第九話【サブストーリー】
【刻まれた秒針の向かう先は】
都内の路地にぽつりと現れる、KOMICHIという喫茶店には、一人の老人が営んでいる。
その老人は穏やかで客を安心させるような寡黙さを兼ね備えながらも、その道30年以上のベテランだ。
客の望むことを瞬時に理解し、コーヒーの旨みやポテンシャルを最大に引き立たせる技術。
他にもケーキや料理の数々、そしてマスターの人柄に、心を掴まれて遠方からはるばる来訪する客も少なくない。
そんなマスターに、我々編集部は取材を交渉したところ、これまた快く引き受けてくれた。
「……最近は値上げが酷いもんですから、歳だし、そろそろ畳もうかなァなんて思ってますけどねェ」
「そうなんですか?ここを愛する常連さんも、たくさんいらっしゃるとお聞きしてます」
「そうなんだけどねェ。ま、余程の事が無ければ、数か月の内には店閉めちゃいますよォ」
そう仰るマスターにはどことなく翳りがあって、何か続ける理由が他にもあるのではないか?と、我々は深煎りのほろ苦くも頭が冴えわたるような、味わい深いコーヒーを一口。そして息を整えて、尋ねる。
「このお店を続ける秘訣とはなんでしょう?それから、喫茶店をこの場所で開こうと思った理由を教えてください」
質問している内にも常連と思わしき客が訪ねてきた。
その客はコーヒーとサンドイッチを注文し、傍にあった棚から新聞を取り出し読み始めた。どうやら珍しいことに、ほぼ全ての各会社の新聞を網羅しているらしく、それでも朝には常連が皆読むものだから、ほぼ棚からなくなっているのだという。
「……もう知ってるかと思いますがね。開いたのは20年くらい前で。それより前は10年ほど、別の喫茶店で見習いで働いてました。こことは全然違う場所で、海のよく見える場所でしたよ。
そこで知り合った同僚の女性に一目ぼれをして、深夜にこっそり呼び出して、夜景を見ながらコーヒーを一杯差し出してプロポーズしたんです。そのあとはすぐに結婚しましてねェ、二人でお店でもやろうかぁなんて言って!若気の至りですぐ結婚して店を開きました」
「素敵な出会いですね。それでは、同僚の奥さんもここで働かれていたりとか?」
「……残念ながらもう、亡くなってしまいまして」
「…………そうですか。失礼いたしました」
「いいえ、いいえ。いいんです。でもね、私には……私には、息子がいたんです。今生きていればちょうど、学生服なんか着て、受験勉強に励みながらも、同級生と元気に遊んでるような年頃ですかねェ」
マスターはそう言って、かつての記憶を名残惜しいというように眼鏡の鼻当てを押し上げて。
「何かしてないとね、落ち着かないんですよォ」そう言って冷蔵庫から何やら取り出して、予め仕込んでいたであろうデザートを常連に差し出した。
常連は一礼して新聞を読む手を止める。まさしく昔の時代に伝説と化した、香ばしく滑らかでいて少し固めの、カラメルでコーディングされたプディングのイエローは、まるで美術品の如く洗練された美しさだ。
「美しく愛おしいものは、いつになっても色褪せないものですよ」
「すみませんねェ」なんてまた謙遜して、マスターは我々のテーブルに相対して腰掛ける。
本当に腰が低くて、なぜこんな素晴らしいお店をもっと売り出していかないのかとすら思う。
「さっきの続きですけどねェ、子供も亡くなってしまったんですよ。いや、犠牲にされたんです。この柱を見てください」
マスターが指さした店の数あるうちの木でできた一柱。そこに、小さく数字が刻まれているのが見える。
「赤ちゃんのときからある程度大きくなって、あの柱で身長を図って刻んでいたんですよ。息子がどうしてもって言うもんで、客も子供の身長がどんどん伸びていくのを楽しみにしてまして」
「……小学生頃で、止まってますね」
「私は今でもね、あの身長が上に上にって、刻まれてほしくて。だからこの店を続けてきたんですよ、いつか帰ってきてほしいから」
「その、あまりこういう事を聞くのは良くないとは思うのですが。お子さんはどうして、亡くなられてしまったんでしょうか」
「実はね、息子は中学生になって留学に行ったんです。憧れの海外の地で、戦争の道具にされました」
「それは…!国際問題に発展するじゃないですか!」
「それが、聞けば息子は自ら志願したのだと。その国の迫られた現状を知って。…よほどその国のことが好きだったんでしょう。志願したら、それがあっさり受け入れられて、犠牲となった」
「ではあくまで、自分で志願したのだから自己責任、だと」
「自己責任な訳があるものか!!」
マスターは怒りで我を忘れたかのように机をたたいたが、やがて「…失礼」眼鏡をかけ直し、言葉を続けた。
「自己責任という言葉はね。その留学先の国に言われたのですよ。なんでも大国であっちこっちに戦争を仕掛けてるとかなんかで、その地に妻と私は乗り込んで、直接話し合いました。でもね、彼らはこういったんです。『彼の意志は確かなものだった。我々は関係ないとは言えないが、相手が居る限り、戦争は続く』と。
……でもね?尊い私の大事な息子の、命が失われて良い道理にはならないでしょう。…結局、使い捨ての駒としか見ていないのです。戦争なんてしている野蛮人共は」
かなり強い言葉ではあったが、それも確かな現実なのだと、重い息を呑み、話の続きを待った。
「先ほど私は、美しいものは色褪せないと言った。…ですがね、それらを失った悲しみや、後悔。憎しみもまた、色褪せないのですよ。こうして時を重ねても、未だに夜夢を見ていると、息子が苦痛に顔をゆがめる姿が何度も浮かんで」
「マスター……」
我々はどういう言葉を駆けたら良いのかも分からなくなってしまった。だが、雑誌の記者として、マスターの心の内の悲しみを。はたまた、願いを。このメモに記録しなければならない。
――そして、二度とこのような悲劇が訪れない様に。
「なので私は、息子がもしかしたら戦地をなんとか生きて逃れていたら、ここに帰ってこれるように。喫茶店を続けているんです。……いつか来る、その日まで」
冷め切ったコーヒーは、舌にも、そして心にも。現実の果てしない苦みと絶望を交えながらも。
我々にも先ほどのプリンをマスターが提供してくださり、その味はコーヒーとよく似合っていて、秘められた微かな希望を見出してくれる。
「取材を受けてくださり、ありがとうございました。我々はマスターに、これから幸多き人生が訪れるように、祈っています」
「こちらこそありがとうねェ。もう、誰かに話さないと、自分一人じゃ抱えきれなくなっちゃってさァ。ほら、キミたちが来たときも私、眠ってたでしょ?……もう死に際が近くなるとね、境目が分からなくなって、眠くなっちゃんですよ。ま、お客さんがたいてい起こしてくれるんだけどねェ!オッホッホ!」
「では我々も、また桜が咲いて春の百舌鳥が知らせる頃に。マスターを起こしに行きますよ」
「もう、さっき閉めるって言ったでしょォ?いやあー、まあ。私にとってはとても。……とても、嬉しい知らせです」
我々はKOMICHIを後にした。しばらく歩いて、振り返ると、そこはいつものオフィス立ち並ぶ都心の街、S区で。
先ほどの出来事は、つい、幻に迷い込んでしまったのかと思ってしまう。
それほどまでに、普段の喧騒を忘れさせてくれる。
至極の一杯を、あなたも味わってみてはいかがだろうか?
――雑誌『特集!S区の知られざる隠れ家巡り』より、抜粋。




