大野道賢の火あぶりのこと
大野修理亮治長、大野主馬首治房の弟で、大野壱岐守治純の兄として知られる大野道犬斎治胤。
大坂の陣のときに活躍した武将です。
「葉隠」では大野道賢として紹介されています。その大野道賢が、大坂夏の陣で家康に生け捕りにされ、火あぶりにされるいきさつと、その処刑時に起きて、現代まで語り継がれてきた変事とは?
葉隠に紹介される話をもとに小説化しました。
死なんとする時一太刀なりとも報いたしという執念はどう実るのか?
大野 治胤は、戦国の武将で豊臣氏の家臣。道犬斎の号で知られ、大野道犬斎治胤とも云うが、「葉隠」には道賢とある。この物語では、大野道賢として語ろう。
時は、慶長十九年というから、西暦で言うと千六百十四年。大坂冬の陣での出来事である。
大野道賢は、その冬の陣で、豊臣家の水軍の主力を、天満川と木津川の合流点付近に停泊させた。
その合流地点に面した野田・福島地区西南端、新家に船倉を築き、上福島の守備に陸兵二千五百を置く。さらに下福島の五分一に三重の柵と櫓を造り、そこに自ら指揮をする守備兵八百を配置し、合わせて三千余の兵で、徳川水軍を待ち受けていた。
すると夜に入ると大雨が降り出してきた。
機会到来と東軍方の九鬼守隆、小浜光隆、千賀信親、向井忠勝らが、その兵を集中させて下福島の五分一、大野道賢指揮の八百に急襲をかけて来た。兵は二千ほどであろうか。
急襲を受けた西軍方、大野道賢率いる兵八百は、応戦しつつ援軍、二千五百、を呼ぼうにも、大雨が酷くなり、すぐ横にいる味方にすら変事を気付いてもらえず、また敵襲、敵襲と叫ぶ声も伝わらない。
孤軍奮闘で連携が取れない中、やがて恐慌を来し崩れ去る、砦の兵が崩れ去ると、崩壊の連鎖は続き、三千余の兵は、軍勢の態を為さぬまま天満方面へバラバラと個々に逃げ去ってしまう。
その翌日未明、東軍方、池田忠雄、戸川達安は、既に戦闘が始まっていたことも、終わっていたことも知らずに、遅れて攻撃にかかったが、既に敵が逃げた後で、柵と櫓の中はもぬけの殻と気づく。
大雨で東軍方も攻撃の連携が取れなかったのだ。
東軍方の池田忠雄、戸川達安勢は、戦うことなく上福島の砦まで進出、付近を放火し、そこに陣取ったので、豊臣家の水軍は、天満川と木津川の合流点付近から、空手で引き上げるしかなかった。
大雨は、偶然にも西軍に仇をなし、東軍を利した。
そのため、大野道賢は、敵襲を受けて、何もできずに逃げただけという評判が立つ。それ以降「橙武者」と嘲られておった。さぞや悔しかったであろう。
橙は、酸っぱくて食べられぬが、飾り餅の上に置く。そんな見栄えだけは良い橙に例えられたのだ。なおさらである。
この年の、大坂冬の陣は和議と決した。その条件は大阪城の惣濠、つまり「外堀」を埋めるということだった。
家康公は、その約束をするとすぐに駿府城へ帰られた。
その後、家康は、知らぬ顔で、惣濠を総濠とすり替えて、堀と言う堀を埋めてしまう命令を出す。
少し説明をしよう、この和議に「惣濠」とあるのは「総濠」とも書くことがある。だが、惣は、城や砦の外郭を堀や土塁で囲む防衛構造のことであり、惣塀あるいは惣囲いと使えば、戦国時代から近世にかけての武将たちが「城郭の外側だけでなく城下をも含む外側の防衛線のこと」として用いた共通語である。つまり、惣は構造物の一番外側の部分を指す文字なのだ。
現代語では「惣」は「総」に置き換えられると辞書でも説明されているが、けだし、家康公の悪意の読み替えを260年の長きにわたって指摘を憚って来たために起因する事象であるに違いない。
さて、その家康の命令、惣濠を総濠とすり替えて、堀と言う堀を埋めてしまう命令は、和議が批准されるや否や実行される。なんとどこから湧いて来たのか、黒鍬衆十万を使って、たちまちのうちに大阪城の堀という堀は全てことごとく埋められてしまった。
大阪方の楽観的思惑ははずれ、家康の戦略的謀略は事前準備も万端整った末に実行された。そう推察されるのである。
秀頼公の側近中の側近、修理亮治長の弟である大野道賢は、このありさまを見て、
「家康には、全く和議の気持ちなどなかろう。きっと来年には和議を破り、大阪へ攻め込んで来るであろうよ。お味方の歴々が、家康の奸謀に気付かず、天下の要害をみすみす失ってしまった。秀頼公は、城を枕に最後まで戦う覚悟をしておられたのに、まことに残念なことよ。
兄上ら、城中の御女中らに諂っていた賢しら顔の面々が、阿呆面を曝して吠える、喚く、歯噛みして
『おのれ家康、非道なり』
『騙し討ちとは卑怯なり』
と悔しがっておる。
こんなのはまだましなほうだ。
この期に及んで
『律義者の家康公が約定を勘違いしておられる。誰か行って、内堀を元に戻してくれるように頼むように』
などと言う者がいるのだから、阿呆は始末に負えん」
多少でも、武士としての意地や面目を持つものは、呪いの言葉より行動だ。間に合うかどうか、役に立つかどうか、埋められた堀の上に少しでもと塀や壁を建て始めた。
役立たずの橙武者と悪口された大野道賢にも意地と知恵がある。
