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第七話:二人の逃避行

「――システム、強制接続オーバーライド。神経伝達、極限加速」


 駆の脳内に、冷徹なアラートが鳴り響く。視界は一瞬で反転し、色彩を失ったモノクロームの世界に、熱源を感知する赤い光だけが浮かび上がった。

 右脚の感覚が、一瞬だけ消えた。いや、消えたのではない。激痛があまりに巨大な熱量へと変換され、脳が「痛み」という信号を処理しきれなくなったのだ。


「掴まってろ、アイリス!」


 駆は叫び、床を蹴った。

 コンクリートの破片が弾け、駆の身体は弾丸となって廃工場の空間を斜めに切り裂いた。アイリスを背負った重みさえ、今の彼には「地面に繋ぎ止めるための重石」に過ぎない。


 一歩、壁を蹴る。

 二歩、錆びた大型クレーンのアームを足場にする。

 駆は重力をあざ笑うように、工場の天井付近まで駆け上がった。


「逃がすな! 撃て!」


 執行官たちの叫びと共に、無数のレーザーサイトの赤い線が駆を追う。直後、高周波弾の嵐が駆の足跡を追いかけるように壁を砕いていく。

 駆の瞳は、それらの弾道を「止まった針」のように捉えていた。アキレスが強制的に引き上げた時間感覚。一秒が十秒に引き伸ばされた停滞した世界の中で、駆だけが加速し続けている。


(行ける……これなら抜ける!)


 だが、その確信は、背後から迫る「白」によって即座に粉砕された。


 ――静かだった。

 銃声と破壊音の喧騒を置き去りにして、その白い影は駆と同じ高度、同じ壁面を滑るように移動していた。

 白銀零。

 彼の最新鋭義足からは、衝撃波さえ出ていない。余剰なエネルギーをすべて「推進力」へと完璧に変換する、究極の最適化。彼は走っているのではない。空気を切り裂く刃そのものとなって、駆の背後に迫っていた。


「……駆。そんな無駄な出力は、肉体を内側から焼き切るだけだ」


 すぐ隣で囁かれたかのような、あまりに鮮明な声。

 駆は戦慄した。この極限の加速状態にあって、白銀はまだ「余裕」を持って並走している。


「うるせえ! 焼き切れる前に、お前の視界から消えてやるよ!」


 駆は工場の天窓を突き破り、雨の降る屋外へと飛び出した。

 高度差、五十メートル。

 普通なら即死する高さ。だが駆は空中でアイリスを抱き寄せ、壁面のパイプを掴んで落下速度を殺し、そのままアンダー・シティーの迷路へとダイブした。


 ――ガァァァァン!


 着地の衝撃が、駆の右脚を容赦なく襲う。

 今度は痛みを遮断しきれなかった。膝の皿が割れるような生々しい音が脳内に響き、口の端から鮮血が漏れる。


「っ、ぐ、あああああ!」


「駆くん……! もういい、私を下ろして! 私が戻れば、あなたは――」


 背中でアイリスが泣き叫ぶ。彼女の手は、駆のボロボロのパーカーを、縋り付くように強く握りしめていた。


「バカ言え……。一度走り出したランナーを、止める権利は誰にもねえんだよ」


 駆はよろけながらも、再び走り出した。

 行き先は、旧地下鉄の残骸が剥き出しになった高架下。そこは巨大なコンクリートの柱が並び、複雑な影を作る場所だ。

 

 雨脚が強まる。

 視界が白く霞む中、駆はひたすら脚を動かし続けた。右脚の筋肉はすでに限界を超え、ステップを踏むたびにアスファルトの上に赤い斑点が刻まれる。それは駆の命が削り出された、最期のわだちのようだった。


 だが、どんなに路地を曲がっても、どんなに影に潜んでも、背後の「白い死神」を撒くことはできなかった。


 ――ピチャリ。


 水たまりを踏む、あまりに軽い音。

 駆が辿り着いたのは、崩落した高架によって行き止まりとなった、袋小路だった。

 

