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第二話:死神の疾走

肺が焼ける。

 吸い込む空気は、酸性雨の湿り気と、錆びた鉄の臭いが混じっていた。


「はっ、はっ、はぁっ……!」


 駆の心臓は、あの日以来、一度も経験したことのない異常な高鳴りを見せていた。

 背後からは、濡れたアスファルトを叩く軍靴の音が迫っている。武装集団の足音だ。彼らは機械的なまでに一定のリズムを保ちながら、確実に駆との距離を詰めていた。


「逃がすな! ターゲットの右脚には損傷がある、長距離は持たん!」


 通信機のノイズ混じりの声が、路地裏の壁に反響して駆の耳を打つ。

 彼らの言う通りだった。二年前の怪我。複雑骨折し、筋繊維がズタズタになった右脚。今、その箇所が熱鉄を押し当てられたような激痛を放っていた。

 一歩踏み出すたびに、膝の皿が砕けるような錯覚に襲われる。脳は「止まれ」と信号を出し続け、視界は激しい酸素欠乏で明滅していた。


 だが、止まれない。

 ポケットにある、あのチップの重みが、駆を前へと押し出していた。

 御堂厳の「殺人」の証拠。もしこれを渡せば、自分は間違いなく消される。この街において、真実を知ることは死と同義だ。


「……あ、あああああ!」


 駆は喉を鳴らし、さらに速度を上げた。

 ブランクがある肉体が、無理な駆動に悲鳴を上げる。太ももの筋肉が千切れるような感覚。それでも、彼は路地裏の入り組んだ構造を縫うように走った。

 廃棄された配送用ドローンの残骸を飛び越え、山積みになった合成食品の空き缶を蹴散らす。

 ここはアンダー・シティー。彼が二年間、泥を啜りながら歩き回った「庭」だ。正規の地図には載っていない、迷路のような裏道。


(ここを抜ければ、旧市街の廃ビル群に出られる……!)


 希望が見えた、その時だった。


 不意に、周囲の音が消えた。

 雨音さえもが遠のき、世界が静止したかのような錯覚。

 前方から、この腐った街にはあまりにも不釣り合いな、混じりけのない「白」が近づいてきた。


 それは、影だった。

 白いスーツを纏い、一滴の雨露さえも寄せ付けないような、峻烈な空気。

 男は走っていなかった。ただ、一歩。その一歩の歩幅が、物理法則を無視して駆との距離を埋めた。


「……白銀」


 駆は急ブレーキをかけた。濡れた路面に靴底が滑り、右脚にさらなる激痛が走る。

 白銀零。

 かつての親友であり、陸上界を二分したライバル。

 彼は今、記憶警察『レクイエム』の執行官として、最新鋭の強化義足を鈍く光らせてそこに立っていた。


「駆。随分と無様な逃走劇だな」


 白銀の声は、かつて競い合った時の熱を一切失っていた。冷たく、正確な機械の演算結果を聞かされているような響き。

 彼は無造作に歩き出した。しかし、その速度は異常だった。

 駆が全力で走って稼いだ距離を、白銀は散歩でもするかのような足取りで、瞬時に詰め寄る。


「……その脚、やっぱり変えたんだな。最新の、メモリア製か?」


 駆は荒い息を吐きながら、白銀の右脚を見つめた。

 純白のスーツから覗くその足首には、生身の肉感は一切ない。カーボンと人工筋肉で構成された、完璧な「速度の結晶」。


「お前も選べたはずだ、駆。あの時、御堂知事の援助を受けていれば、その脚で再び世界を獲れた」


「断った理由は、お前が一番よく知ってるはずだ。……俺は、自分の足で走りたかったんだよ。嘘っぱちのデータに背中を押されるんじゃなく、な」


「生身の執着が、今のその無残な姿か。……残念だ」


 白銀の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。

 次の瞬間、駆の視界から白銀の姿が消えた。


「!? ――がはっ!」


 腹部に衝撃。

 殴られたのではない。白銀が移動した際の「風圧」と、肩の接触。それだけで、駆の身体はゴミ溜めの中へと吹き飛ばされた。

 速すぎる。

 人間の視覚が捉えられる限界を超えている。これが、肉体を捨て、機械の「正解」を手に入れた者の力。


「チップを渡せ、駆。それはお前の人生を終わらせるだけの毒だ。……僕が、お前をこの汚物の中から救い出してやる」


 白銀が再び歩み寄る。

 駆はゴミの中から這い上がり、血の混じった唾を吐いた。

 全身の骨が悲鳴を上げている。右脚はもう、感覚がない。

 圧倒的な絶望。かつてトラックの上で競い合っていた頃の「0.01秒」の差は、今や「神と虫ケラ」ほどの隔たりになっていた。


(勝てない……。普通に走れば、一瞬で首を撥ねられる)


 白銀が手を伸ばす。その指先が、駆のパーカーに触れようとした瞬間。

 駆の脳内に、チップの中にあった「あの光景」がフラッシュバックした。

 血塗られたナイフを持つ御堂。そして、幸せそうに笑う少女。


(……救い出すだと? 笑わせるな)


 駆は、白銀の手をすり抜けるようにして、背後の壁を蹴った。

 狙ったのは白銀への反撃ではない。

 足元にあった、古びた鉄製のマンホールだ。


「白銀! お前は、その綺麗な脚で、この汚泥の中まで追ってこれるかよ!」


 駆は渾身の力でマンホールの蓋をずらした。

 アンダー・シティーの地下を流れる、広大な下水道。そこは有毒なガスが停滞し、最新のセンサーさえも狂わせる、街の「内臓」だ。


「駆! 止まれ!」


 白銀が初めて声を荒らげ、驚異的な反応速度で手を伸ばす。

 だが、駆の執念が、わずかに白銀の指先を上回った。

 かつての決勝戦。白銀が勝利したあの日の「0.01秒」。

 その差を、駆は「死の恐怖」を燃料にして、今、逆転させた。


 駆の身体が、暗黒の縦穴へと吸い込まれていく。


「ははっ……あははは!」


 落下しながら、駆は笑った。

 右脚の骨がボルトを打ち込まれたように疼く。だが、その激痛こそが、彼がまだ生きている、機械ではない人間であるという証明だった。


 ドボン、と汚濁に満ちた水が駆の全身を包む。

 冷たさと腐敗臭。

 しかし、地上で白銀が放つ「殺意」に満ちた光からは、逃れることができた。


 暗闇の中で、駆は意識を保とうと自分の頬を叩いた。

 懐のチップは無事だ。

 上空からは、白銀の舌打ちのような、鋭い金属音だけが降ってきていた。


(逃げ切った……いや、まだだ。ここからが、本当の地獄だ)


 下水道の奥、さらに深い闇へと、駆は右脚を引きずりながら歩き出した。

 彼の「ラスト・スプリント」は、まだ序盤に過ぎない。

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