第三話:売り手の行方
下水道の汚濁にまみれた身体を、冷たい雨が叩く。
駆は廃ビルの隙間で息を潜め、追手の気配をやり過ごしていた。右脚の感覚はもはや消失し、代わりに鋭利な刃物で骨を削られるような熱い痛みが、脈動に合わせて脳を突き刺している。
「……あ、あいつに、頼るしかないか」
駆は震える手で首筋のポートを弄り、懐のチップを確かめた。
このチップが「銀雨事件」の真実を映しているのなら、それは一介の浮浪児が抱えていい代物ではない。だが、警察も、行政も、すべてが御堂厳の支配下にあるこの街では、公的機関はすべて敵だ。
駆が向かったのは、アンダー・シティーのさらに深部、スクラップの山に埋もれたコンテナハウスだった。そこには、街で最も口が硬く、そして最も腕のいい闇の解析屋「ガラクタ(ジャンク)」がいる。
「……開けろ。俺だ、駆だ」
錆びついた鉄扉を拳で叩く。数秒の沈黙の後、幾重もの電子ロックが外れる音が響き、扉が僅かに開いた。隙間から覗くのは、いくつものモニターに照らされた、青白い顔の男だ。
「……駆か。ひどいツラだな。下水掃除の仕事でも始めたのか?」
「冗談を言ってる暇はない。これを見てくれ」
駆は無理やり中へ押し入り、血と泥に汚れたチップを差し出した。
ジャンクと呼ばれた男は、そのチップを手に取ると、眉をひそめて拡大鏡で表面を覗き込んだ。
「……おい、このラベル、本物か? 『初恋』なんていう陳腐なタイトルをつけてるが、中身の暗号化プロトコルが異常だ。これは……メモリア・コーポレーションの最上級セキュリティだぞ」
「いいから解析してくれ。中身に『あってはならないもの』が映っていたんだ」
ジャンクは毒づきながらも、チップを解析用のアームに固定した。
室内には複数のサーバーが唸りを上げ、無数のモニターに複雑なログが流れ始める。駆は壁に背を預け、崩れ落ちるように座り込んだ。
「……なあ、ジャンク。記憶ってのは、どこまで正確なんだ?」
「さあな。今のM-Linkは五感すべてを記録するが、脳に上書きされる過程で多少のノイズは混じる。だが、生データそのものは嘘をつかない。……おっと、解析が始まったぞ。……なんだ、こりゃあ」
モニターの一つに、あの海沿いの公園が映し出された。
ジャンクの指がキーボードを弾く。画像が鮮明になり、背景のノイズが除去されていく。
「主観視点のメタデータを抽出中だ。……記録者の生体ID……網膜パターン……ニューロンの波形……」
ジャンクの顔から、余裕が消えていった。
「……馬鹿な。ありえない。記録者のIDが、政府の秘匿リストにヒットした。アクセス権限レベル、最上級……」
「誰なんだ? その『初恋』の持ち主は」
ジャンクは震える指で画面を指差した。
そこに表示されたのは、純白のドレスを着て、人形のように美しい少女の顔写真だった。
「……アイリス・御堂。現知事、御堂厳の一人娘だ。……駆、お前、何を拾ってきたんだ? これは爆弾どころじゃない。世界そのものを吹き飛ばす『地獄の鍵』だぞ」
駆の全身に鳥肌が立った。
あの凄惨な殺人現場を、当時、彼女は「初恋」という最も美しい記憶の断片の中に保存していた。いや、保存させられていたのか。御堂は、自分の罪を娘の「最も捨てたくない記憶」の中に隠蔽したのだ。
「……アイリス・御堂。彼女がこの事件の『目撃者』だったってことか」
「それだけじゃない。このデータ、一部が破損しているんじゃない。意図的に『鍵』をかけられている。もし彼女本人と同期させれば、銀雨事件の全容……御堂が隠したかったすべての証拠が、パンドラの箱のように開くはずだ」
その時だった。
コンテナの外で、不自然な静寂が訪れた。
雨音が止んだわけではない。ただ、何かが周囲の「空気」を支配したような、あの感覚。
「……来やがった。白銀か?」
「いや、違う。もっと多人数だ」
ジャンクが慌ててモニターを切り替えた。外の監視カメラには、黒いタクティカルスーツに身を包んだ「無銘」の部隊が、音もなくコンテナを包囲していく姿が映っていた。
「……駆、このデータを持ち出せ。もうここはおしまいだ」
「ジャンク、お前も――」
轟音。
コンテナの天井が、高周波爆弾によって吹き飛ばされた。
火花と瓦礫が降り注ぐ中、武装集団が上空から降り立つ。
「ターゲット及び協力者を確認。排除を開始する」
ジャンクは叫びながら、手元のコンソールに指を走らせた。
「……駆! これを受け取れ!」
彼は一枚の小さなメモリーカードを駆の手に押し付けた。
「解析結果のバックアップだ! そこに彼女の、アイリスの現在の居場所……隠し別荘の座標が入っている! 行け!」
「ジャンク!」
武装集団の一人が放ったレーザーが、ジャンクの胸を貫いた。
彼は血を吐きながらも、コンソールの自爆ボタンを叩いた。
「……走れ、駆! お前は、それをするために……生き残ったんだろ!」
爆発。
コンテナ内部が炎に包まれる中、駆は本能的に瓦礫を蹴って外へと飛び出した。
背後で、ジャンクの叫びが爆音に掻き消される。
自分を助けてくれた男を、また一人、見捨てた。
駆は逃げた。
右脚の痛みは、今や全身を焼き尽くす炎のようだった。
だが、手のひらの中にあるメモリーカードの冷たさが、彼に現実を突きつける。
アイリス・御堂。
御堂厳の娘。そして、あの記憶の中の少女。
彼女がどこにいるのか。御堂が彼女をどこに隠しているのか。
駆は雨の中、座標が示す「北の果て」へと目を向けた。
そこは、ネオ・エデンの最上層。雲の上にある、特権階級の聖域。
「……アイリス。お前が、俺の最後の希望なのか」
駆は、血の混じった雨水を拭い、再び走り始めた。
一歩ごとに、肉体が削られていく。
一歩ごとに、あの日失った「真実」が形を成していく。
死神の鎌が首筋に触れているような感覚。
だが、駆の瞳には、かつてトラックの上でゴールだけを見据えていた時の、あの狂気的なまでの疾走への渇望が宿っていた。




