第9話 火の音が返事になる
夕立上がりの夜は、炭がよく鳴く。
濡れた舗道に赤提灯の明かりが揺れ、焼き鳥・八兵衛ののれんがしっとり重くなる。
引き戸が開くと、火がぱちりと跳ねた。俺は返事代わりに「ヘイ、らっしゃい」とだけ口にする。
十年も顔を出し続けている常連なら、何も言わずに腰を下ろす。
俺の手が勝手に動き、冷えたジョッキとお通し、それから一本目の串を並べる。炭の前では、言葉なんていらん。
客は黙って出された串を食い、俺は黙って次を焼く。それで十分だ。
炭の爆ぜる音、皮の焦げる匂い。
その合間に聞こえるラジオの音が、この店を満たす唯一の会話だ。
◇ ◇ ◇
ある晩、常連が一人、黙って串を平らげて帰っていった。
勘定もひと言ふた言で済む。それが一番楽だ。
俺は炭を返しながら「毎度」と答え、また火に目を戻した。
──と、その時だ。
のれんがめくれ、ネクタイを緩めた若い男が転がり込んできた。
「こんばんはー! ここ、座っていいですか?」
元気がいい。だがそういう奴ほど、この店では浮く。
ああいう調子のやつは、火の前じゃ長持ちしねぇ。
案の定、矢継ぎ早に「メニューは?」「店の名前は大将から?」と聞いてきた。
炭がばちんと弾ける。俺の代わりに火が返事をした。
隣の常連が小さく首を振ってくれたおかげで、若いのもようやく黙った。
静けさが戻る。俺は胸の奥で、ほっと息をついた。
◇ ◇ ◇
串を返しながら横目で見ると、若いのは黙って食い始めていた。
炭火の匂いに落ち着いたのか、ジョッキをゆっくり傾ける姿も板についてきた。
……そうだ、それでいい。ここはそういう店だ。
客は黙り、俺も黙る。
言葉を交わさずとも、炭と煙がすべてを伝える。
◇ ◇ ◇
やがて若いのは串に満足したのか、ぽつりとつぶやいた。
「──うまかったです。塩加減がちょうどよかった」
俺は短くうなずいた。それ以上は要らない。
勘定を済ませ、彼は「また来ます」と笑ってのれんをくぐった。
静けさが戻った店内で、常連がぽつりとつぶやく。
「……たまにいますね、ああいうの」
俺は炭の灰を払いつつ答えた。
「……まあ、しょうがねぇ。いきなりここの流儀は、わかるめぇ」
火がぱちりと鳴った。
その音に背中を押されるように、つい付け足してしまう。
「……まあ、悪くはねぇ」
自分でも驚くほど、声に笑みが混じっていた。
顔を上げると、常連と目が合った。半年ぶりにだ。
無言のうちに、小さな笑いが交わされた。
◇ ◇ ◇
のれんの向こうに夜の風。
炭の匂いが店に溶け、また火がぱちりと応えた。
──言葉はなくても、伝わるものがある。
それを守るために、俺は今日も炭を返し続ける。




