プロローグ
新連載です!
ご覧頂きありがとうございます!!
初めましての方も、昨日ぶりの方もさっきぶりの方も、末永くお付き合い頂けると幸いです。
白く化粧された木々の隙間を縫うように走る、影がひとつ。
雪が積もり樹木が氷る世界で、その少女は裸足で道無き道を駆けていた。
その一〇〇m……イヤ、数十m後ろに迫るのは、巨大な角骸鯨だ。
魔物の中でも特に愚鈍な動きをすることで有名だが、子供の足と比べた時には、その移動速度は恐ろしく早い。
少女との距離は、少しずつではあるが、確実に縮まっていく。
魚のような尾を持つのに、前脚だけでよくあれだけの速度を出せるものだと、見る人が見れば感心するだろう。
少女は村で蔓延する病気を治すための薬の材料を探しに、この森を訪れていた。
角骸鯨の角は、非常に優秀な解熱鎮痛作用を持っているのだ。
何も魔物から直接取ろうだなんて、そんな無謀なことは考えていなかった。
今の時期なら脱皮をするように角が折れると、大人が話しているのを聞いたのだ。
その欠片だけでも手に入れば。
少女はそう思い、村から離れた、大人の同行無しでは立ち入らない森まで、一人足を伸ばした。
普段なら、そんな無謀なことをする子ではない。
少なくとも、迷うことがあれば親に相談し、判断を仰ぐ聡明さを持っている。
だがしかし、今回に限ってはそれが叶わなかった。
彼女の両親や想い人もまた、流行病で倒れたからだ。
相談相手は倒れ、家族と同じくらい大切な人まで病にかかった。
その事実が、少女の思考を鈍らせた。
しかし少女は、知らなかった。
会話を盗み聞きしている子供がいるから、わざと聞こえる声で大人たちが話していたことを。
最も重要な、角折時期の角骸鯨が非常に凶暴になる事実を、わざと大人たちが口にしなかったことを。
厳しい環境で生きている大人たちからしてみれば、ろくな労働も出来ない子供は、邪魔でしかなかった。
特に今回の病魔は女性が重篤化しやすいようで、子供の面倒を見る者がおらず、それ等の存在を持て余していた。
一人いなくなろうと、特に困りはしない。
むしろ本当に持ち帰って来られたなら、現状を打破できるのだ。
僥倖という他ない。
そうして大人たちの悪意に気付かないまま、少女は村を飛び出した。
不運というよりは、至極当然の流れで、少女は角骸鯨に見付かった。
角を折る前で腹を減らしていた角骸鯨は、通常行う狩りとは違い、獲物である少女を直接食らいにかかった。
走りにくい木靴は、途中で脱ぎ捨てた。
放られた靴が地面を転がる音と匂いにつられて、動きを止めた角骸鯨だが、それも一瞬のことだった。
地面に敷かれた小石や小枝によって、すぐに靴下は破れてしまった。
そのため足の裏の皮膚は裂けていたが、痛みを気にする余裕はない。
角が手に入らなかった時のためと、カゴに集めていた薬草も、走るのに邪魔だからと手放した。
脇目も振らず、ただただ本能のままに足を動かし続けた。
しかし森に慣れていない少女は知らない。
周辺の地理に詳しい魔物に、少しずつ逃げる方向を誘導されていることを。
あと数m先の足場が、氷原から氷床に切り替わることを。
所々薄氷になっており、そこに落ちたらヒトは動きを止めると、狡猾なこの森の魔物は学習している。
海こそが角骸鯨の独擅場だ。
角骸鯨の表情こそ読めないが、内心、ほくそ笑んでいるに違いない。
だが角骸鯨の予測に反したことが起きた。
全速力で何十分も走れる程、ヒトの子供は体力がない。
恐怖に足が竦んで動かなくなってもおかしくない中、それでも懸命に動かし続けた少女の精神力も、限界を迎えようとしていた。
森の切れ目を見付けて、緊張の糸がプツリと切れてしまったのも、理由のひとつだろう。
少女は足がもつれ、転んでしまった。
もう、ほんの数mの位置に角骸鯨が迫っている。
そんな状況で。
絶体絶命。
そんな言葉が、少女の脳裏を過ぎる。
あの角に串刺しにされて、生きたまま他の魔物の餌にされるのか。
もしくは頭から食べられてしまうのか。
いずれにせよ、自分に待っているのは、絶望的な未来だけだ。
ガチガチと耳の奥で音が聞こえる。
角骸鯨の立てているかと思えば、自分の歯の根が合わず、震えている音だった。
家族を思うと、自然と視界が歪む。
無理をしないでと言った母の言う通り、村で大人しくしていれば、こんなことには……
そんなことを考えても、今更、もう遅い。
助けを呼ぶことも、悲鳴を上げることもできない程に体力を消耗した少女は、きつく目を瞑ることしかできなかった。
父に母に、先立つ不幸の許しを乞う。
幼馴染の初恋相手に、頼むからもう一人の幼馴染とくっついてはくれるなと呪詛を吐く。
何よりも、自分がここで死んだとしても、皆が助かりますように。
そう精霊様に祈った。
世界中で信仰される彼の存在を見たことは、ない。
けれど、いつも私たちの身近にいるのよ。
そう地精霊様の力を使えるエルフ様が、教えてくれた。
きっとあの人が、精霊様の力を借りて、村を救ってくださる。
この祈りが、届きますように。
この身が滅びても、精霊様が次の生へと導いてくださる。
……大丈夫。
今世が終わるだけだもの。
…………死はとうに受け入れた。
その時を祈りながら待つ。
………………?
