第十一話
それからというものの、俺と曖永が過ごす時間はあっという間にカレンダーのページを捲って、とうとう最後のページになった。
曖永は喫茶店と掛け持ちして、色んな場所で働いていた。
ある時は牛丼屋で、曖永のアレンジレシピがSNSで広まるほど話題となり。ある時はコンビニの店員として、勝手に仕入れたスパイス商品の数々が爆売れし。ある時はスーパーで、曖永の作った試食が大好評。なんならイベント会場のスタッフだった時は、物販列でノリで歌ってダンスしてたら、長蛇の列で退屈していた客たちも盛り上がって、暫し話題になっていたらしい。
「お前ならもっとマシな職場就けるだろ。探してやろうか?」
何せ、そういう職場は言っちゃあ悪いが、給料が低い。それに誰でもできる仕事で、末端はどうしても搾取される弱い立場になってしまう。今後、曖永が暮らしていくようにするなら、もっとその才能が活かされて、給料や安全が保障された雇用があった方が良いだろう。
そう聞くと、曖永は必ず決まって首を横に振って、「近い場所がいいから」と言う。俺はその言葉の真意がよく分からなかったが、日に日に働き帰ってからまるで心あらずで、それでも「おかえり」と声をかければ微笑みかけてくれる。だが、どこか自暴自棄で、懲罰的で顧みずな行為が、心配だった。
――曖永はどんな時も常に笑顔だった。だから、あの夕立の日の、口をぎゅっと固く結んで、魂が抜け落ちたような傷心しきった後ろ姿を思い出すたびに、胸が痛む。
「行ってきまあす!…い、イズミさん、ハグは嬉しいけど苦しいよ~!」
「アハハ、すまん。お前のこと……。あったかいからさ、つい抱きしめたくなっちまうんだよ。気を付けてな」
「……えへへ!じゃあ、またね!」
来年には俺は、ここを出なくちゃならない。
それに、海外に行く夢だってある。でも俺は、この生活を終わらせたくない。……でも曖永のことだって、見捨てておけない。ただ、今のこの国は、自由に生きるにはあまりにも歪みすぎている。
俺たちが一緒に歩むにはどうするのが正解だ?そもそも、正解があるのだろうか?
ただ、今は。曖永の縛られることのない自由な笑顔を、この四角い額縁から見送ることしかできなかった。
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――それは、お昼をそろそろ迎えようという頃合いで。
退勤間際、いつものように時間をとって、デスク周辺の整理をしていた。あれだけ床にまで山のようにあった書類も大分片付き、ようやく西川のような整ったデスクになった。というかこれが、本来あるべき環境なのだろう。
「逗口さん、お客さんが来てるよ」
「お客さんですか?今日は特に打合せの予定もないですけど」
「そうは言っても、宅配か何かなんじゃないですかね?台車にたくさん乗ってるけど」
「ええ!逗口さんおごってくれるんですか~?」
「そうじゃねえって!誰かの間違いなんじゃないですかね。まあいいや、ちょっと言ってきます」
そう言ってロックを解除し、扉を開けたその刹那。
目の前にいた人物に、俺は目を真ん丸くして、
「なんでおま、ここにいるんだよ!?」
ついフロア内に響くほどの大声で驚いてしまった。
「KOMICHI出張サービスでございまあす!ダッシュで運びましたので、まだ熱々のうちに。どうぞ!」
「いやどうぞ!じゃねえって!つかこんなにケバブ食えねえよ!」
「……あ、来た来た。ありがとうございまーす」
「って西川、お前が頼んだのか!?お前らいつ知り合ったんだよ!」
「この前、喫茶店の常連さんとニシカワさんとでお出かけしたんだあ!…あ、そうだ。美味しくなる魔法かけますね~。僕の愛を、ニギニギこめて。もえもえキュン♡」
「……………………おい、お前変なこと吹き込んでんじゃねえだろうな」
「ちちち違いますよ!?というか久々に先輩の鬼の形相見たけど怖すぎる…!」
西川を尋問してやろうとでも思ったが、どうやら話を聞けば、俺の送別会ランチをやろうと計画をしてくれたらしい。
「それで、俺の好きなケバブを皆で食べようってことだったのか」
「そうなんですよ!ランチにみんなでってことで、他にも飲み物とか用意してますから、曖永さんも良かったら一緒にどうですか?」
「ええ、いいんですかぁ?じゃあ僕も――」
「えっとぉ君部外者じゃないのかね?ああ、というか逗口くんがよく食べてたケバブ、彼が作ってたの?」
「……部長、来てたんですか」
運悪く会議がちょうど終わったようで、廊下から歩いてきたのは俺に転勤命令をした部長だった。
拙いな、部長と曖永はおそらく相性が悪い。部長はまあらしいっちゃらしいが、ふんぞり返って他人の悪口を惜しまない、なにより自己中心的な狡猾さでのし上がってきた奴だ。
「まあ見たところ出稼ぎで来た貧乏な乞食かぁ。あんまこういう所で買うとねぇ何入ってるか分からないからさあ、食べない方がいいよ?ウェッヘッヘ!」
それらしい価値観で見下し、高笑いするその面をぶん殴りたくなったが、なんとか拳を強く握って怒りを収める。
「俺のために西川が頼んでくれたんですよ。部長もまず食べてみてください」
