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第四話:偽りの初恋

 ネオ・エデンの最上層、通称「スカイ・ガーデン」は、下層の汚濁が嘘のように思えるほど、静謐な空気に満ちていた。ここでは雨さえもが管理され、柔らかなミストとなって、遺伝子操作された花々を濡らしている。


 駆は、奪った警備用の上着でボロボロのパーカーを隠し、ジャンクが最期に遺した座標の場所へと辿り着いた。そこは、巨大なドーム状の温室に囲まれた白亜の別荘だった。


 右脚はもはや、自分の意志で動いているのかさえ疑わしい。ドクドクと脈打つ痛みが、一歩ごとに「ここが限界だ」と警告を発している。だが、駆は止まらなかった。ここで止まれば、ジャンクの死も、自分のこれまでの逃走も、すべてが無に帰す。


 厳重なセキュリティを、ジャンクが仕込んでいたバイパスソフトで突破し、彼は静かにも、しかし強引に邸内へと侵入した。


 奥にあるテラス。月の光を模した柔らかな照明の下で、その少女はいた。

 銀色の髪が、夜風に揺れている。チップの中の記憶と同じ、透き通るような肌。だが、今の彼女の瞳には、あの夏の日のような輝きはなかった。そこにあるのは、底の見えない虚無感と、何かに怯えるような、か細い光だけだ。


「……誰?」


 アイリス・御堂は、静かに振り返った。彼女は叫びもしなかった。ただ、泥と血に汚れた駆を、まるで迷い込んだ野良犬でも見るような悲しげな目で見つめた。


「君に、見せたいものがある。……いや、返すべきものがあるんだ」


 駆は喘ぎながら、懐から例のチップを取り出した。アイリスはそれを見た瞬間、目を見開いた。彼女の首筋にある最新型のM-Linkポートが、微かに共鳴するように発光した。


「それは……私の……」

「覚えがあるだろ? 君の『初恋』の記憶だ。だが、これには続きがある。君の父親、御堂厳が君から奪い、そして隠した真実が」


「嘘よ」

 アイリスの声が震えた。

「お父様は、私を守ってくれているわ。この街を、不浄なものから救うために……。私の記憶に、悪いことなんて一つも……」


「じゃあ、なぜ君はそんなに怯えてるんだ!」

 駆は一歩、踏み出した。右脚のボルトが軋むような幻聴がした。

「最近、自分の記憶が信じられなくなってるんだろ? 辻褄の合わない空白があるはずだ。その穴を埋めるのは、お父様の優しい嘘じゃない。この、血塗られた真実だ」


 アイリスは息を呑み、自らの首筋に手を当てた。

「……わかるの。最近、夜になると、知らない誰かの悲鳴が聞こえる。見たこともない赤い雨の記憶が、私の頭の中をかき乱す。……私は、私じゃない何かに書き換えられているような、そんな怖さがあるの……」


