第三話
すっかり日が暮れた、とある先方との商談後。
後輩と二人で喫煙所に入ると、ようやく一息つくことができた。
「今回も逗口さんのおかげで、スムーズに事が運びましたよ」
「このまま俺についてくれば心配ない。……って、かっこつけたかったんだがなぁ」
「先輩……」
後輩の西川は至って俺なんかより真面目で、唯一振り回す俺の右腕になってくれる頼もしい存在だ。
ただ、穏やかで真面目であるが故に利用されやすい。こいつを置いて行ってしまうことも、俺の胸に蟠りが起こる要因の一つとなっていた。
「しかし、よりによってあんな田舎ですか。酷いことしてくれますよ、部長も。上も」
「俺のごま摺りが足りなかったんだろ」
「違いますよ!そういうことにして、目の上のたんこぶ扱いで、先輩をコケにしてるんだ……!」
結局、俺でさえ掌の上の駒だ。地位や権力にしがみついて。でもこうする事を、こうなることが、きっと幼いことに夢見ていたのだとしたら。
俺は時々、過去の努力に足が竦むことがある。
「私のせいですよ。もっと逗口さんの成績をアピールできていれば……」
「いや、いい。やめてくれそんな事。むしろ、お前がいなけりゃ失敗してたプロジェクトだ、そんなに気負うなよ?」
「違いますよ。先輩だから頷いてくれたし、ついてきてくれたんですよ」
そういえば、少し気弱だけど情に厚い西川と、最初からアクセル全開の曖永。この二人なら良いタッグを組めそうじゃないか?
そんなことを考えながら、しばらく休憩した後に、車で軽く食べてから会社に戻ることにした。
「ところでそれ、最近ハマってるんですか?噂になってますけど」
「はあ?この、ケバブがか?」
「ええ。女性社員の間で。なんでも連日食べてるから、奥さんの弁当かって」
「なんでそうなるんだ……」
もし仮に毎日曖永の料理を食べていたら、ふんだんに使用されたチリソースによく分からない木の実などのスパイス。そして香辛料の数々に、胃腸が何倍も鍛えられるだろう。
――それにしても、地球に忘れ去られたような。寂れた田舎の隅に、左遷。
運転しながら遠くのビル街を眺める。こんな結末の自分を、正直、惨めで仕方がない野郎だと感じることもある。
それでも、このケバブを食べたら。
『イズミさん!』
あいつの天真爛漫に満ちた笑顔が浮かんできて。
あれだけ絶望的であったこの状況が、口にした途端に、まるで身体が生きる意味を渇望して、人間の元来の意地……のようなものを呼び醒ましてくれるような感覚を覚える。
「青信号ですよ?先輩」
「ああ。俺の前じゃ、赤信号は全部進めのサインだ」
助手席に座る西川の蒼白な顔をよそに、俺はクラクションとアクセルペダルを思い切り踏み鳴らした。
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ここには、僕を知る人は誰もいない。
それは、初めて訪れた時の街の中を、思い返しながら。
「@#";~=//#$?」
「=+$@!+¶‡℃№!」
時折、『一人で淋しくないのか?』そう聞かれることがある。
僕にとっては、誰かと一緒にいるほど、寂しくなってしまうから。
それでも僕は、誰かと繋がりたくて。
「僕は人々が幸せに暮らしていることが、たまらなく愛おしくて、大好きだから」
だから、いつだって選択を迫られるとき、僕はね。
遥か遠くの声援に耳を傾けながら、自分の胸に問うだろう。
そして僕こそは、ここに在るのだと。そう信じて、朝の日差しに安堵して、目を覚ます。
――皆のために。僕だけはずっと、覚えているから。
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「迷惑かけてすみません。こいつのことよろしくお願いします。……おい、家の玄関まではちゃんと歩けよ?」
「そげいわかんとくっちゃダダねんね〜〜〜!」
「こいつ酔うとなまり癖強ぇ方言喋るんだよな……」
仕事終わりに西川がタクシーで帰るところを見届けてから、気づけば俺は、会社近くにある公園に来ていた。
ここはでかい噴水に動物園と絶好のデートスポットなので、俺に全く縁はないのだが、意外と収穫があったりする。
些細な日常の気づきから、仕事において鍵となるアイデンティティやファクターというのは生まれるものだ。
「でもなあ、あー、やっぱり今日は帰るか」
ある程度呑んでいたいうのもあるが、ここ最近は余暇に気力を使う余裕もあまりなかった。早めに飲んで切り上げていたのでまだ夕暮れ時なのだが、そろそろ帰るか。……と、吸っていたタバコを靴裏でなじって重い腰を上げたところで。
「…………さ………………さ……ッ…………!」
このS区にはそぐわない、例えるならば、野生の足音だった。
ああ、この足音は間違いなくダチョウだ。頭がちっせえ割に体力バカで速い。
そういえば動物園があったと聞いたしそこから逃げてきていて明日には俺とダチョウが新聞記事の一面に載っているだろう。
「イズミさああーーーーん!!こんばんはあ!もう〜隣駅から姿が見えたから一生懸命走ってきたのに……タバコを捨てたら駄目じゃないですかぁ!ってイズミさん?!」
「……おま、それ何キロ先………………」
恐ろしげな足音と飛来物に、俺は勢いよく吹き飛ばされ、地面にめり込んだ。