 振り返ると、そこには白銀零が立っていた。

 周囲には、いつの間にか複数の追跡ドローンが浮遊し、サーチライトが駆とアイリスを逃げ場のない光の檻に閉じ込めていた。


「チェックメイトだ、駆」


 白銀はゆっくりと歩み寄る。彼の白いスーツには、泥一滴すらついていない。

 対する駆は、全身血と泥にまみれ、右脚はもはや立っているのが不思議なほど無残に歪んでいた。支えにしていた鉄パイプも、先ほどの衝撃で曲がり果てている。


「……はぁ、はぁ、はぁ……っ。白銀……、お前、本当に……速くなったな」


 駆はアイリスを背中から下ろし、自分の背後に隠した。

 右脚がガクガクと震えている。アキレスがもたらす「偽りの万能感」が消え失せ、代わりに圧倒的な損壊の事実が、重力となって駆を地面へ引き摺り込もうとしていた。


「計算は終わった。駆、お前の現状を教えよう。右脚の大腿骨に亀裂、筋繊維は全域で断裂寸前。肺胞の三割が出血し、意識維持可能時間は残り百二十秒を切っている」


 白銀のバイザーから、無機質な解析ログが周囲の空中にホログラムとして投影される。

 駆という一人の人間が、ただの「壊れた数値の集まり」として解体されていく。


「それに引き換え、僕の出力はまだ三割にも達していない。……駆、その生身の脚で僕から逃げられる確率は、計算上……0%だ」


「0%……か。相変わらず、数字の好きな野郎だぜ」


 駆は、血の混じった雨水を拭い、不敵に笑った。

 その瞳の奥には、白銀の計算機では決して導き出せない、底知れぬ狂気が宿っている。


「白銀。お前の言う通り、俺の脚はもう死んでる。歩くことさえ、奇跡みたいな状態だ」


 駆は一歩、前に出た。

 右足が着地するたびに、骨が擦れる嫌な音が響く。アイリスが小さく悲鳴を上げ、駆の服を掴んだ。


「だけどな……。俺は今日まで、その0%を何度も塗り替えて生きてきたんだよ。……国立アカデミーの時だってそうだ。お前が世界記録を狙って走ってる横で、俺はいつだって、お前の『計算』の外側からゴールを奪ってきた」


「……あの日とは違う。今の僕には、完璧な『秩序』がある」


「秩序だと? ……笑わせるな」


 駆は、自分の胸を拳で叩いた。

 

「俺が持ってるのは、この痛くて、重くて、最高に不自由な『生身』だけだ。……だけどな、白銀。この脚が動く限り、俺の確率は0じゃない。……いや、0にはさせねえんだよ!!」


 駆の全身から、蒸気のような熱気が立ち上る。

 アキレスの警告音が、脳内で連続したビープ音へと変わる。

 『限界。限界。肉体崩壊まで、カウントダウン開始』


 白銀の瞳が、僅かに揺れた。

 目の前の男は、医学的にも物理学的にも、もう動けるはずがない。

 なのに。

 駆が放つ闘気は、最新鋭のセンサーを狂わせるほどの熱量を放ち、雨さえも蒸発させていた。


「……アイリス。目を瞑ってろ」


 駆は、自分の右脚を力一杯叩いた。

 激痛によって意識を無理やり覚醒させ、神経の最深部、御堂が植え付けた「アキレス」のコアへと手を伸ばす。


「さあ……再点火リグニッションだ。……俺の魂ごと、燃え尽きろ!」


 高架下の暗闇に、鮮血のような赤い光が爆発した。

 白銀が初めて、戦闘態勢を解いて後ずさりした。

 それは、計算不可能なバグの誕生――。

 

 逃げ場を失った袋小路で、一人の男が「0%」ということわりを破壊しようとしていた。

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