「家康めが、城内の士気を下げるためなら、何でもやりおる。調略、流言飛語、懐柔、女衆への懐柔策は芸術やもしれぬな。橙武者もあの者の息がかかった忍びが広げた悪口であろうよ」
そのように、大阪方陣内で無能扱いされるように悪口を仕向けられた大野道賢が
「律義者を装う、こ狡い、利口者の家康なら来年の攻撃時には堺の町に軍勢を入れ、伏勢として用いるに違いない。こうなっては仕方なし、堺衆には気の毒だが、手当のできるうちに堺の町を焼き払っておくべきだろう」
と、あらかじめ大阪方の武将に計ると、その計略は武将らに「なるほど、その通り」と異論なく受け入れられた。家康公の謀、橙武者の悪評、は効果が無かったのである。
それで大阪方は、家康公の軍勢が来る直前に、風向きの良い日を選んで堺の町に放火したと伝えられる。
それが「道賢の付け火」だとして、いつしか人々が言い出した。それも、焼き払われた堺だけでなく大阪、近畿に広く伝わった。
「堺、住吉方面に向かった武将が、誰であるかを知ってからの流言であろう。家康め、さほどに俺が憎いか」
やがて、それが家康公の耳に入ったので、こんなお触れが出たという流言がまことしやかに伝わる。
なんでもな、聞くところによると、
「道賢め、わが胸中を読むとは憎んでも憎み切れぬ奴よ。今度の戦の戦功は一に大野道賢を生け捕りにした者ぞ。そう、全軍に触れを出せ!」
と家康公が言ったそうな。
それでな、東軍の諸大名の皆々が、これが手柄を立てる最後の機会と息巻いて、道賢一人を目掛けて取り巻いたそうな・・・。
それでも大野道賢は捕まらず、取り巻いた東軍勢の諸大名相手に比類なき戦いをして、大坂城落城後に、やっと京近くで捕らえられた。
生け捕りを聞いた家康公は、
「白州に引き出せ」
と命令すると、公もただちに出座されて、激しい詰問口調で言う
「お前は天下に名をあげた武士と聞くが、いま生きたまま捕らえられ、千筋の縄をかけられ、諸大名の前に恥を曝している。さぞ、面目なしと思っておることであろう」
道賢は、首をうなだれていたが、その言葉を聞くと、きっと首を上げ、くわっと目をむき
「こちらは、そのほうを、縄目の恥に曝してやろうと思っていたが、武運が尽きれば致し方が無い。合戦で生け捕りになるは、古今の勇士にも例の有ること。なんで恥に思うことがあろうか。それより、そのようなケチな本心を披歴するようでは、その方の天下も心許ないものよ。ほんに大たわけとはそのほうのことぞ」
と大口を叩く。
家康公、憎さのあまり、言葉も出ない。
その時堺の町人が進み出て、
「この者の火付けで、私ども堺衆の難儀はこのうえないものになってございまする。焼け野原となった堺で、じりじり火にあぶってやろうと心づもりをしておりますれば、どうぞ堺の町衆に身柄をお引渡し下さるようお願い申し上げまする」
と訴えが出された。
家康公はそれを許し、
「あたうるかぎり、苦しませてやるがよいぞ」
と身柄を引き渡したそうな。
やがて、火あぶりのとき
刑の見分役として家康公から遣わされた検視の役人が
「公の仰せである」
として、遠くからあぶって苦しみを長引かせようと、道賢に鉄の首輪をはめ、鎖で柱に繋ぎ、柱から一間離して周囲に柴や薪を三尺ほど積み上げた。
そして風上から火を点ける。
道賢の手足や身体は縛られていない。
火が燃え広がるにつれて、他の者なら耐え難い熱のために狂ったように柱の周りを駆け回り、やがて力尽きて絶命するのだ。
しかし、道賢は両足で最後まで立ち続け、くわっと目を見開いたまま、首をもたげ、ピクリとも動かず、そのままの姿勢で真っ黒になって焼け死んだ・・・。
火が消え、炭を取り除いて、検視の役人が死体の見分のために近づくと・・・、
真っ黒な炭の塊になった大野道賢が、突然、検視の役人に飛び掛かり、その脇差を抜き取ると、役人の鳩尾を一突きし、
「武士の意地。確と見届けたるか!」
と言って、ぐりぐりっ、ぐりぐりっと抉る。
やがて、役人が倒れ、絶命するのを見て、ふっと、満足の笑みを浮かべたような道賢の顔が崩れた。
と、たちまちのうちに全身が灰と化し、大野道賢だったものは、風に吹かれて消えたという。
(了)
2026/08/12 午前中に文章の繋がりを手直ししました。もちろんストーリーに変更はありません。
なお、大野道賢斎治胤の火あぶりは家康の処断ではなく、京都所司代の板倉勝重が身柄を扱ったという話のなかでは、堺の町衆が、かつて平重衡が南都を焼き討ちした際、南都衆に引き渡された例を挙げて、京都所司代の板倉勝重に訴え、板倉勝重は堺衆の訴えを認め、大野治胤を引き渡した結果、治胤は慶長20年6月27日に堺において火あぶりの刑に処されたという。
しかし、その残虐な処刑方法を事後に知った勝重は、「南都の者たちも重衡に同じことをしてたのか?」と堺衆の過剰な報復を叱責したという。
その話も家康公と幕府が責任逃れをしようとした宣伝工作かも知れませんね。そう受け取ってもらえたらこの小説の大野道賢も満足することでしょう。