なのに、いつまで経っても、その時は来なかった。
決めた覚悟が揺らぐような時間が経過している。
恐る恐る目を開くと、目前まで迫っていた巨大な影が、どこにも見当たらない。
角骸鯨の気でも変わったのだろうか。
そんなことが、起こり得るのか。
まさかこれが、精霊様のご加護というものなのか。
疑問に思いながら視線を動かせば、そうではないことに気が付く。
角骸鯨の、巨大な上半身が消えただけで、特徴的な尾が、その場に残されていた。
血を吹き出しながら。
「ひっ……!?」
「あぁ……動かないから、死んでるのかと思った」
腰が抜けたのか、立ち上がることは出来なかった。
しかし見たこともない凶悪な現場に、この場からすぐにでも逃げ出したい衝動に駆られた。
手で何とか這いずり回る。
そんな少女の様子なんて目に入っていないかのような、気の抜けた声が降ってきた。
死んだと自覚がないだけで、精霊様が迎えに来てくださったのだろうか。
内容はともかく、咄嗟にそう思ってしまうほどに、天にも登るような心地にさせられる、鳥のさえずりよりも澄んだ、美しい声音だったのだ。
だが、そうではなかった。
角骸鯨に気を取られて気が付かなかったが、人が、いた。
視線を上にズラしていく。
少女は思わず、息を呑んだ。
イヤ、息をするのを忘れた。
……美しい。
そんな形容では到底表せられない程の美貌を持った人が、そこにいた。
春と夏の間の一時だけ咲く花よりも、朝の霜を照らす月の光よりも。
今まで自分が美しいと感じた何よりも、輝いて見える。
彫刻のように深く掘られた、大袈裟に表された美しさではない。
かといって絵画のように盛られた誇張さもない。
涼やかな目元を縁取る不思議な色合いのまつ毛は、目元に影をさすほどに長い。
鼻筋は通り、薄く開いた唇から覗く歯は白く輝いている。
頬に時折飛び散る血飛沫のように、紅い唇との色の差で、目眩を覚えてしまうほどだ。
その端正な顔をずっと見続けるのは、不敬な気がしてきた少女は、下に顔を逸らす。
逸らした先にあった体躯は、心配になるほどに線が細い。
しかしおもむろに角骸鯨の下半身を拾い放り投げる姿を見るに、単に細いのではなく、鍛えられ引き締まっているのだと分かる。
イヤ、本当に人ではなく、精霊様なのかもしれない。
とてもじゃないが、あまりにも非現実的で、人外めいているのだから。
今まで精霊信仰には、疑問が多かった。
しかし栄えている土地の人々が崇める精霊様がこの姿なら、納得せざるを得ない。
思わず傅いてしまうほどに、神々しい姿をしているのだから。
やはり、お迎えが来たのだろう。
しかし角骸鯨と違い、自分には手も足も頭もついたままだ。
心臓も鼓動を奏でているし、吐く息は白い。
つまり、生きている。
ではこの人は、一体……?
‘’プロローグ-2‘’を夜の九時に更新します。
お手隙でしたら、是非暇潰しの一助にご利用下さいませ。