人間離れした曖永の身体能力が発覚したところで、とりあえず俺達は近くにあったベンチに座った。
「ここらへんでうんこした?」
「銀杏の匂いをうんこっていうやつは一回食ってみろ。それに臭えやつほどうまいもんだぜ?」
「でもまだ故郷にいた頃に、おんなじような臭いフルーツは美味いか腹壊すかの二択だったよ」
「そりゃ腐ってるだろ……」
落ち葉をサクサクと闊歩して、柄にもなく遊具が置いてある一角で、俺達はブランコに乗っていた。曖永は立ちこぎしながら大あくびをして、どこか遠くの方を見つめている。
「ケバブおいしかったよ。ありがとな」
「えへへ、イズミさんが食べてくれると作りがいがあるよ〜!」
「もうお前喫茶店じゃなくてさ、ケバブ屋でもやったほうがいいんじゃないか?」
「えー、そっかあ。うん、それもアリな気がしてきた!」
こいつの国は案外能天気なのかもしれない。待ち合わせをしても時間通りに来ない、なんて常識破りが当然な国があると聞いたことがあるが、曖永の国も、時間に縛られるような文化ではない気がした。
「全然街並みが違うだろ、ここ。今度俺は、こんな辺鄙な場所で働かなきゃなんねえらしい」
……なんでこいつに真っ先に打ち明けたのか、自分でもわからなかったが、スマホの地図アプリで指差しながら曖永に画面を見せる。
「わあ〜、自然がいっぱいでいいところだね!海も近いし。イズミさんは、魚好き?」
「俺は肉食だな、牛が一番うまい。魚ってのはどーも小骨が気になっちまって。今度お礼にいい焼き肉連れてってやるよ」
「焼き肉食べたい!ねえ!ねえイズミさん、早く連れって!」
「ちょっと落ち着けって!お前肉に対する食いつき凄いな!」
俺が乗ってるブランコの鎖を揺らすので、うっかりブランコからコケてしまうところだった。
「でもここ、僕の住んでる国とちょっと似てて良いところだよ!きっと!」
「ほおー、そうなのか」
「うん!こういう空地の倉庫で、野犬と羊、ピストルを手に雑魚寝したりぃ。こういう広い道路でスリとバイクで鬼ごっことかねえ!」
想像を絶するサバイバル具合に、俺は呆気にとられることしかできなかった。ピストルを手放せないということは、治安はあまり良いとは言えないだろう。
「最近来たんだっけか」
「うん!喫茶店で働き始めたのは夏ぐらいだったかな?」
「あのさ。……どうして、ここに来たんだ?……ああ、何も別に疑ってるわけじゃねえんだけど」
こいつにならと。ちょっとだけ、打ち明けてみたくなった。
「これまでの人生を何もかも失ってしまうような恐怖って、あるだろ。人は誰しも平等じゃない、この国は出自やら学校やら、平和を享受するためのふるいがある。……で、それを外れたら、戻ることも進むことも、難しい」
目の前を学生たちが、フラペチーノを持ってケラケラと笑い、通り過ぎていく。
その奥の、木々の傍では老人が、段ボールを広げ、地べたで布団に包まって縮こまっている。
当たり前の差別を前に、俺たちは見て見ぬふりをしている。そんな違和感と恐怖に、俺はどうしようもないままでいる。
「ごめん、いきなりこんな話されても、分けわからないよな。忘れてくれ」
「多分きっと違うよ。イズミさんは、その道を外れることに怯えてるんじゃない。最初から決めつけるんじゃなくて、立ち止まって考えることも、とても大事だとおもうから」
ブランコの鎖の擦れたキィキィという音が、やがて小さくなって、ピタリとやんだ。
「さっきの答えだけど」
烏が興味ありげに、電柱の上から、俺たちを見下ろしていた。
途切れ途切れの時報が空にこだまして、俺の心を妙に焦らせる。
「僕がここに来たのは、イズミさんに会うため。…って言ったら、嫌われちゃう?」
それは久しく忘れていた、何よりも温かな体温で。
曖永の指先はまるで燃えているように、外気でひどく冷え切った俺の耳を優しく撫でて、はにかんだ。
俺はつい、その手を、掴みかけて。
「…………ッ!」
その手を、振り払ってしまった。
「い、イズミさん……ごめんね。急に触れてしまったね」
「違うんだよ、これは俺の問題で!……その、あー」
「………………あれ?」
――俺にとって、かつて憧れていた青春というのは、同時に愛する人を傷つけてしまうことでもあった。
それもそのはず、噂なんて一瞬で広まるし、”同性恋愛”なんていうのは、暇な奴らの格好のいじりになる。
けど正直、こうやってブランコとか公園で遊んだり、放課後に手を繋いで一緒に帰ったり。或いは、あの場所で夜景を見るというのも夢のまた夢で。
「イズミさん、風邪ひいた?額もちょっと熱い……」
「だあああ!!気にするな、近い!そ、そうだ!お前さ、これから一緒にくるか?このS区を見渡せる良い場所があるんだよ」
「わああ!行ってみたい、行ってみたいです!!この辺りのことまだ知らないから、連れてってください、イズミさん!」
「よし、そんじゃ行くか!」
過去の俺なら、こんな選択を選ぶことはなかっただろう。このまま諦めて、お別れしてしまう筈だった。
振り払った手を、また握り返す。
強く、強く。
心なしか曖永の頬も夕焼けの色を反射したように、赤らんでいて。
まるで夢のような居心地のまま、俺は曖永の小さな手の感触を確かめながら、とある場所に向かった。




