第六話
何時間、走り回っただろう。
探せるだけの場所は探した。公園や建物、工事現場っぽい場所に赴いては、居そうな場所がなければ次の駅へ向かい、また降りて探す。
すれ違う人込みも、できるだけ一人ずつ顔を見て確認した。ただ、どこを探しても作業をしている場所というのが見当たらない。
徹夜をしていたこともあり、とうとう体力が底をつきかけていた。
もうきっとあいつのことだから、元気に仕事をこなして帰っているだろうか。……いや、駄目だ。俺は、一瞬でも。一瞬でもあの時、こいつのことを守りたいと思った。――だから。
ビル前の縁に座り込む。
意識が朦朧とする中、視界で捕えたのは、見覚えのあるピアスの煌めき。
「…………曖永ッ!!」
叫んだが、聞こえているはずなのに、まるで届いていないみたいにそのまま走っていく。
俺は全速力で追いかけたが、どんどん突き放されていく。間違いなく、この身体能力の高さは本人のはずだ。
「クソッ、このままじゃ追いつけねえ……!おい、曖永、聞こえてるだろ!」
返事も何もなく、ただただ走り続けている。荷物らしきものは、何も持っていない。それに服は泥だらけで、あちこちに打撲のような痕があった。
曖永らしくない素振りに、俺は嫌な予感がさらに心の底に溜まっていくのを感じた。
「こうなったら頭を使うしかねえな…!」
――このまま真っ直ぐ行くルートには、途中に踏み切りがある。
一瞬でも視界から目を離すことに不安を覚えながらも、俺は己の確信に従って、道を曲がった。
急いで走って歩道橋を渡り、こっそりと遭遇する予測地点に身を隠す。
間一髪、俺の方が先にたどり着いたようだった。
「お前、本当に曖永なんだよな…!?」
強引に通り過ぎる腕を掴む。曖永の頬から、顎を伝って、雫が滴り落ちる。
背中越しですら伝わってくる。悲しみ、怒り、そして。
――俺は、驚くほど冷め切った身体を抱き寄せた。
「何があったのか、お前が何を背負っているのか。俺には分からない。……ただ、お前が笑えないなんて、間違ってるだろ」
こいつが笑うことを忘れたことがあっただろうか。
あの眩しい笑顔が、失われてしまうことがあっていいのだろうか。いや、そんな訳がない。
「また、かえるばしょ、なくなっちゃった」
とにかく俺は、目の前の天使がどこかにいかない様に。
「そんな訳無いだろ。ある、あるんだよ、ここに」
背中をとんとんと叩いては、すっかり濡れてじっとりした髪を優しく梳いた。
「店長から聞いたぞ、お前随分無茶してるんだってな?今日も工事現場で仕事だったのか」
「……うん、僕倒れちゃったんだ。仕事のノルマが達成できなくて、社寮から追い出すって言われて、大家さんにも意地悪されて。それで――」
「わかった、もういい。いいから、今日から俺のところに来い。お前一人、養うくらいはできる」
「だめだよ!迷惑かけちゃうし、イズミさん、前言ってた。……人は誰しも平等じゃないって」
こちらに向き直った時の、初めて正面から見据えた曖永の真顔に。ダチョウの面影がふと蘇る。
――それが急に、なんだかおかしくなってきて。
「わ、笑うところだった……!?」
「ハハッ!……正直、おれさ。お前に会うまで、辺鄙な場所に左遷なんて言い渡されて。……このままじゃ生きていけねえて、そう思ったんだ…っと」
「うわあっ!?」
軽く笑い飛ばして、ふっくらとした頬を両手で包む。
そして、驚くほどの軽さに唖然としながらも、有耶無耶と遠慮する曖永を勝手に背負ってやった。
俺が歩くにつれて、曖永は安心したように、俺に体を預けてくれる。
「夢があるんだろ、お前。…国境も、海も渡ってきて。俺を探しに来てくれてたんだろ?」
「…………イズミさん……」
「お前がいるならいいさ。そう、良い気がしてきたなって、やっと、分かったんだよ」
直接触れているその身体が、また小刻みに震えているのが伝わってくる。
それと同時に、曇天の雲間から差すひだまりの温かさと、すすり泣く細い声に、目を閉じて。
「……って言ったら驚くか?ハハ、まあその様子じゃ、既に豆鉄砲食らったみてえに度肝抜かれてるか!」
「イズミさん、僕もね。イズミさんのこと、初めて会った時からずっとずっと、大好きだったよ」
「な…………お、俺はまだ好きとか――」
直後、グ~という音が自身の腹から鳴り響いて。すすり泣く声が、ころころと笑い声に変わる頃。
遥か遠くから、学生鞄を肩にかけた若いころの俺が、羨ましそうに笑ってこちらを見つめている気がした。
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「おーい、着いたぞー」
随分ぐっすり眠っていたようで、「んー…」目をこすりながら、眠たそうに大きなあくびをしていた。
すっかりS区も、この閑静な住宅街も、静かな夜が訪れている。
クソ狭い玄関に、俺の革靴と、曖永が脱ぎ捨てたスニーカーが並んでいて。
「聞きたいことは山ほどあるけどな。まずは風呂でも浴びてこい」
俺の家はアパートの一室で、まあ、ごくある普通の1LDKという一人暮らし用の賃貸だ。
