プロローグ-2
惚けている少女の前に、手が差し出された。
その持ち主は、言わずもがな、見目麗しい天上人の如き御仁だ。
……触れていいものだろうか。
少女が躊躇ってしまうのも、致し方ない。
触れれば消えてしまいそうだと思わせる。
目の前にいるのに、実在しているのか確信が持てない。
そんな陰を幼心に感じさせる、儚い泡沫のような存在なのだから。
手を取ろうとしない少女に、男性か女性かすらも判断出来ないその人は、首を傾げる。
しかし小さく一言「あぁ……」と一人納得して、少女と距離をとった。
何か気付かないうちに、粗相をしてしまったのだろうか。
先程までの、生死の堺を走っていた時とは違う絶望が胸を占める。
そんな少女に「目を閉じて、息を止めて」とたおやかな、しかし反論を許さないような強さを、本能的に感じられる声で命じられた。
わけも分からないが、脅威が去った今、拒否をする理由はない。
言われるがままに、目をギュッと閉じ、鼻と口を塞いだ。
その瞬間、温かい水に濡れる感覚が少女の全身を支配した。
驚いて目を開けば、涙が滲んだ時のように、視界が歪んで見える。
つい声を上げようとして、水を飲んでしまう。
鼻の奥の痛みを感じる頃には、全身を覆っていた水は、影も形も残っていない。
痛みさえなければ、立ったまま夢でも見ていたのかと思うくらいの、短い時間だった。
夢から醒めたせいか、足の痛みを思い出す。
素足とはいえ、なぜこんなにも染みるのだろう。
そんなに酷い怪我なのだろうか。
途端に現実と向き合うこととなる。
わけも分からないが、助かった。
けれど肝心の、角骸鯨の角は手に入らなかった。
摘んだ薬草も、それを入れていた籠すら、逃げている途中で手放してしまった。
しかも怪我を負った足手まといとなれば、村の共有財産を無くした罪も重なり、追い出されてしまうだろう。
両親の病気も治せず、近い未来に待ち受けている自分への絶望的な仕打ちを想像し、また涙を滲ませた。
白粉を塗ったように白く透き通った肌をしたその人は、その様子を見て勘違いした。
そして少女の足を見て、ようやく靴を履いていないことに気が付いた。
「その足じゃ、イヤだよな。
もう一回洗うから、失礼するよ」
言っておとぎ話に出てくるお姫様のような格好に、少女を抱き上げた。
意外と力が強い!
確かに角骸鯨を放ってはいたけれど、下半身だけだし、それ程重くはなかったのだろうと思っていたのに!
興奮した少女は、この方に触れてはなるまいと思っていた思考を、一瞬だが忘れてしまった。
軽々と持ち上げられ、体勢を安定させるため、つい手を自分を抱き上げた相手の胸についてしまう。
そして少女は、固まった。
これだけ見目麗しく華奢に見えるのに、この人、男の人だ……っ!
触れても消えないことに安堵する間もなく、衝撃が脳内を支配する。
先程と同様、あっという間に足が温かい湯に包まれ洗われたことも、怪我を治され痛みが癒えたことすら、気に止める余裕もなかった。
当然、今に至るまで礼すら言えていない。
その事実に少女が気付く前に、この場に新たな人物が登場した。
「……お前、さっさと先に行くなよ」
不機嫌そうな声で木々の間から姿を表したのは、スラッとした長身の、尻下がりな目をした男性だ。
こちらも好みこそ別れるだろうが、整った顔をしている。
狭い額は理知的で、すうと長く通った鼻梁は高い。
決して掘りが深いとは言えない面長な顔立ちだが、愛嬌を感じさせる親しみやすさがあった。
気難しそうに、キュッと眉間の間に刻まれた縦シワが、それを無意味なものにしているが。
一つに結ばれた髪は長く、片手には豪華な杖を持っており、一目で精霊術師だと判る。
術師らしい軽装で、しかし大きな霊玉が所々にはめ込まれているのを見るに、かなりの実力者と思われる。
もしくはよほど金銭的に恵まれた、富豪なのだろうと予測できる。
粒が大きく透明度の高い霊玉は、強い魔物からしか採取できない。
つまり実力で獲得したか、金にものを言わせて買ったかのどちらかしか、所有する方法がないのだ。
恐らく前者だろうと、少女はすぐに判断した。
外套を縁取る金と銀に光る糸で施された刺繍は、精霊術を強化させるための術式が刻まれている。
よくよく見れば、霊玉が納められている石座や、それを留める爪にも刻印されている。
全てを外注すれば、家どころか村や町程度なら余裕で買えてしまうくらいの金額になる。
しかも霊玉を含めた装備品は、消耗品と言ってもいい。
そんなお金を定期的に出せるのは、よほど大きな領土を治めている貴族か、王様くらいなものだろう。
ならば自分で作ったと考えるのが普通である。
後から合流したタレ目の男性が、その普通ではない立場にいるにも関わらず、趣味で自作をしたことなんて、少女は知る由もない。
「……なんか、臭うな?」
鼻を指で押さえながら、顔を歪めた背の高い男性が、不快そうに言った。
後方には角骸鯨の死骸から吹き出ていた、血溜まりがある。
寒い地域とは言え、あそこまで大きな巨体から流れ出た血液の量は、かなり多かったのだろう。
確かに、血なまぐさい。
納得した少女とは違う理由を、麗しい人は知っていた。
そのため、知り合いであろうタレ目の男性に、女の子を相手にそんなことを言うものではないと、注意をした。
女の子という言葉を指す人物は、自分しかいない。
何のことだろう。
疑問に思い、顔を上げた。
……下から見上げても、やはり顔がいい。
少女はつい、生唾を飲み込んだ。
男性のはずなのに、髭を剃った跡がない。
それどころか、鼻孔に毛が生えているようにも見えない。
やはり人外めいた存在なのだろうか。
自分を抱き上げる腕は、間違いなく温かいのに。
トキメキを覚えていた少女の乙女な思考は、蠱惑的とも言える幽美さを持ったその唇が奏でる音に、見事に打ち砕かれる。
「失禁したとか直接言うなよ。
デリカシーが無いな」
「そんな直接的な言葉は言ってない」
ピシッと、自分の中で何かが砕けたような音が響いた気がした。
でりかしぃ、が何を意味するのかは分からない。
分からない、が。
その前に告げられた言葉のせいで、頭が回らないせいだと一旦横に置くことにした。
失禁。
つまり、放尿。
抱き抱えられるまで自分がいた場所を、バッと勢いよく振り返る。
……ホカホカと、とは言わない。
外気温が低いからだろう。
既に冷め始めているのだ。
だが微かに、地面からもやが上がっている。
それ以上に、積もった雪の上。
そこに、確かに色が付いていた。
自分の身体の、何倍も大きい魔物に襲われても悲鳴すら上げなかった少女は、あまりの羞恥に、声にならない声を森に響かせた。
2026年3月21日0:00に‘’プロローグ-3‘’予約投稿しました!




