなせるほどには回復しているが、聴力が戻らない以上、その原因が身体にあるかは調べる必要がある。
事故の後遺症は忘れた頃に出てくることもあるのだと医師はいい、今しばらくの検査入院を勧めた。
両親はその提案を了承したが、私は納得がいかなかった。
病院は健常者が朝から晩まで過ごす場所ではないことを嫌というほど味わってきたから。
私は自宅で経過を観察するという選択肢に強く支持した。
【お家に帰りたい】
殴り書きしたメモに、ペンを何度も打ち付けて訴えた。
でも、過保護な両親は私の希望を受け入れてくれなかった。
心配しているからこそだとは分かっていた。
私は一刻も早く普通の生活に戻りたくて、それが叶わないことに憤った。
私は病室を飛び出した。
無音のまま、胸が上下して息が苦しくなっても私は走り続けた。
廊下を駆け抜けるときも、階段を上るときも、ドアを乱暴に開けたときも、何も私の耳を震わす音はなかった。
屋上に出ると、風を頬で感じた。
それなのに風切り音は聞こえない。
叫びだしたくなる心持ち。
でも、自分にその声が聞き取れないのだと考えると、吸い込んだ息を力なく吐き出してしまった。
目の前には洗濯物が取り込まれて寂しく佇んでいる物干し竿が並んでいた。
その向こうに、輪郭をしっかり保った春の夕日が沈むのが見えた。
私は肩を落として物干し竿の間にある草臥れたベンチに腰掛けた。
夕日は、いつ見ても綺麗だな。
そのオレンジ色に頬が染められて、どこか暖かみさえ感じた。
正太郎ちゃんみたいな光だな。
そう思うと、頬が一層温かくなるのを感じた。
早く会いたい。
会いたいな。
そう思うとまた泣けてきた。
音のない鼻水をすすっていると、ベンチが振動したのが分かった。
びっくりして振り向くと、そこには正太郎ちゃんが座っていた。
昨日、沙里と話していたときに想像したとおりの座り方を彼はした。
恥ずかしいのだろう、遠くを眺めている風をして顔を背けている彼がいた。
それを見るだけで、さっきまで頑なだった心が綻んでいく気がした。
どうしよう。
私は我に帰るとまず焦った。
ノートもペンも、病室に置いてきてしまった。
今、正太郎ちゃんが何か語りかけてくれたとしても、私には聞き取れないだろう。
そう思ったあとすぐに、私は少し可笑しくなった。
きっと彼は、特に多くを語ろうとはしないだろう。
きっと、私のそばに腰掛けて、優しく微笑みかけてくれるだけだろう。
そんな確信があったから。
こちらを向こうともしないオレンジ色の頬に、私は温められていると感じた。
恥ずかしくて長くは見ていられないけど、大人になる途中の独特な艶をもった若い肌に反射する夕陽が、私の心をポカポカにしていく。
見蕩れていると、不意に彼はこちらを向いて、何かを口にした。
夕日の影になって口元が見えず、私は思わず彼に近づいた。
彼は一瞬うろたえたが、もう一度はっきり口を開いた。
『好き』
私にはそう見て取れた。
【好き?】
思わず重ねて自分の口が動いた。
彼はそれを見てひとつ、強く頷いた。
『好き』
彼の唇をもう一度確かめると、私の心は一気に高鳴った。
正太郎ちゃんが好きって言った?
私のこと?
好きって言ってくれてるの?
動転した心臓が私の体の中で暴れているのがわかる。
どっどっど。
ドッドッド。
心が締め付けられる。
【もう一回】
私は人差し指を立てて、彼にもう一度その言葉を口にして欲しいと合図した。
好きって声が聞きたい。
正太郎ちゃんの声が聞きたい。
正太郎ちゃんに、好きって言ってもらいたい。
【好き】
私は鼓動に押し出されたようにそう口にする。
「好き」
その言葉が聞こえた瞬間、夕日が頬を焼く音が聞こえた気がした。
世界に掛けられたモヤが一瞬にして晴れた。
一瞬で物干し竿を揺らす風切り音や、遠くで歩く雑踏、空が出す音にならない無音の大音量が耳に飛び込んできた。
「好き、私も」
そう告げると、彼は一瞬驚いた顔をしたあと、優しく頷いてくれた。