 彼女は、駆の差し出したチップを、震える指先で受け取った。

 二人の視線が交差する。

 駆の「どん底から這い上がってきた狂気」と、アイリスの「箱庭の中で壊れかけていた正気」。


「……確かめたい。私が、誰なのか」


 アイリスが決意を固めたように、自分のデバイスにチップを挿入した。

「一人じゃ、耐えられないかもしれない。……お願い。一緒に、見て」


 駆は頷いた。二人はテラスの長椅子に座り、リンク用のケーブルで互いのポートを繋いだ。

 M-Link、ダイレクト同期。

 他人の脳内世界に深く潜り込む、禁忌の接続。


 視界がホワイトアウトする。

 次の瞬間、二人は「あの日」の公園に立っていた。


 蝉時雨。潮風。

 だが、チップを単体で再生した時とは、風景の解像度が違った。アイリス本人の潜在意識が加わったことで、世界の彩度が増し、同時に「隠されていたノイズ」が牙を剥く。


「あ……ああ……」

 アイリスが、自分の記憶の中で蹲った。

 空の色が、夕焼けから血のような赤へと反転していく。

 幸せそうに歩いていた少女(過去のアイリス)の足元から、黒い泥が溢れ出し、周囲の木々を腐らせていく。


 そして、あの噴水の裏側。

 男――御堂厳が、ナイフを振り上げ、目撃者を刺し貫く光景。

 その光景が、何十回、何百回とリフレップ(繰り返し再生)される。御堂が記憶を消去しきれなかった証拠、脳の傷跡が、激しい頭痛となって二人を襲った。


「見てはならないよ、アイリス。それは君の幸福プログラムにはないはずのものだ」


 不意に、世界の音が止まった。

 記憶の中の御堂厳が、ゆっくりとこちらを向いた。

 いや、違う。これは記憶の中の残像ではない。

 アイリスの精神を守るために御堂が仕込んでいた、対侵入者用の「ガーディアン・プログラム」だ。


 御堂の姿をした「それ」は、アイリスの肩に優しく手を置いた。その指先が触れた場所から、彼女の意識が凍りついていく。


「お父様……やめて……」

「いい子だ、アイリス。眠りなさい。汚れたネズミが持ち込んだ毒は、私が処分しよう」


 プログラムである御堂が、ゆっくりと駆の方へ視線を移した。

 その瞳は、冷徹な機械のそれでありながら、確かに駆という個人を射抜いていた。


『……久しぶりだな、空野駆』


 駆の背筋に、氷柱を突き立てられたような戦慄が走った。

 なぜ、プログラムが自分の名前を知っている。


『まだ、走っていたのか。二年前、私が直々にその脚を砕いてやったというのに。まだ死に場所を求めて彷徨っているとはな』


「……なんだと?」

 駆の呼吸が止まった。

「……お前が……俺の脚を……?」


 二年前の事故。国立アカデミーの最終コーナー。

 原因不明の筋線維の爆裂。医師は「過度なトレーニングによる金属疲労のようなもの」と説明した。だが。


『君は優秀な検体だった。私の「アキレス・プラグイン」の初期プロトタイプに、君の肉体がどこまで耐えられるか。……結果は見ての通りだ。君は壊れ、私は貴重なデータを得た。白銀君の方は、私に従うことで更なる高みに至ったが……君は、ただのゴミになった』


 怒りが、絶望を上書きした。

 人生を奪ったのも、夢を壊したのも、この男だった。

 すべては、御堂厳という神気取りの男の、手のひらの上での出来事だったのだ。


『お前も、あの日のように、絶望して走って逃げるのか? 骨の欠片を撒き散らしながら、惨めに這いずり回るのか?』


「……黙れ」

 駆は、精神世界の中で、動かないはずの右脚を一歩前に踏み出した。

「……黙れよ、クソ野郎!!」


 駆の叫びに呼応するように、現実世界の彼の右脚――『アキレス』のプロトタイプが眠るその場所が、赤く発光し始めた。

 同期しているアイリスの瞳もまた、真っ赤に染まっていく。


「駆くん……逃げて……」

 アイリスが、意識を失いながらも、駆の腕を掴んだ。

「パパが……来るわ。本物の……お父様が……」


 脳内世界が、ガラスのように砕け散った。


 現実に戻った駆の視界に飛び込んできたのは、邸内の警報アラームの赤い光と、上空から降りてくる複数の輸送ヘリの爆音だった。

 そして、通信機から、あの冷徹な声が響く。


『白銀、行け。我が娘を汚したネズミを、今度こそ完全に「排除」しろ』


 別荘の玄関が、爆圧で吹き飛んだ。

 煙の中から現れたのは、月光を反射して白く輝く、死神の如き執行官。


「……駆。お前を救う機会は、もう失われた」


 白銀零が、一歩、歩み出す。

 駆は、アイリスの細い身体を抱き上げた。右脚は、もう熱を帯びて発火しそうなほど激しく疼いている。


 戦う術はない。

 だが、駆の目には、かつてないほどの激しい「生」の光が宿っていた。


「走って逃げるか、だと? ……ああ、そうしてやるよ、御堂。お前の予想を、全部ぶち抜くくらいの速さでな!」


 駆は、テラスから夜の闇へと、アイリスを抱えたまま飛び降りた。

 背後で、白銀の「音速」を超えた一撃が空を切る音がした。

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