今にも眠りこけそうな曖永に都度声を投げかけながら、袖口をひっぱったりなどして、とりあえずびしょ濡れのジャンパーを脱がせる。
そうして腕の肌が見えた瞬間、俺は目を見開いた。
「お前、刺青いれてたのか……!」
「んん……昔、ヤンチャしてた頃ね」
こいつがヤンチャなんてするのか?と、かなり大きな刺青に驚きながらも、とにかく風邪をひかない様にと風呂場の椅子に座らせる。
「服おいとくからな。……まあ、俺の寝巻しかねえからすこしブカブカかもしれねえけど」
「…ふふ。イズミさんって身長大きいもんね。てっきり、女の人の寝巻とかあるんだと思ってた」
「ば……っ!お前な、この部屋には誰一人、居れる予定はなかったんだぞ!誰一人な!それに俺は平気で遊ぶやつなんかじゃねえ」
勢いよく扉を閉める。眠そうに目を細めて、少しいじらしそうに言うもんだから、余計に変な意識ばっかりしてしまう。
シャワーの音が聞こえる扉を背に一息ついて、カーテンを閉めようと部屋に入り、ふと窓の外を見下ろす。
――こんな深夜に、見慣れない軽バン。
俺は多量に傘立てに置いてあったビニール傘の一つを手に、アパートを出た。
外階段を一段ずつ降りていく。雨粒がビニールにパツパツと激しくたたきつけ、傘の先端から雨粒が枝垂れて。
アスファルトに落ちる瞬間、そこに映っていたのは、サングラスをかけた黒いスーツをきた男だった。正装ではあるが、身なりでは誤魔化せない危険さを纏っている。
「脱走したやつが逃げ隠れたのがここだって聞いてな。大家のばばあが、あいつの荷物全部これにつめてやったんだ、感謝しな」
鼻で笑いながら、男はそう告げた。
地面に乱雑に放り投げられた荷物を見て、そのまま、目の前に立つ男を一瞥した。
「ただで逃がしてやるって言ってるんだ、これでも大分、マシなほうだろ」
「ふざけんじゃねえ。あいつには打撲の痕もあった、それから、あいつが倒れてからも過剰に働かされてるってことも」
「……あいつの身分がどんなもんか知ってるか?技能実習生、だそうだ。使い放題のサブスクさ、意外と便利なもんだぞ?」
気づけば俺はそいつの胸倉をつかんでいた。こういう、人を使い放題だのと、自己中心的な考えのやつには心底吐き気がする。
目の前の男の背後で数人動く影が見えたが、構わず声を荒げた。
「だからって人を使い捨てるのか?良いご身分だな、一発ぶん殴らないと目冷めねえかお前」
「分かるだろ?命の保証なんて簡単に搾取されるし、放棄される。先進国の文明で生きるっていうのは、こういうことだ」
「…………お前みてえな腐りきった奴には理解できねえだろうな。話の無駄だ。もうこれ以上、あいつに関わるな」
「……チッ、食い扶持を見つけたか」
唾をアスファルトに吐き捨てると、男たちはぞろぞろと軽バンに乗り、そこには俺と荷物だけが残された。
そしてエンジンが入ったのを合図に、俺が背を向けた瞬間。
「……お前、後悔するぞ。そうやって情けをかけた脇の甘いやつほど、身を滅ぼしてくんだからな」
最後の実に情けない捨て台詞を耳に、俺は外階段をあがっていく。
そして外の渡り廊下に視線を移した瞬間。
なんとも寒そうに、クロックスを履いて、素っ裸にタオルを巻いた曖永が、とても心配そうにそこに立っていた。
「――お前、そこで見てたのか!?」
「…………ごめんなさい。僕も何か言おうとしたんだけど、足が。動かなくって」
「良いんだよ。ほら、荷物も回収できたし、これでお前を傷つける奴はいないから安心しろ」
「でも僕がここにいたら、またああいう人たちがここに来るかも…」
「この期に及んで何言ってんだ。お前らしくないぞ?…ほら、早く帰ろ」
服を着させて、正面に曖永を部屋のカーペットに座らせると、ドライヤーで曖永の髪束をほぐして、丁寧に梳きながら乾かしていく。
今になって寒さがぶり返してきて、「へくしゅッ」くしゃみが出た。絹糸のように滑らかな毛がさらさらと揺れて、曖永はくすぐったそうに、どこか嬉しそうに、あぐらをかいて体を左右に揺らしていた。
「イズミさんはまだお風呂はいってない?」
「あー、わすれてた。先寝ててくれ、ベットはー……ん」
ドライヤーの熱でもあたったか?
いや、それにしてはなんというか、柔らかい感触。というか。
「…………準備して待ってますね?」
耳元で囁かれた一言が、壊れかけたビデオテープのように繰り返されて。
俺はシャワーを浴びながら、あれやこれやの想像をしてはツバをぐっと飲み込み。
――そうして、覚悟して風呂場を出た。
「お前の覚悟は受け取った。今夜――は?」
「じゃじゃーん!どう、驚いた!?食材は全部僕の荷物に詰め込まれてたから、たくさん作っちゃったよ〜〜!」
「…………………………さっきの」
「イズミさん?」
「さっきのキスは」
「ただの挨拶だけど?ああ、僕の国だと親しい人への挨拶で、軽いスキンシップはよくやるんだよ〜!」
実に食欲をそそる香辛料とスパイスが効いた曖永の手料理を、「しみるぜ…………」かき込んだ辛さでショックを流し込みながら。
その晩はまるで穏やかに、お互いに爆睡した。




