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第五話:再点火

 スカイ・ガーデンのテラスから飛び降りた駆の衝撃を、管理された柔らかな芝生が吸い込んだ。しかし、右脚に走る激痛までは吸い込んでくれない。

 腕の中には、意識を失い、人形のように力なく垂れるアイリス。

 背後からは、大気を切り裂くような鋭い風切り音が迫っていた。


「……ッ!」


 駆は転がるようにして立ち上がり、近くの観賞用低木の陰へと身を隠す。

 頭上では、御堂の私兵部隊を乗せたヘリが、巨大なサーチライトで夜の庭園をなぞっていた。光の帯が通り過ぎるたび、色鮮やかな花々が、逃げ場のない檻の格子のように見えた。


「無駄だ、駆。お前の心拍数、右脚のバイオメトリクス……すべて私には視えている」


 静かな、しかし抗いようのない威圧感を伴った声が、背後から響く。

 白銀零が、悠然とした足取りで歩いてくる。彼の白いスーツは、この混乱の中でも一筋の乱れもなかった。最新鋭の強化義足が、芝生を排するたびに微かな駆動音を上げ、その音さえもが駆の死期を刻む秒針のように聞こえた。


「アイリス様を離せ。彼女は、お前のような不浄な存在が触れていいお方ではない」


「不浄、だと……?」


 駆はアイリスを抱え直した。彼女の首筋にあるM-Linkポートは、先ほどの精神世界での干渉の後遺症か、今も弱々しく明滅している。

 駆の脳裏には、先ほど見た御堂厳の冷笑が、焼き付いて離れなかった。


『君は優秀な検体だった。私の「アキレス・プラグイン」の初期プロトタイプに、君の肉体がどこまで耐えられるか……』


 その言葉が、駆の心臓を熱い泥のようにかき乱す。

 二年前。あの国立アカデミーの決勝戦。

 ゴール目前、栄光を掴み取ろうとした瞬間に、駆の人生は砕け散った。

 才能の限界でも、不運な事故でもなかった。

 すべては、この街の「神」である男が、自分の技術を試すために仕組んだ実験に過ぎなかったのだ。


「白銀……。お前は、知っていたのか? 俺の脚が、あの日……あいつに壊されたことを」


 白銀の歩みが、僅かに止まった。

 バイザーに隠された彼の瞳が、かすかに揺れたのを、駆は見逃さなかった。


「……世界を統治するには、犠牲が必要だ。秩序プログラムを完成させるための、避けられない誤差に過ぎない」


「誤差……?」


 駆の喉から、乾いた笑いが漏れた。

 その「誤差」の一言で、彼から走る喜びを、仲間を、未来を、すべて奪ったというのか。

 怒りが、絶望のダムを決壊させた。

 血管を流れる血が、ガソリンに変わったかのように沸騰し始める。


「ふざけるな……。ふざけるなよッ!」


 駆の叫びに呼応するように、右脚の奥深く、神経系に癒着していた「何か」が脈動を始めた。

 御堂が植え付けた、呪わしき遺物。

 二年間、駆を苦しめ、走る恐怖を植え付け続けてきたそのプラグインが、皮肉にも駆の怒りを燃料にして、初めて「真の点火」を迎えたのだ。


『システム:アキレス・プロトタイプ。ユーザーの情動異常を検知。リミッターを一時解除オーバーライド


 脳内に、冷徹なシステム音声が響く。

 直後、視界が真っ赤に染まった。


「ぐ、あああああああ!」


 駆はアイリスを優しく、しかし迅速に、近くの頑丈なベンチの下へ滑り込ませた。

 そして、自分の右脚を掴んだ。

 皮膚の下で、目に見えないナノマシンが暴れ回っている。筋繊維を無理やり引き締め、神経の伝達速度を物理限界までブーストしていく。

 痛い。脚が、爆発しそうだ。

 だが。


「……もう、逃げない」


 駆は、低く呟いた。

 その瞳から、悲しげな色が消え、かつての「飢えた獣」のような光が戻る。


「逃げるのをやめて……お前らを、ぶち抜いてやる」


「正気を失ったか、駆。生身の脚にアキレスの残骸を抱えたまま、何ができる。その脚を動かせば、今度こそ粉々に――」


 白銀が言葉を言い切る前に、駆が動いた。


 一歩。

 ただの一歩だった。


 ドン、という爆鳴。

 駆が踏み込んだ場所の芝生が、衝撃波で円形に吹き飛ぶ。

 白銀の視界から、駆の姿が掻き消えた。


「!? ――後ろか!」


 白銀が超反応で振り返り、強化義足による回し蹴りを放つ。

 しかし、そこには空を切る風しかなかった。


 駆は、白銀のさらに上空にいた。

 アキレスによってブーストされた脚力は、重力という法さえも一時的に無効化した。

 空中を蹴り、駆は白銀の死角へと、かつての「黄金の回転」を彷彿とさせる軌道で着地する。


「な……んだ、その動きは……!」


 白銀の計算が、初めて狂った。

 データ上、駆の右脚は損傷率40%を超え、歩行すら困難なはずだった。

 だが、今の駆の走りは、かつての全盛期すらも置き去りにする「異次元の速度」に達していた。


 痛み? 恐怖?

 そんなものは、もう感じない。

 駆の脳は、アキレスの強制上書きによって「自分は世界で一番速い」という記憶データに支配されていた。


「白銀。お前が手に入れたのは、用意された『速さ』だ。……だけど、今の俺を突き動かしてるのは、お前らが一番嫌いな……『怒り』っていうバグなんだよ!」


 駆は再び踏み出した。

 今度は、直線的な疾走。

 赤い霧のような熱気を纏い、駆はアイリスを再び抱え上げると、包囲網の唯一の隙間――スカイ・ガーデンの外壁へと向かって跳んだ。


「待て! 駆!」


 白銀が全力のブーストで追う。

 しかし、駆はその追跡さえも「ラスト・スパート」のエネルギーに変えた。

 外壁のガラスを突き破り、二人は夜のネオ・エデンへと身を投じる。


 眼下には、雲海の下に広がるアンダー・シティーのネオン。

 駆は落下しながら、空中でアイリスの耳元に囁いた。


「……連れていく。この街の、本当の出口まで」


 落下を制御するためのワイヤーを咄嗟に奪ったガードマンの腰から引き抜き、駆はビルの壁面を蹴って、光の渦へと消えていった。


 後に残されたのは、粉砕されたガラスと、呆然と立ち尽くす白銀だけだった。

 白銀は、自分の白いスーツに付着した、一滴の血を見つめた。

 それは駆の脚から、限界を超えた代償として飛び散った、熱い「生身」の血だった。


「……駆。お前は……本当に、壊れてしまったのか。それとも……」


 白銀の声は、夜風に掻き消された。


 ネオ・エデンの最上層から、最も深い闇へ。

 一人の男と、一人の少女。

 神の箱庭を脱出した二人の、命を懸けた本格的な逃亡劇が、今ここに幕を上げた。

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