「ええー、ちょっともう臭いが無理無理ぃ。私の分も君たちで食べて良いよ?」
「ブチョウさん、お口に合うかどうか分かりませんけど。僕、朝から特別な仕込みをして作ったから、いつもよりきっと美味しいはずです。どうか、食べてくれたら嬉しいです」
「はあ?誰が食べろってえ?大体君らね、図々しいんだよ~集団で固まってくっちゃべってさあ、治安悪くしてる自覚ないのかね?ま、そもそも言葉すら分からないのに説教しても無駄かね?」
「……それって、誰のことですか」
「ああ、そういえば部長!さっき課長が呼んでましたよ」
「うわあまた呼び出しかぁ。じゃ、逗口くんも達者でねえ」
「……すみません、曖永さん。せっかく運んできてくださったのに。また食べに行きますね」
「…………ありがとう、ニシカワさん。それじゃあ、失礼いたしました!」
慌てて走り去っていく曖永に、声をかけようとしたが、上手く言葉が出なかった。
名刺まで渡していて、もし西川と組んでたら?なんて、いま巡り会えたことにも、心の底で舞い上がっていたのに。いまは何もできない俺自身をぶん殴りたい気分だ。
「部長ってああいうところありますよね。何なんだよもう……」
「曖永……」
あいつは笑って誤魔化す癖がある。踏みにじられて、いわれのない暴言を吐かれて。怒っていいはずなのに。
「冷めないうちに食べましょうか」
「……そうだな」
その後、リラックススペースを借りて俺の送別会が開かれた。皆が俺に声をかけてくれたし、ケバブを美味しいと言ってくれた。
この声を直接曖永に届けられたら、どれだけ良かっただろう。あんな顔、させたくなかったのに。
喉も通らず送別会は終わり、仕事を済ませてから喫茶店に向かった。
早めに片付けたのでクローズまではまだ時間があったのだが、そこに曖永の姿はなかった。
「ああでもねェ、お客様に伝言がありますよ。『帰ってくるから心配しないで』って」
大慌てで走ってきたもんで、前髪もくしゃくしゃなまなカウンターに座った俺に、店主は温かい湯気とともに差し出してくれた。
冷え切った喉がぽかぽかと温まり、シナモンの香りに、焦や緊張が鎮まっていく。
「このシナモンカプチーノはね、曖永くんが母国から持ってきたシナモンで作ってみたんだよ。良い香りするでしょ?きっと、素敵な場所に住んでるんだねェ」
ただ黙々と、ゆっくりとその時を味わう。
今までの俺には無縁だったし、こういう時間があるとすぐ暇な時間を埋めたくなって仕方がなかった。
ただ、余白があることで、ふと突拍子もないアイデアが生まれてくることがある。
「このあとどこに行ってたかって聞いてます?」
「電車で向かうって言ってたから、きっと帰りも電車なんじゃないかなァ?」
礼を言って喫茶店を後にすると、俺は真っ先に自宅の最寄駅へ向かった。
途中、スマートウォッチに出てきたニュースで『人身事故』の文字を見る。ちょうど最寄り駅の路線だ。
そのまま俺は、改札横で待ち続けた。電車が停車し、改札から人が流れ、また電車が停車し、改札からまた大勢と流れていく。
目の前の蕎麦屋の明かりがついた。隣にあった駐輪場から、自転車がほとんど無くなっていく。道路を挟んでさらに隣のコンビニから、部活帰りなのかスポーツバッグを背負った学生らが出てきて、並びながらフライドチキンを食べて通り過ぎていく。
長時間待ち続けていたが、シナモンカプチーノのおかげか、身体の芯がぽかぽかとして、寒さをあまり感じないまま。
そうしてようやく俺は、大勢の中で、たった一人の腕を掴んだ。
「ごめん。傷つけて、本当に、ごめん」
花束を抱えていることに気づいた。曖永はきょとんとしていたが、やがて笑い声をあげて、
「もしかして心配で待っててくれたの?アハハハッ!…たった今、全く気にならなくなりました!それに、イズミさんの会社に忍び込む夢が叶ったもん!」
「ってもともと忍び込むつもりだったのかよ!」
いつもの調子でつい突っ込んでしまったが、抱えている花束に視線を移すと、曖永は同じ笑顔のはずなのに、俺の知らない顔をしていた。
「僕、行かなくちゃいけない場所があるんだ」
「それを持ってか?」
「うん。だからイズミさんは先に帰って――」
「そう言われてはい、って素直に帰ると思うか?……ため込むな、全部。もっとお前のこと、教えてくれ」
「イズミさん……ごめんね。それは、できなくて。でもね」
しばらく線路沿いに歩いて、ようやくたどり着いた場所には、警察やパトカーが残っていた。
「もしかしてここ、人身事故があった場所か?」
「うん。ちょうど僕の乗ってた電車が、轢いちゃったみたい」
そのまま、白い紙束に包まれた色とりどりの花束を、そっと地面に置いた。
同じ電車に乗っているなかで、一体何人が曖永のように、黙祷を捧げるだろう。……正直俺は、自分自身を悔いた。きっと忙しい時だったら、運が悪かったな。とか、人によっては、他人に迷惑をかけるな。と考えるだろう。
「僕は必ず、弔いは忘れないようにしてるんだ」
こんな風に、ただしんしんと、故人の痛みに寄り添って。
――花束を手向ける姿は、まるで天使のようだった。




