第十五話
――あれから、一年の月日が流れた。
人は、真っ先に、その人の声を忘れてしまうのだという。
それがどれだけ自身において大事な人であれ、いずれは見た目や、どんな感触だったかでさえ、鮮明に思い返せなくなる。
――ただ、通りすがった家の、焦がした醤油の香りだとか。ラーメン屋から香る、肉の旨みだとか。すなわち、『香り』というのは、そんな記憶を呼び醒ます事さえある。
それは、とある商談のあとで、洋食屋のランチを食べていた時だった。
正直、店主の顔すら見たくなかったあの店には行けていなかったが、以前西川が話していた、喫茶店の知り合いの存在を思い出した。
「いらっしゃいませえご主人様〜〜!」
「おい、ここに姫華たん推しの眼鏡かけたドルオタはいるか」
「えええっと、少々お待ちくださいませぇ……」
何やら怖いね〜だとか、でもワイルドでメロい〜だとか小声で囁いてるのが聞こえてくるが、それらを全部無視して、とあるテーブルの前についた。
「えっと、僕が指名した楓夏ちゃんッスか……?」
「なんか文句あんのか。……よし、当たりだな」
「いやいや何の当たりっすか!?俺怪しい借金はしてないッスけど!」
「闇金じゃねえよ」
楓夏ちゃんとやらが「お待たせいたしましたぁ」と怠そうにパフェを置く。丸眼鏡をくいっと押し上げて、その学生――獅鹿という男は、すっかりドン引きしている様子だった。
ただ、やがて「あ」と思い出したように声を発して、俺を指さした。
「もしかして曖永っち推しのリーマンってあんたのことッスか!?」
「なんだ推しって。まあでも曖永を知ってるってことは、お前もあの喫茶店の客だったんだな」
「当たり前っすよ!恋愛相談してもらってたんスから!」
「…………あいつ、そこまでの恋愛経験が……?」
ドルオタだとか推しだとかは西川が普段から口にしている『言葉遣い』のようなもので覚えてしまったのだが、もし曖永がアイドルなんてことがあったら、ステージ場から俺目掛けて飛んできそうだ。
「お前に会いに来たことは内緒にしといてくれよ。あいつ……西川には、あんま知られたくないんだ。俺が曖永に、未練を抱いてるとこな。あんま変な気苦労かけさせたら悪ぃし」
「はあ。でもま、ここまで来たってことは当然、曖永っちのこと聞きたいんスよね?」
「話が早くて助かる。……俺は、真相を知りたいんだ!……あの一年前、どうして温厚な店主が、あんな風に変わっちまったのか」
時間が解決してくれる。なんて、そんなの嘘っぱちだ。どんだけ仕事で忙しかろうが、仕事が成功して幸福感を得ようが、あの温かさに縋りたくなる自身の弱さに毎日打ち拉がれた。
――だから、もう一度。こんな場所でも、今度は俺が、曖永がいつでも帰ってこられるような世界を作りたい。
「風当たり強かったスもんねぇ。誰もが正義感に感化されて、平和の意味を履き違えた。そんで残念だけど、マスターもその一人だった。
……いや、俺もキレましたよ、キャラじゃないッスけど」
高く積み上げられたパフェの天辺にあったイチゴにフォークを刺すと、それを口に運びながら。
その男は一年前の、事の顛末を語り始めた。




