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第一話:記憶の残滓(ざんし)

 感情の鮮度なんて、せいぜい三日だ。

 三日を過ぎれば、どんなに甘美な記憶も脳の隅でカビが映え、不快なノイズへと変わる。だから人々は、新しい「自分」を買い続ける。


 西暦2099年。ネオ・エデン。

 この街では、記憶こそが唯一の通貨であり、唯一の救いだった。


 空野駆そらの かけるは、黒いパーカーのフードを深く被り、路地裏の湿った空気を吐き出した。二十歳になったばかりの身体は、かつて競技場で見せた躍動感をすっかり失い、ただ重力に従うだけの泥の塊のように重い。

 二年前、国立アカデミーの最終コーナーで、彼の右脚は粉砕された。物理的な骨折は治っても、神経に刻まれた「あの瞬間」の恐怖が、彼の走りを殺した。今の駆にとって、自分の脚は「自分を裏切った異物」でしかなかった。


「……一番安いやつをくれ。できれば、今とは真逆の、綺麗なやつを」


 駆の声は、酸性雨の音に掻き消されそうなほど細かった。

 街の死角に建つ、トタン屋根の露店。通称「記憶のフリマ」。ここでは、真っ当な市民が手放した「不要な思い出」や、出所不明の「感情データ」がジャンク品のように売られている。

 カウンターの奥で、脂ぎった顔の店主がニヤリと笑った。


「安い記憶は、副作用もキツいぜ。お前さんみたいな死んだ魚のツラには、これくらいが丁度いいか」


 差し出されたのは、表面が薄汚れた記憶チップだった。手書きのラベルには『初恋・15歳の夏』とある。価格は1,000クレジット。駆が昼夜問わず、アンダー・シティーの廃棄物回収で稼いだなけなしの金だ。


「これにしろ。誰かの甘酸っぱい夏休みだ。お前のクソみたいな現実よりは、マシな夢が見られるだろうよ」


 駆は無言でチップを奪い取ると、さらに奥の路地裏へと足を進めた。

 首筋にある接続ポート(M-Linkスロット)を、雨で湿った袖で拭う。そこは、人間が人間であるための最後の一線を、データに明け渡すための入り口だった。


「……ああ、クソ」


 自嘲気味に呟き、デバイスを首筋に接続する。カチリ、という無機質な音が脳に響いた。

 刹那、駆の視界はセピア色の光に包まれた。


 ――そこは、潮風の香る海沿いの公園だった。

 蝉時雨が降るように降り注ぎ、肌を焼くような夏の陽光が心地よい。

 自分の視界(記憶の持ち主の主観)のすぐ横には、白いワンピースを着た少女が歩いている。名前も知らない、誰かの初恋の相手。彼女が振り向き、眩しそうに目を細めて笑う。

「ねえ、約束だよ。私たちは、ずっと……」


 駆は、その偽物の幸福に酔いしれた。

 脳が直接「多幸感」を書き換えていく感覚。心拍数が上がり、右脚の古傷の痛みさえも遠のいていく。これが記憶売買の魔力だ。他人の人生を自分のものとして消費することで、空っぽの自分を埋める。


 しかし、記憶の再生が終盤に差し掛かったその時だった。


 少女が噴水の向こう側へ駆け出す。その背景。

 夕日に照らされた公園の茂みの影。不自然に反射する「光」があった。

 主観映像の片隅に映り込んだ、わずか数ピクセルの「異物」。


 駆の「アスリートとしての動体視力」が、意識よりも先にその違和感を捉えた。

 再生を一時停止し、ズームする。脳内のレンダリングが追いつかず、画像が荒れる。だが、そこにははっきりと「男」が立っていた。


 男は、血塗られたナイフを手にし、地面に横たわる「何か」を見下ろしていた。

 そして、男が顔を上げた。

 記憶の持ち主は少女の笑顔に夢中で気づいていないが、背景にいるその男は、真っ直ぐにカメラ——つまり、記憶を記録している「目」の方を睨みつけていた。


 冷徹な、蛇のような瞳。

 その顔には、見覚えがあった。今のネオ・エデンを支配する頂点の一人。次期最高責任者の呼び声高い、御堂みどう げん


「……御堂、知事……?」


 駆の心臓が、激しく警鐘を鳴らし始めた。

 この場所、この状況。二十年前、雨の日に起きた未解決の大量殺人事件。通称「銀雨ぎんう事件」。

 公式記録では、犯人は精神異常の暴漢とされ、すでに射殺されたはずだ。だが、この「初恋」の記憶の中に刻まれている真実は、全く異なる。


 御堂厳が、自ら手を下している。


「嘘だろ……。これ、偽物フェイクじゃないのか?」


 駆は混乱し、チップを抜こうとした。

 しかし、その時だった。

 背後の闇から、ガシャン、という金属音が響いた。


「……見つけたぞ。イレギュラー・データ」


 駆は反射的に振り返った。路地裏の入り口を塞ぐように、数人の男たちが立っていた。

 彼らは警察の制服を着ていない。だが、その装備は正規軍を凌ぐほど洗練されていた。全身を黒いタクティカルスーツで包み、顔には無機質なフルフェイスのバイザー。

 手にしているのは、記憶を物理的に焼き切るためのEMPライフルと、高周波ブレードだ。


「おい、何の用だ……。ここは自由フリーなマーケットのはずだろ」


 駆は後ずさりしながら、右脚の痛みを堪えた。逃げなければならない。本能がそう告げている。

 しかし、リーダー格の男が、一歩前に出た。その動きには、一切の迷いがない。


「空野駆。二十歳。元・国立アカデミーの陸上選手。……不運だったな。お前が手にしたのは、この街の『神』が消し忘れたゴミだ」


「……御堂のことか?」


 駆がその名を口にした瞬間、男たちの殺気が膨れ上がった。


「そのチップを渡せ。今すぐにだ。そうすれば、お前の脳を焼かずに済ませてやる」


「断ったら?」


「お前の『今日までの記憶』をすべてフォーマットし、生ける屍として廃棄するだけだ」


 駆は震える手で、ポケットの中のチップを握りしめた。

 ここで渡せば、命は助かるかもしれない。また元の、泥を啜るような無意味な毎日に戻るだけだ。

 だが。

 自分の人生を諦め、他人の夢で食いつないできた彼の中で、何かが弾けた。


 あの日の怪我。将来を奪われた絶望。それらすべてが、御堂が統治するこの「偽物の世界」のせいだとしたら?

 もし、この一枚のチップが、唯一、神の喉元に突き立てられたナイフだとしたら?


 駆の目が、すさんだ光を捨て、かつての鋭さを取り戻した。


「……悪いな。俺、他人の命令を聞くのは嫌いなんだ」


「死ね、イレギュラー」


 男たちが一斉に踏み込んでくる。

 駆は、動かないはずの右脚に全神経を集中させた。

 痛い。骨が軋む。脳が「無理だ」と叫んでいる。

 だが、駆の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。


「走るのをやめた人間に、二つの道しかない。死ぬか、それとも――」


 駆は地面を蹴った。

 雨を裂き、絶望を置き去りにするように。


 ――一歩ごとに、自分を削る。一歩ごとに、自分を取り戻す。


 空野駆の、人生最期の、そして最大の「ラスト・スプリント」が、今、始まった。


「そのチップを渡せえええ!」


 背後で吠える男たちの声を置き去りに、駆はネオンの闇へと消えた。

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