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第六話:鋼鉄の檻を抜けて

 ネオ・エデンの最上層からアンダー・シティーへと続く廃棄物投棄用のダクトを、駆はアイリスを抱えたまま滑り降りた。

 金属の摩擦音が耳を劈き、火花が散る。十数秒の落下。最後は山積みになった合成繊維のゴミの山が、二人の衝撃を辛うじて受け止めた。


「……っ、がは……っ!」


 駆は喉の奥まで込み上げてきた鉄の味を、無理やり飲み込んだ。

 ゴミの山から這い出し、まずは腕の中のアイリスを確認する。彼女は気を失ったままだが、幸いにも外傷はなさそうだった。


 問題は、自分だ。


「……はぁ、はぁ……っ、くそ……!」


 右脚を見下ろし、駆は絶句した。

 黒いパーカーの裾が裂け、そこから覗く生身の脚は、見るも無惨な状態だった。アキレスの強制発動による超負荷。毛細血管は至るところで破裂し、皮下出血によってドス黒く変色している。さらに、かつて砕けた骨を繋いでいたはずの場所が、内側から突き上げるような鈍い光を放っていた。


 駆は震える手で、近くの鉄パイプを杖代わりにして立ち上がった。

 ここは、かつて「メモリア・コーポレーション」が旧世代の工業製品を製造していた巨大な廃工場だ。今は錆とオイルの臭い、そして重い沈黙が支配する鋼鉄の墓場である。


 駆はアイリスを背負い、一歩一歩、奥へと足を進めた。

 一歩ごとに、右脚の骨が砂利でも噛んでいるかのような不快な感触と、脳を焼くような激痛が走る。薬――ドク・ボーンから手に入れる予定だった『レテ』はまだ手元にない。今の彼は、むき出しの痛みをダイレクトに神経で受け止めるしかなかった。


「……ん……」


 背中で、アイリスが微かな声を漏らした。

 駆は彼女を、工場の隅にある錆びついた大型クレーンの影に下ろした。そこは辛うじて雨を凌げ、死角になっている。


 アイリスの瞳がゆっくりと開かれた。

 彼女が最初にしたことは、周囲の惨状に困惑することではなく、目の前で崩れ落ちるように膝をついた駆の足元を見ることだった。


「……あ、なた……その足……」


 アイリスの声が震えている。

 彼女はスカイ・ガーデンで生きてきた。そこでの「怪我」は、最新のナノマシンか、あるいは損傷した部位を丸ごと高精度なサイバーウェアに置換することで、一瞬にして『なかったこと』にされるものだ。

 だが、目の前の男の脚は、違う。


 赤黒く腫れ上がり、不自然な方向に歪み、絶え間なく本物の血を流している。

 それは、彼女が今まで見てきた「清潔なデータとしての肉体」とはかけ離れた、生々しく、醜く、そしてあまりに脆そうな「生身」の肉だった。


「どうして……どうして、機械じゃないの……?」


 アイリスは、震える指先を駆の脚に伸ばそうとして、あまりの惨さに躊躇った。

「そんなにボロボロで……骨だって、折れてるように見えるわ。お父様が言っていた……アキレスとかいう機械が、入っているんじゃなかったの?」


 駆は、こみ上げる痛みを逃がすために奥歯を噛み締めながら、不敵な笑みを浮かべた。

「……ああ。御堂の野郎が、脳みその中に『クソみたいな命令プログラム』を書き込みやがった。……でもな、アイリス。俺の脚は……俺が両親から貰った、たった二本の生身のままだ」


「そんな……。嘘よ。人間が、そんな状態で走れるはずがないわ。スカイ・ガーデンの護衛官ガードだって、みんな脚を強化しているのに……。どうして、そんな足で、私のためにあんなに速く走れるの……?」


 アイリスの瞳から、大粒の涙が溢れた。

 彼女にとって、駆の脚は「恐怖」そのものだった。自分のために、誰かがこれほどまでに物理的な肉体を損壊させている。その事実が、彼女の心に、御堂の教育では決して教わらなかった「痛み」を刻み込んでいた。


「……理由なんて、一つしかねえよ」


 駆は壁に背を預け、荒い呼吸を整えようとした。

「俺は……お前が売ってた『初恋』を買ったんだ。……あの中に映ってた、笑ってるお前は、このクソみたいな街で唯一、本物に見えた。……だから、あんな顔で泣いてるお前を見捨てるのは、俺の『プライド』が許さなかったんだよ」


「プライド……?」


「ああ。……記録データじゃねえ。俺が俺であるための、たった一つの、書き換えられない記憶だ」


 その時、工場の静寂を、冷徹な電子音が切り裂いた。


『――索敵完了。ターゲットを確認。座標、セクターC-42』


 駆の顔から色が消えた。

 頭上の天窓が、強烈なサーチライトに照らされる。爆音と共に、工場の天井が次々と踏み抜かれ、白い装甲に身を包んだ執行官たちが、ワイヤーで降下してきた。


「白銀……!」


 工場の正面入り口。重厚な鉄扉が歪み、火花を散らしながら吹き飛んだ。

 煙の中から現れたのは、一滴の汚れもない白いスーツを纏った死神。白銀零だった。

 彼の背後には、機械的な動きで銃を構える「レクイエム」の精鋭部隊。


「駆。その無意味な抵抗が、アイリス様をさらに傷つけることが理解できないか」


 白銀の視線が、駆の血まみれの脚に向けられた。

 彼のバイザー越しに、冷徹な分析結果が流れる。

『対象の右脚:筋繊維崩壊率62%、骨折箇所3、歩行可能時間……0』


「……見てみろ、お前のその無惨な脚を。それはもう、走るための道具ではない。ただの肉の塊だ。……駆、お前はもう終わっているんだ」


 白銀が、一歩、前に出る。

 駆は杖にしていた鉄パイプを強く握り直した。

 脚が震えている。激痛で視界が歪む。

 だが、駆の背中には、自分を信じて見つめるアイリスの視線があった。


「終わってる、だと……?」


 駆は、アイリスの前に立ちはだかるようにして、無理やり立ち上がった。

 骨が擦れ合う嫌な音が、静かな工場内に響き渡る。


「白銀。お前の計算機には……『諦めが悪い』っていうデータは、入ってねえのかよ」


「……愚かだな、駆。あくまでそのゴミのような生身で、僕の『正解』に挑むというのか」


 白銀が右脚のブースターを起動させる。

 青白い炎が走り、一瞬で工場の床を焼き切るほどの出力が解放された。


 逃げ場はない。

 包囲網は完全に完成していた。

 しかし、駆の脳内で、再び『アキレス』が警告を発し始める。

 赤いエラーログ。限界を超えた肉体への、さらなる死の宣告。


「……アイリス。俺の服を、しっかり掴んでろ」


 駆は低く、地を這うような声で言った。


「ここからは……少し、揺れるぜ」


 駆の瞳が、再び狂気的な赤に染まる。

 絶体絶命の檻の中、一人の男が、再び重力を置き去りにするための「加速」を開始しようとしていた。

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